後編
翌朝早くに父と二人だけで車に乗り込んだ。母とおばさんはしばらく残るらしい。サトミは顔を見せなかった。
その後、母はサトミの引越しが住むまで一緒にいた。その間我が家の食卓その他諸々は、もうひどい有様だった。年内も残すところ数日になって帰宅した母は、その惨状を目の当たりにして微笑んだ。
「三日で大掃除を終わらせないと我が家にお正月はきません」
母の言葉を聞いた父は、マンガを地でいく驚愕の表情を見せ、顔色を蒼白にしながら驚異的な速度と効率で家中を掃除し始めた。
「マコト、母さんのアレはまずい。非常にまずいぞ」
怯える父に理由を聞いたところ、それだけ言ってまたすぐに掃除を続けた。
一方、母は悠然とおせち料理を作っていた。
父の奮闘もあり、年が明けて無事にお正月を迎えた。
年始のあいさつには必ず顔を出していたおばさんも、今年は電話が一度あっただけで姿を見せることはなかった。
あっという間に冬休みが終わり、三学期が始まった。サトミは東京の中学に転校した。
電車に乗れば一時間とかからない距離にいるというのに、会いに行く気にはなれなかった。あの夜の涙には、ただ祖母の死を悼む以上のたくさんのものがあるような気がしてならない。それが何なのか想像すらできず、会っても何を言えばいいのかわからなかったからだ。
一月に一度は顔を見せていたおばさんも、しばらくの間電話はかけてきても足を運ぶことはなかった。
祖母が亡くなったとはいえ、普段の生活に変化は全くない。退屈な日々が過ぎ、春がきて、夏になった。高校受験はもう逃げられない問題として目前に迫り、そんな日々にため息を添えてくれた。
一学期最後の日、終業式の後に同じクラスの水谷が突然声をかけてきた。
「鈴木、ちょっと話があるんだけど」
小学校から同じではあるが、特に交流があるわけでもなく過ごしてきたので戸惑った。帰り支度をしてから言われるまま後について行くと、校舎を出て体育館の脇についた。表側からは視線が遮られて見えない場所だ。表立ってはできないことをするのに丁度いい場所、として定番なので、少し身構えてしまった。
一人、先客がいた。見覚えのある顔。確か、小学校から水谷と仲の良い山田だ。中学に入ってからはずっと違うクラスだった。
「山田、連れてきた」
水谷はそう言って踵を返した。
「待ってよ。話って」
なんとなく予想できる展開になってきたが、いちおう水谷を呼びとめた。
「山田が話したいって。それじゃあ」
ため息をついて、向き直った。その顔はもう真っ赤になっていて、まともに話すことなんてできないことが一目瞭然だ。
「あ、あの、ごめんね。呼び出したりして。そんなつもりじゃなかったんだけど水谷がおもしろがって、なんか、その」
勢いでそこまで言うとあとは視線をあちこちにふらふらさせながら、あの、えと、とかぶつぶつ言い続けるだけだった。
正直なところ、自分がそういう対象として見られていた事が意外だった。それでも山田の気持ちがどんなものなのかは気になった。いつからなのだろう。何がきっかけだったのだろう。どうして話す気になったのだろう。この様子を見るともしかしたら水谷が先走っただけなのかもしれないけど。
申し訳ないとは思うけど、山田の気持ちに応えるのは無理だ。色々あったけど、今でもサトミのことを考えると胸の中がざわつく。以前のようにただ好きなんだとは思えなくなってしまったけど、この気持ちを整理しない限り誰かを好きになることはないだろう。
山田はもう何も言わず、ただじっと足元の一点を見つめていた。顔は真っ赤になったままで、両手は力強く握られている。
想いを伝えたいという気持ちはよくわかる。それを口に出来ない辛さも知っている。言い出すことの難しさも痛いほど理解できる。だから今の山田の姿はつい手を差し伸べたくなる。
だけどそれは自分から言い出さないといけないことも知っているから、何も言わずにじっと、ただ見つめていた。
もし目の前で自分にはなかった、それらの苦しさを乗り越える強さを見せつけられたとしたら、その時はどうすればそんな強さを身につけられたのか聞いてみたいと思った。
しかし山田はいつまでも黙ったままだった。
今日は終業式と少し長めのホームルームだけで終わったので、もうすぐお昼の時間になる。そして見事なほど晴れ渡った夏空。日陰になっている場所とはいえさすがに長時間立っているには辛い。カバンを持ったままの手も痛くなってきた。どうしようか。
ずいぶん時間も経っただろうと、ちらりと腕時計に目をやった。教室を出てから四十分くらいか。
再び山田を見ると、真っ赤な顔を上げて何か決心したように見つめていた。思わぬ強い瞳に、目が合って少したじろいだ。
いよいよか、と身構えたが、結局口を半開きにしただけでその瞳の強さは失われてしまった。まだ、その時ではなかったのだろう。肩の力が抜けて、初めて自分も緊張していたことに気がついた。
「カバン、教室?」
「えっ」
質問の意図がつかめないのか、唐突過ぎて聞き取れなかったのか。山田は驚いた表情のまましばし固まった。
「教室までつきあうよ。取りに行こう」
これで終わり、という意思表示のために踵を返した。
「あの、でも」
背中に引き止める声が当たる。足を止め、半分だけ振り返って言った。
「本当に言いたくなったのなら、いつでも聞くよ」
山田は観念したように肩を落とすと、半歩踏み出した。
校舎はすっかり人影がなくなっていた。蒸し暑い廊下には蝉の声だけが響いていた。
校門を出ると、山田は「ごめん」と言って走り去った。いろんな疑問を、その背中にぶつけてみたかった。山田は答えてくれるだろうか。
それはとても残酷なことだということも、わかっていた。
その日はずっと山田のことばかり考えていた。記憶を掘り返してみても何かを話したことなどほとんど思い出せない。何がきっかけだったのか、それだけでも聞いてみたい。
自分は何がきっかけだったろう。
それからしばらくはサトミとの思い出を振り返ってばかりいた。受験のために三年から通い始めた塾の授業もあまり身が入らなかった。
小学校に上がる前は、一緒に遊んでいるのがただ楽しかった。好きなんだ、と初めて意識したのはいつだろうか。はっきり思い出せないことがとても不思議だった。
塾から帰ると小学校の卒業アルバムを開いてみた。あの、いくつかの質問のページ。記憶にない項目が目に止まった。
あなたの初恋はいつですか?
五年生、と書かれていた。これを書いた当時は、五年生の夏にサトミを好きになったと感じていたのだろう。それはおばさんが離婚した年。サトミが祖母と一緒に暮らし始めた夏。いつものように楽しかった事は覚えているが、細かいことまでは思い出せなかった。
写真が残っているはずだ。アルバムはどこにあるのだろう。
居間を見回してみたがそれらしき物は見当たらない。母も出かけているようで姿が見えない。デジカメのデータなら父のPCにあるはずだ。
こっそり父の部屋に入って、PCの電源を入れた。初めてだが、学校の授業で何度か使っているので操作方法はわかっていた。大きな椅子に座り、カタカタと小さな音を聞きながらしばらく待つ。父の部屋に入るのはいつ以来だったか。モニターに去年サトミと並んで撮った浴衣の写真が大きく写し出されてげんなりした。
デスクトップには仕事関係のものらしい名前のフォルダが並んでいた。怪しい場所をいくつかクリックしてみたがデジカメのデータは見つからなかった。
「ただいま。何してるの?」
急に声をかけられて飛び上がりそうになった。
「おかえり」
思わず胸に手を当てた。破裂するのではないかと心配になるほど激しく脈打っていた。
「アルバムってどこにあるのかなと思って」
「アルバムならここよ」
母はそう言ってすぐ横にある本棚からあっさり取り出した。PCの電源は切った。
「どうしたの?いつも写真嫌がってるのに。お父さんに話したら喜ぶわね」
「うん。ちょっと」
「そう」
分厚いアルバムは持つとずっしり重かった。自分の部屋に戻って表紙を開く。生まれたばかりの写真が丁寧にコメント付きで並んでいる。妙な気恥ずかしさを感じて、次々にページをめくる。最後のページは一才の誕生日で終わっていた。
父の写真好きを考えればアルバム一冊に全てまとまっているとは思わなかったが、さすがに呆れた。再び父の部屋に戻り本棚からいくつかのアルバムを見つけ、マコト十~十二歳と書かれたものを選んだ。
この頃はもう写真を撮られるのが嫌だった。カメラを構える父に向けてノートを投げつけている姿も残っている。成長するにつれて枚数が減っていたが、そのかわりに母を撮ったものが増えていた。その表情は、今まで見たことのない笑顔だった。
五年生の夏に撮った写真は、それほど多くなかった。すいかを食べているもの、昼寝の最中に撮られたもの、川原で遊んでいるもの。何枚か見て気がついた。サトミと一緒に写っている写真がない。
ページを手繰り、四年生の夏を見返した。数枚だがサトミと並んで写っている。
再び五年生のページを見る。最初から順に見直してみた。コメントも一枚ずつ読んでいく。
一枚の写真が気になった。母とサトミが写っている。そのサトミの表情を見た途端にいっぺんに記憶が蘇ってきた。
その年、サトミに会ったときまず思ったのが、元気がない、だった。だが写真を見るとそれどころではない。完全に無表情だった。
話しかければ答えてくれた。それは確かだ。平泳ぎが出来るようになったとか、新しいゲーム機を買ってもらったとか話した記憶も思い出した。ただ、何かがなければずっと部屋にこもっていた。
嫌われてしまったのかと思い、直接聞いたのだった。サトミはそうではないと言ってくれたが、それ以外は何も教えてくれなかった。
ずっと気になって、帰ってからもサトミを気にしていた。そんなことはそれまでなかったことだ。
そして、六年生の夏。変わらず部屋にこもりがちだったサトミは、釣りに行くときについて来なかった。それがとてもつまらなくて、そうだ、そのせいで中学一年の夏には行かなかったのだ。
中学に入ってからのサトミは、写真にも笑顔を残している。
混乱した。
何がきっかけでサトミを好きだと思うようになったのかが全くわからない。まだ忘れていることがあるのではないかと思って、次々にページをめくり細かく写真を見つめた。
小さな泡が湧き出るように、少しずつ記憶が掘り起こされていく。
五年生の秋も冬もサトミのことが頭から離れなかった。六年生になってからは夏休みが待ち遠しかった。そして、そのことでとても悩んでいた。サトミのことが好きなのではないかと思った時、同時にそれがとてもおかしなことだということにも気付いたからだ。
悩まなくなったきっかけは六年生の秋に聞いた言葉だ。
「好きになったのだからしょうがない」
おそらくテレビか何かで聞いたのだろう。詳しくは覚えていないけど、胸の奥に何かがはまった気がした。
しかし今になって思い返すとそれは本当に恋だったのだろうか。去年の夏、サトミとあった時の胸の高鳴りはマンガやドラマで見た「恋愛」と同じように思えた。だが本当はただの勘違いで、ただのいとこの女の子であるサトミを好きになるなんてありえないのではないか。
急に怖くなってアルバムを閉じた。父の部屋の本棚に戻すときも、それが見てはいけないものだったような気がした。
机の上に開きっぱなしだった卒業アルバムを片付けようとしたとき、ふと思いついた。
指でなぞりながら山田のところを見つけた。この時には好きな人もいないし初恋もまだだったようだ。そのまま信じるのなら、山田は中学に入ってから恋をしたことになる。
なぜだか、少しほっとした。
今年の夏は母の実家には行かない。わかっていたことだが、毎年家を開けていた時期が近づくに連れてやりきれない寂しさが募ってきた。
おばさんもやはり寂しかったようで、いつものようにおみやげを持ってやってきた。春頃から時折顔を出すようになっていたのだが、サトミはいつもいなかった。今回も塾の夏期講習があるからと言って来なかった。
「高校受験ってもっと気楽だった気がするけどねえ。やっぱり田舎と都会じゃ違うのね」
おばさんは自分の過去と比べてそう言う。
「サトミちゃんは成績いいんでしょう。私立の高校受けるの?」
「なんだか近くにある都立高がいいところらしくて、そこにするみたいよ」
水羊羹を食べながら母とおばさんの話を聞いていたが、この会話を耳にして正直がっかりした。私立であれば、もしかしたら同じ高校に通えるかもしれないと思っていたから。
「なんていったかな。えーと……」
おばさんがその後口にした名前を聞いて、唖然とした。都内の公立なんて関係ないのでほとんど知識はないのだけど、それでも聞いた事があるくらい有名なところだった。そんなところを目指すのであればもし私立に行くことになったとしても、同じ高校なんてとても無理だろう。今の自分とサトミとの間に大きな隔たりがあることを痛感した。
サトミにもっと近づきたいと思った。それはなんとなく夏を待ち遠しく思っていた頃の気持ちと似ているような気がした。
同じ高校へ通うことがかなわないとわかったけれど、勉強は以前より集中して取り組むようになった。少しでも差を埋めたい。ただそれだけ考えていた。
秋が過ぎ、冬が近づいてきた。
祖母の一周忌は受験も間近だからと言って母とおばさんだけで済ませることになった。
あの夜以来、サトミとは会っていない。今は会いたくなかった。会ってもまだ話せないと思っていた。
アルバムを見た日から、自分の言葉がどれだけ届いていたのか疑問でならなかった。ひとりよがりの言葉なんてもう必要ない。伝えたい言葉をきちんと伝えたいから、今はとにかく近づきたいとだけ思っていた。
成果は出ていた。志望校のランクも夏に比べて二つ上げられた。これでもまだサトミには届かないけれど。
学校では時々水谷や山田と話すようになっていた。元々特に仲のよいグループがあったわけでもなく孤立しがちだったので、話しかけられるままに相手をしていたら他の人よりは仲が良いという程度になっただけだが。
山田はあれから何も言って来ないが、あからさまにこちらを意識していた。それに気付いてなのだろうが、水谷がしょっちゅうからかうので鬱陶しいことも多い。山田に聞きたい事は山ほどあったが、まだ一つも聞けていない。はっきり言ってくれればきっぱりと断って、それから話せることもあるのだろうに。
思うことはたくさんあったが、水谷と山田といるのは新鮮だった。勉強に没頭してばかりの時に気分転換ができたし、受験への愚痴や小さな悩みを話せたことも大きかった。三人で放課後勉強することもたびたびあった。二学期が終わる頃にはすっかり友達と言える仲になっていた。
あっという間に年が明け、受験の日がやってきた。朝、緊張のあまりレンズにふたをかぶせたままシャッターを押す父を見て吹き出した。
結果が出ると、サトミと電話で話した。第一志望に受かったことを報告し合い、長い間声も聞いていない事態になったのはお互いに連絡を待っていたせいだとわかった。
山田が同じ高校に合格していたことを聞き、水谷までもが補欠合格で滑りこんだと言った。それも素直に嬉しかった。
涙を流すクラスメイトを少しうらやましく思った卒業式の後、久しぶりにサトミと会った。しばらく見ない間にまた背が伸びて、髪もさらに長くなっていた。
「卒業式の後、隣のクラスの人から告白されちゃった。この後用事があるからって言って断ったんだけど、また言いに来たらどうしよう」
家に向かう途中、サトミはそんなことを言って笑った。緊張感の欠片も見せないその笑顔を見たら、少しいじわるしてやりたくなった。
夜は両親とおばさんと、サトミと一緒に卒業と高校進学のお祝いをした。両親から高校生になったら必要だろうからと、携帯電話をもらった。
「これでいつでも連絡できるね」
その場で番号を交換すると、サトミはうれしそうに笑顔を見せた。
それから頻繁にサトミと連絡を取るようになった。高校に入学してからもこまめにメールのやりとりをしていたし、週末には東京に買い物へ出かけたりもした。
楽しかった。だけど、心のどこかで引っかかっている物がいつも落ち着かない気分にさせた。あの時アルバムを閉じると同時に深い底の方へ押し込めていた疑問が、サトミと会うたびに少しずつ浮かび上がってきた。
充実した日が過ぎ、一学期の最後の日に山田に呼び出された。今度は水谷を通してではなく直接。
「一年前には言えなかったけど」
誰もいなくなった教室で山田はそう切り出した。その瞳にもう迷いはなかった。
「ずっと好きでした。付き合ってください」
はっきりと、よどみなく言った。
なんとなくそうなのだろうと思ってはいたけど、あらためて言われると心が揺れた。一年前からもしその時がきたらはっきりと断ろうと決めていたのに、ずっと用意していたはずの言葉をすぐに言うことができなかった。
山田はまっすぐ見つめてくる。その瞳を見つめ返すことができなくて、視線をそらせたまま答えた。
「他に、好きな人がいるから……ごめん」
山田は胸に手を当てて大きく二度深呼吸をした。
「うん。そうじゃないかと思ってた」
「そんな、なんで」
「これでも、ずっと見てたから」
「そうじゃなくて」
「はっきり言いたいって思ったんだ。だから言った。それに、なんだか迷ってるみたいだからもしかしたら、っていうのもあったんだけど」
山田の言葉は予想を遥かに越えていた。サトミのことを話したことなんてないし、山田も水谷もいとこがいることすら知らないだろう。見ていただけなのにそこまでわかってしまうのだろうか。自分にはサトミのことをわかってあげることなんてできなかったのに。
「山田は」
「うん」
「どうして好きになったの」
「え、それ言わないとだめなの」
それまでずっとまっすぐに見つめていた視線が宙をさまよった。
「聞かせて欲しい」
じっと見つめると、しばらく沈黙した後に話してくれた。
「中一の時、水谷が告白して断られたことがあるんだ。でもそれが他の人にばれてすごくからかわれて」
「そんなことあったんだ」
「うん。それで、水谷が廊下でかこまれて冷やかされてた時に」
「あ、それはなんとなく覚えてる。あんまり鬱陶しかったから文句言った気がする。なんて言ったのかは覚えてないけど」
「人を好きになることの何が悪いんだ、って言ったんだよ。それを聞いて、かっこいいなって思ったんだ」
「それがきっかけ?」
「うん」
照れくさそうな山田を見ていたら、自分が本当は何を聞きたかったのかわからなくなった。
「話してくれてありがとう。でも」
「うん。わかってる」
山田はさっぱりとした顔をしていた。
夏休みの間も山田と水谷と三人で何度か遊びに出かけた。山田は溜め込んでいたものを吐き出したせいか、今までよりはっきりと物を言うようになった。
サトミとも何度も出かけた。高校に入ってからサトミはますますきれいになっていて、会うたびにため息がもれた。惹きこまれるような笑顔を見ていると、写真に残された無表情だった頃とは別人のようだ。
頻繁に会うようになったのに、あの頃サトミに何があったのか、どうやってまた今のように笑えるようになったのかは、まだ聞いていない。何と言って聞けばいいのかわからなかった。何かきっかけがあればと思ったが、でも、できればサトミの方から話して欲しいとも思っていた。
「二学期になったら学園祭、あるよね?」
「うん。九月末にあるよ」
「そっかあ。日にち重なってなかったら見に行くね。マコトも見に来てよ」
そんな話をしていた時、いつになく楽しそうな表情を見せてくれた。
「中学の時もあったよ。文化祭」
「えっ。なんで教えてくれなかったの」
「なんでって、だって」
お祭りが好きなんだ、と熱っぽく語るサトミは子供のようだった。それからお互いの学園祭について話した。サトミの高校は毎年とても活気のある催しをするらしく、とても張り切っていた。こちらは、お祭り好きの期待に沿えるか心配だった。
学園祭当日、実行委員というめんどうな役職に就いてしまったことを後悔しつつ巡回をしていた。しかも、同じく委員である山田と並んで。
高校の学園祭は、想像していたよりもずっと大掛かりで人出も多かった。一年に一度だから楽だろうと思ってなった実行委員だったが、来年はやめておこう。
階段付近で騒いでる生徒がいると聞いて向かうと、顔にペイントを施した男女数人が大声を出して踊っていた。
「何やってるんだ、あれ」
バカ騒ぎに頭痛を覚えながら騒いでいた連中を散らすと、水谷が混じっていた。
「やあやあお二人さん。お疲れお疲れ」
「それ、何のペイント?」
「わかんない。なんか楽しそうだったから」
水谷は何が楽しいのか、山田に飛びついてはしゃぎだした。
学校中がこんな雰囲気だった。とてもサトミに見せられない。そう思って深くため息をついた。
「マコトー。やっと見つけた」
背後からよく知っている声が聞こえて、思わず天を仰いだ。振り返ると母とおばさんと、サトミが立っていた。
「すごいね! お祭りって感じ!」
心配とは裏腹に好評のようだった。それはそれでどうなんだろうか。
「ごめんね、品がなくて」
「そんなことないよ。ほら、あのお神輿とか。すごい」
興奮して窓の方を指さす。グラウンドで手作りの神輿を担いでパレードをしている。
「あ、もしかして今忙しい?」
サトミが実行委員と書かれた腕章に気付いたようだ。
「もう少しで交代の時間だから大丈夫」
「そっか。じゃあ終わったら連絡して。それまでお母さんたちと見てるね」
また後で、と言って三人は人ごみにまぎれて行った。
肩を叩かれて振り向いた。
「もしもし、先ほどのすごい美人はどういったご関係の方でしょうか」
水谷が神妙な顔で聞いてきた。見られてしまった以上、仕方がないのでサトミのことを話した。もちろん、仲のよいいとこ、という程度だが。
水谷は「また後で紹介して」と言ってどこかへ去った。
見回りを再開したところで、ずっと黙っていた山田が唐突に口を開いた。
「好きな人って、さっきの人?」
呼吸が止まるかと思うほど驚いた。それを悟られないようになるべく平静を装って返事をしようと試みた。
「なんのはな」
「ああ、やっぱりそうなんだ」
最後まで言い終わる前に、山田は確信したように言った。最近気が付いたけど、山田は最初の印象よりもずっとしっかりしているようだ。きっとごまかそうとしてもだめなのだろう。
「なんでわかったの」
つい投げやりな言い方になってしまった。
「わかるよ」
「普通わかんないよ。親だって知らないんだよ」
「それは可能性として考慮していないからじゃないの」
「それって、やっぱり変ってこと?」
自分の中でずっとくすぶっていたことを、ついに他人にぶつけてしまった。
「変だよ」
山田は、はっきりと言った。
頭をガンと殴られたような気分になった。一瞬視界が暗転して思わず立ち止まってしまった。
「ごめん、ちょっと気分悪いからこれ持ってって」
腕章を渡すと、踵を返して走った。人ごみをかき分けて階段を駆け下りる。いぶかしむ人目を気にせず玄関を抜けて講堂の陰まで走りぬけた。
立ち止まって人目がなくなったのを確認する。走ったせいで呼吸が荒いがそれ以上に動揺が収まらない。コンクリートの壁にもたれかかると、膝から崩れるようにしゃがみこんだ。
ずっと怖かった。自分の気持ちが普通ではないとわかってしまうことが。自分自身なんとなくそうなのではないかと思っていたからこそ、それをはっきりと宣言されてしまったことに耐えられなかった。胸が苦しい。のどの奥に針を突っ込まれたような、ずきずきと刺しこむ痛みが走る。涙があふれて止まらなかった。大声で叫び出したいのを必死で抑え込んだ。祭りの喧騒が辛かった。
しばらくして、ポケットの携帯が鳴った。サトミの名前が表示されている。
「もしもし」
極力涙声を悟られないようにしたつもりだった。
「まだ忙しいかな? 連絡こないからどうしたかなって」
「さっき終わったとこ。今どこ」
合流場所を確認して電話を切った。泣いていたことに気付かれてしまっただろうか。講堂のトイレで顔を洗ってから向かった。
サトミは一人で待っていた。母とおばさんは別にまわることにしたらしい。
「ねえ。さっきの二人って友達?」
「うん。小学校から一緒なんだ」
「そっかあ。どっちかと付き合ったりしてるの?」
いつものからかうような笑顔が、今は心無いものに見えた。
「そういうのではないよ。急にどうしたの」
「マコトもそういうお年頃かなって」
「じゃあサトミもそういうお年頃なんだ」
「さあ。どうでしょう」
含むような微笑は、本気なのか演技なのか、わからなかった。
次の週末に訪れたサトミの高校の学園祭は、とにかくすごかった。同じ高校生とは思えないほどひとつひとつのレベルが高く、圧倒されるばかりだ。母とおばさんも絶賛の嵐だった。
学校の中にいるサトミは自分が知っているのとは別人のようで、どこか取り残されたような気分になってしまった。もしかしたら、サトミもそんな気分になったのだろうか。
山田とは学園祭以降、妙な雰囲気になってしまった。悪気があって言ったのではないとわかってはいるのだが、顔を合わせるとお互い視線を逸らすようになってしまっていた。
水谷は知ってか知らずかわざとらしいほど三人で行動しようとするので、ますますぎくしゃくするばかりだった。
一度ちゃんと話さなければと思いながらも、半端な状態のまま日々が過ぎていった。
最初に我慢できなくなったのは水谷だった。放課後、無理矢理マックに連れ込むと説教するように話始めた。
「なんなの。わかんないんだけど。どっちでもいいから説明してくれない?」
説明のしようがない、とは言えずただ黙りこむしかなかった。
「気持ち悪いわけよ。すっきりしないのよ。こういうの苦手なのよ」
水谷は苛立ちをあらわにしていた。今までずっと我慢していたのだろう。関係ないんだからそっとしておいて欲しいと思いながらも申し訳なかった。
「わかった。わかったから」
山田が観念した様子で言った。
「でも説明はできない。できないけど、ちゃんとするから」
「なんで説明できないのさ。気分悪いんだけど」
「どうしても話せないことだから。悪いけど」
「二人だけの話関係なわけ?」
「そう。だと、思う」
「わかった。じゃあ一週間だけ待つ。それでもダメなら無理矢理でも口をわらせる」
できることなら話したくはなかった。水谷が諦めてくれれば、と少し目線を上げて表情をうかがった。
「そんな顔したってだめだぞ、鈴木。だいたい原因はお前だろう。なんか、そんな気がする」
よほど嫌そうな顔に見えたのだろう。とにかく、そんなやりとりの後、水谷は一人先に帰っていった。残された山田との間に気まずい空気が流れた。
長い長い無言の間が続いた。
「いつにする」
先に口を開いたのは山田。
「いつって?」
「今からでもいいけど、そんな気分じゃないでしょ」
「そうだね」
「だから、いつにする」
「いつでもいいよ」
「いつにする」
ため息が出た。
「日曜日で」
「場所は」
「中央公園」
「わかった」
山田は席を立った。
それから日曜までの間、水谷はわざとらしいほどに話しかけてこなかった。水谷なりの意思表示なのだろう。落ち着いて考えれば、それだけ心配してくれているのだとすぐにわかった。だからといって簡単に話せることでもなく、日曜が来ないまま来週になってしまえばいいのになんてことばかり考えていた。
十一月になりすっかり風も冷たくなっていた。待ち合わせの公園では寒くて話もできそうにないので、すぐ近くの喫茶店に入った。
店内の奥、あまり人目につかない席に座り、注文したものが出てくるのを待って話を始めた。
「ごめん」
山田がいきなり頭を下げた。
「それだけ言われてもわからないんだけど」
「学園祭の時、怒らせちゃったから」
「もういいよ。自分でもなんとなくわかってたことだから」
「そう」
山田はホットコーヒーを一口飲んで、眉間に皺を寄せた。
「やっぱり、変だよね」
山田は、今度はすぐには答えなかった。二度、何かを言いかけてやめ、そして言った。
「他に好きになった人っているの?」
「いない」
「それじゃあ、今好きだと思ってる気持ちが、本当にそれは好きってことなんだって断言できる?」
「勘違いじゃないかってこと?」
「ひと言で言えば、そう」
「そんなの、わからないよ」
「それならどうして好きな人がいるって言えるの」
「それはお互い様でしょ? 山田は違うの?」
「違うよ。違う。だってそうじゃない」
「違わないよ。好きかどうかなんて自分にしかわからないじゃない」
思わず声が大きくなりそうになった。こぶしをぎゅっと握り締めて昂ぶりかけた感情をこらえる。
「だって、違うじゃないか。こんなこと、言いたくないけど」
山田の声は弱弱しかった。
「ずっと聞きたかった事があるんだけど」
「なに?」
「山田はどうして告白する気になったの」
「それは」
顔はこちらを向いたままだが、視線があちこちに飛んでいる。いつの間にか山田も両手を握り締めていた。
「それは、知って欲しかったから。だから言った」
その言葉を受け止め切れなくて、逃げ出したくて矢継ぎ早にまくしたてた。
「友情と恋って何が違うの?」
こんな幼稚で心のこもらない言葉に、
「それは」
「愛情ってなに? 恋とどう違うの?」
こんなにありきたりでつまらない問いかけに、
「そんなの」
「人を好きになるってどういうことなの?」
山田は必死な顔を返してくる。
「わかんないよ!」
声を抑えたまま、言葉を吐き捨てるように強く言った。
「わからないなら、どうして違うなんて言えるの? 変だなんて言うの? 自分にだってわからないんだよ」
山田は険しい顔をしたままコーヒーを一気に飲んだ。
ほんの僅かな間。山田と真っ向から向き合えない自分に罪悪感を抱いた。
「苦い」
「え?」
「紅茶にすればよかった」
店員さんに少し蒸らしてから注いでくださいと言われたきり紅茶をそのままにしていたことを思い出した。ポットをゆっくり傾けると、明らかに濃すぎる紅茶が出てきた。一口飲んでみたら、やっぱり渋くなっていた。
「鈴木は、その……」
「なに」
「女の人じゃないとだめなの?」
山田の言葉の意味を一瞬計りかねた。
「それは、わからないよ。他の人を好きになったことなんてないし」
「どうして好きだって思ったの? だっておかしいじゃない。女の子同士なのに」
山田は何かを吹っ切るように言った。
「気がついたら好きなんだって思ってた。おかしなことなのかなって悩んだこともあったけど、好きになったんだからしょうがないって。そう考えたら辛くないから」
「やっぱりおかしいよ。辛くないから好きでいようとするなんて。違うと思う」
山田の言葉が痛いのは、自分自身どこかで同じことを考えていたせいだろう。言葉にして伝えてもサトミが困るだけだと思っていたことが何よりの証拠だ。どうしたってサトミが受け入れてくれないことは、最初からわかっていたことなのに。それでも好きでいたかった。余計な事を気にしないで、ただ想っていたかった。
サトミを好きでいた心が枯れていくことに、気付きたくなかった。
「なんで、なんで気付いたの。なんでそっとしておいてくれなかったの」
感情のままの言葉が口からこぼれた途端、涙まであふれてきた。
「鈴木のこと、もっと知りたかったから。おれのこと、もっと知って欲しかったから」
山田はそう言った。
「好きになったから、黙ってられなかった」
目の前がゆがんで、何も見えなくなっていた。素直な気持ちを伝えられる山田がうらやましくてしかたがなかった。
少し落ち着いてから店を出た。そのままなんとなく並んで公園を歩いていたら、山田が遠慮がちに聞いてきた。
「言わないの」
「なにを」
「好きだ、って」
「言わない。絶対言わない」
「もしかしたら」
「もしかしたらなんて考えない。困らせたくない」
もう、笑わなくなったサトミなんて見たくなかった。
「好きなんでしょ?」
「山田の好きだけが好きの全部じゃない」
「そうだね……」
「あと、他の人に言ったら絶対ゆるさない。特に水谷」
「わかった」
山田はそこでようやく笑った。
「心配してるだろうから、メールしとこうか。あいつも不器用だよね」
「昔からそうなんだ」
解決した、とだけメールを送ったら、即電話がかかってきた。仕方なく出ると大きな声で説教しはじめた。「心配かけてごめん」と言ったら、突然泣き出して「悩んでるならちゃんと相談してくれ」と懇願されてしまった。
公園の出口で別れることにした。
「それじゃあ、また学校で」
「おれ、あきらめないよ」
山田の表情は真剣そのものだった。
「勝手にしなよ。望みはないよ」
だから、せめてとびきりの笑顔でそう答えてやった。
帰り道、ゆっくり考えてひとつの結論を出した。
山田の言っていた「もっと知りたかったから」が好きになることなら、やはりサトミのことは好きだったのだ。元気のないサトミを想って、その原因を知りたかった。力になってあげたかった。
中二の夏、サトミを見て心が揺れなかったあの夜。思い返せばあの日の昼間、久しぶりにサトミの笑顔を見たのだった。きっと、原因がわからなくてもサトミの笑顔が戻ってきたことで満足したのだろう。
そのあともサトミを見るたびに心が動いていたのは、きっとサトミがあまりにもきれいだったから。女の目から見てもどきっとさせられるほどのサトミなら、それも仕方ないことだと、そういうことにした。
家に帰ってからまた小学校の卒業アルバムを開いた。
「あなたの初恋はいつですか?」
今なら自信を持って言える。小学五年生の夏休みです。
もうすぐ桜の咲く季節だというのに、真冬のような寒さと分厚い雲に覆われた空の下、大学受験の合格発表を見に来ていた。
祈るような気持ちで、いや、祈りながら掲示板を穴が開くほど見つめ続ける。
「あった」
隣で発せられた小さな声にはっとして振り向く。
「あった、両方あった!」
指さされた辺りを必死で探す。あった。確かに。
悲鳴の様な声を上げてサトミと抱き合って飛び跳ねた。うれしくて涙が出てきた。
その夜、家でおばさんとサトミを迎えて少し早い高校卒業と大学合格のお祝いをした。
「中学卒業の時を思い出すね」
サトミもうれしそうだ。
「でもよかった。一緒の大学に受かって」
「これでようやくサトミに追いついたかな」
「何言ってるの。子供の時からずっとマコトの方が大人だったよ」
「そんなことないよ。高校受験の時からサトミに追いつくのに必死だったんだから」
「身長だって届かないし、いつもなんでもわかったような態度しててさ。悩みとかも聞いてくれたし。ずっと感謝してたよ」
いつかサトミが言っていた「必殺の笑顔」を向けられて、久しぶりにどきっとした。
「話そらすのうまくなったんじゃない?」
照れ隠しにそう言った。
「まだまだかないませんよ」
そして二人で大笑いした。
大人達は酔った勢いでアルバムを引っ張りだしてきて、あれこれ思い出話に花を咲かせている。サトミが何かを見つけたようだ。
「ねえ、これ見てよ」
二枚の写真を手に持っていた。似たような背景の、古い母の写真と見覚えのある自分の写真。たしか中二の夏、父に連れ出されて海岸で撮ったものだ。
「二人ともそっくりじゃない?」
「そうかな」
口ではそう言ったが、今まで気付かなかったのが不思議なくらいよく似ている写真だった。
ちらっと父の様子をうかがうと、こちらを見ていやらしいほどにやにやしていた。