その2
それからというもの、私が森に入るたびにシグは花畑で待っていてくれた。すっかり彼が気に入った私は、おばあちゃんの言いつけを破り小道を使うのをやめてしまった。彼と歩けば、森はもう危険で見知らぬ場所だとは思えなかったのだ。
おばあちゃんの小屋へ向かう途中、シグは私をいろいろな場所へと案内してくれた。どこまでも透き通った深い泉や、リス達の住む古木、奇妙な形をした岩が並んでいる空き地、森の木々の間にはほかにもたくさんの花畑が隠されていた。以前小道から見た光景を話せば、シグは迷わずそこへと私を導いてくれた。
私たちはいつも木々の下を並んで歩き、シグは礼儀正しく私の話に耳を傾けた。彼が語ってくれるのは遠い昔に起こった出来事や、この森の話ばかり。彼自身の事は一切話さない。だからと言って話が尽きる事はなかった。自分の目で見てきたたかのように話す様子に、彼はとんでもない嘘つきか、とんでもない年寄りのどちらかに違いない、と私は思った。
村での暮らしは退屈だ。村の人達は私に優しかったけれど自分の子供とつき合わせようとはしなかったので、私はいつも一人だった。この赤い頭巾をかぶるようになってからはなおさらだ。
シグとの森の散歩は私にとっての唯一の楽しみだった。そしてそれは十年後のある春の日まで続いた。
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その日はいつもよりも森に入るのが遅くなった。一旦、村まで出ておばあちゃんの薬を貰ってこなければならなかったのだ。近頃おばあちゃんは胸が苦しいと言ってよく横になっていた。本人は大した事はないと言い張るのだが、週に二回では心配なので、私はほぼ二日置きに様子を見に通っていた。
薬屋の主人はおばあちゃんの様子を詳しく聞きたがった。どれが一番効くかわからないからと薬を三種類も出してくれたのに、お金は請求しない。村人は魔女に感謝しているのだとシグは言っていたけれど、どうやらそれは本当らしい。
薬を受け取ると私は早足で引き返し、一度家に戻って髪を整えた。私のくすんだ茶色の髪は、シグの見事な金髪に比べると全く見栄えがしない。それでも私は丁寧に櫛を通した。どうせ馬鹿げた頭巾の下に隠れてしまうのだけど、彼に会うときはきちんとしていたかったのだ。
シグほど美しい人を私は見たことがなかった。彼の瞳は森の木々を映したかのような緑色、金細工みたいなまつげで縁取られている。肌は白くなめらかで、街で見た磁器の人形みたいだ。こんなに綺麗な人だったなんて、小さい頃にはちっとも気づかなかったのに。おばあちゃんには申し訳ないけれど、シグと会う機会が増えて私は内心うきうきしていた。
出会いから十年も経つのに、彼はまったく変わっていない。服装もあの時のまま、雨の森を歩いても濡れもしなかった。さすがに今では彼が人間ではないのに気付いていた。森の奥に住むという妖精の類なのだろう。もしかしたら、あの花畑に宿る精なのかもしれない。 私は彼に尋ねようとはしなかった。そんなことをしたら今の彼との関係が壊れてしまうかもしれない。そう思うと怖かったのだ。
その日もシグは花畑で待っていた。初めて出会った日のように空は晴れ渡り、空気はほんのりと暖かい。今が盛りの純白の花々は、金の花粉をそよ風に散らしている。いつものように満面の笑みを浮かべて彼は私を迎えた。
「遅かったですね。赤頭巾」
責めるでもなく彼が言った。彼はいつも私を赤頭巾と呼ぶ。何度私が頼んでも、名前で呼んでくれようとはしない。
「ごめんなさい。薬屋に寄ってきたの」
彼は手を伸ばすと私の手から籠を受け取った。いつも荷物を運んでくれるのに、決して私に触れることはない。木漏れ日の中を通り抜けるたびに彼の姿は揺らいで見えた。触れても実体などないのかもしれない。
その日のシグはずいぶんと無口だった。時々黙ったまま私の顔に目をやる。訳を聞いてはいけないような気がして何も話さず歩いているうちに、おばあちゃんの小屋が見えるところまで来てしまった。普段ならシグはここで引き返すのだが、その日はなかなか立ち去ろうとしない。
「どうかしたの?」
とうとう我慢ができなくなって私は彼に尋ねた。見上げた彼の体の向こうに、一瞬背後の木々が透けて見えた気がして私は目を凝らした。何かがひどく間違っているのにそれが何なのかわからない。突然込み上げてきた得体の知れない不安に私は身震いした。
「赤頭巾、お願いがあります。もう時間がないのです」
今までにない真剣な面持ちでシグが私に向き直った。
「その頭巾をはずしてはもらえませんか」
「だめよ。おばあちゃんに叱られるわ」
「あの方は気付きはしません。お願いです」
「でも……どうしてなの?」
「それが邪魔をして、私はあなたに触れる事ができません」
「シグは私に触れたいの?」
心臓がドクンと鳴った。
「ええ、あなたは美しい。一度でいいからあなたに触れてみたいのです。いけませんか?」
美しい? 私が? シグの口からそんな言葉を聞くとは思ってもいなかった私には、ぽかんと彼の顔を見つめ返すことしかできなかった。拒絶されたと思ったのだろう。彼の目に浮かんだ落胆の色に、私は慌てて頭巾を脱ぎ捨てた。
「ありがとうございます」
瞳を輝かせ、シグはまず礼を言った。どんな時でも彼はおかしなぐらい礼儀正しいのだ。彼は落ちている頭巾に触れないよう私に近づくと、私の頬にそっと右手を押し当てた。初めて触れる彼の手のひらは暖かく、わずかに震えている。ふふ、と声を立てて彼が笑った。
「どうしたの?」
「柔らかいのですね」
彼の手が熱い。いや、熱を持っているのは私の顔の方だ。恥ずかしくなって身を引こうとした私の肩を彼の腕が捕らえ、そのまま自分の胸へと抱き寄せた。
彼の大きな身体に包まれて、私の心臓は爆発しそうだった。背の低い私の頭はシグの胸の辺りまでしか届かない。見た目よりも厚い胸板を通して彼の速い鼓動が響いてくる。震える声で私は尋ねた。
「時間がないってどういうことなの?」
私を抱くシグの腕に力がこもった。
「魔法が弱くなっているのです。このままではもうこの姿を保つことができなくなってしまいます」
「シグは消えてしまうの?」
「いいえ、でもあなたはもう私に会いたいと思わないかもしれません」
「どうして?」
彼はその質問には答えず、いきなり私に口付けた。間近に迫る彼の瞳の奥に吸い込まれそうな気がして、私はぎゅっと目を閉じた。ただ唇を押し付けられているだけだというのに、全身の力が抜け膝ががくがくと震える。くずおれかけた私の体をシグの力強い腕が支えてくれた。
ようやく彼の唇が離れ、私は目を開いた。シグは少し照れたように、それでも目をそらさずに私を見つめている。 ぼんやりと霞のかかった頭で、私は一度も尋ねなかった質問をした。
「あなたはなんなの?」
シグはそれにも答えず、悲しげな口調でこう言っただけだった。
「これだけは覚えていてください。赤頭巾、私はあなたを愛しています」
そのとき後ろから大きな怒鳴り声がした。
「お前、何をしてるんだい!」
小屋の前におばあちゃんが立っていた。ブナの木の間を抜けて、ずんずんこちらに向かってくる。お日様はとっくに頭上を通り過ぎていた。いつもより遅い私を心配して様子を見に出てきたのだろう。
シグは雷にでも打たれたかのように飛び上がり、くるりと向きを変えると一目散に走り出した。まるで肉屋の主人に見つかった泥棒猫のようだ。
おばあちゃんは彼の背中に向かって容赦なく怒鳴りつけた。
「あたしの孫に近づくんじゃないよ。どうせろくなこと、考えてやしないんだろう」
私は驚いておばあちゃんに駆け寄った。
「おばあちゃん、やめて。シグは何も悪い事してないよ」
「いつからあいつに付き纏われてるんだい?」
「最初に森に来るようになってすぐ……」
「なんだって? どうして黙ってた」
どうしてだろう? きっと私は知ってたんだ。もし話せば、おあばちゃんはいい顔をしないって。
「あいつに触られたのかい」
「少しだけよ。さっきが初めて」
おばあちゃんは厳しい顔で私の目を覗き込んだが、私が嘘をついていないのがわかったのかすぐに表情を和らげた。
「いいかい、あいつの言うことを信じるんじゃないよ」
私にそう告げると、おばあちゃんはその話題はもう忘れたかのように別の話をはじめた。そして悲しいことに、その日からシグはぱったりと姿を現さなくなったのだ。
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それからしばらく経ったある日、おばあちゃんが言った。
「お前、あたしに腹を立ててるんだろう」
「どうしてそう思うの?」
「シグのことさ。お前に会いに来なくなったからね」
「腹なんて立ててないわ」
腹を立ててはいなかった。それは本当だ。おばあちゃんのする事にはみんな理由がある。ただ……ひどくがっかりしていただけだ。
「あいつが気になるのかい」
「少しね」
「ふうん。お前も年頃だからね。あんな綺麗な男は街まで行ったっていやしないんだろう?」
図星を指され赤くなった私を見ておばあちゃんは笑った。
「あいつは駄目だよ。男はね、見かけじゃないんだよ。このあたしは騙されやしないさ」
シグが現れなくなっても、私は小道を使わずにおばあちゃんの小屋まで通った。森のこちら側は、今では私の庭みたいなものだ。『人間を憎む者たち』は赤い頭巾をかぶった私に危害を加えることはできない。狼より強いシグでさえ私に触れられなかったぐらいなのだから。
それに、どこかでまたシグに出会えるんじゃないかって期待していたのもある。あの道を歩けば彼は私に近づけない。今の私にはそれがよく分かっていた。