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前編

一度の投稿で収まらなかったため分割しました。そのため前編が中途半端な場面で途切れています。

後編の展開で一部不愉快に感じる部分があるかもしれませんが、それを含めての仕掛けになってます。ご了承ください。

 小学校の卒業文集に自己紹介といくつかの質問に答える項目があった。卒業するのになんで自己紹介だよ、と思ったがみんな当たり前のように書いていたので自分もそれに倣った。

 質問のひとつに「好きな人はいますか?」とあった。素直に「いる」と書いてしまったら、卒業式の後ずいぶんからかわれてしまった。

 

 母の生家はど田舎にある。

 玄関を出るとまず山が見える。目の前が山なんだから仕方がない。

 斜面の所々で肩を寄せ合うように固まって建つご近所さんの家を眺めつつ五分ほど歩くと、町の中央を流れる川が見えてくる。流れはそこそこ早いが、水が綺麗でそれほど深くもないので川遊びには丁度いい。

 川のそばまで降りていくと少し人が多くなる。小さな商店が並ぶ年気の入った商店街もある。町外れの国道沿いに大きなスーパーができてからはシャッターが閉まったままのところも多いのだが。

 川にかかる橋を越えると、学校や役所などの公共施設がいくつかある。どれも規模は小さなものだ。そのまま山の方まで進むと神社があるらしい。

 家から一番近いコンビニまで車で十分。最寄り駅までは徒歩で十五分だが、単線で二両編成の電車がやってくるのは二時間に一本。川沿いの道にバス停があるが、走っているところを見たことがない。

 毎年夏休みになると、この空気がとてもおいしい町にやってくる。

 東京に近い埼玉の自宅から車でおよそ三時間。東京育ちの父もこの町がきらいではないらしく、毎回文句も言わずにドライバーをしている。

 祖父は何年も前に他界した。まだ小さかった頃、よくわからずに見送ったことをおぼろげに覚えている。

 祖母は一時期気を落としていたようだが、最近はすっかり持ち直して元気に過ごしているようだ。母は「おじいちゃん死んじゃってからの方が元気じゃない」なんてからかっていた。

 祖母の家にはもう一人住んでいる。

 いとこのサトミだ。

 サトミはもともと両親と一緒に東京に住んでいた。小学五年生の時、両親が離婚することになり、母親に連れられて家を出たと聞いた。その母親というのが母の姉、つまりおばさんである。

 おばさんは離婚前から仕事をしていて、今も東京でその仕事を続けている。時々母に会いに来るのだが、いつもおいしいケーキや和菓子なんかを持って来てくれるのでこっそり楽しみにしている。

 サトミがなぜ祖母と一緒に暮らすようになったのかは、実はよく知らない。

 普通に考えれば東京のおばさんと一緒に住むのがいいと思う。なんとなく、母はその理由を知っている気がするのだが、聞いてはいけないことなんだと思っている。

 言うまでもないことかもしれないけど、好きな人というのがこのサトミのこと。

 母とおばさんは昔から仲がよくて、夏休みになるとわざわざ予定を合わせて帰省していた。そのせいで夏休みの思い出には必ずサトミがいる。年が同じだったこともあって小さい頃から会えば一緒に遊んでいた。

 そういうわけで、今年の夏も車に揺られて三時間、祖母とサトミの暮らす家にやってきた。


 車を降りようとドアを少し開けただけでうんざりするほど暖められた空気が流れ込んできた。クーラーのよく効いた車内に未練を残しながら思いきって外に出ると、嫌がらせかと思うほど強い日差しと蝉の大合唱が降り注いだ。

 ここ数年、夏が来るのが楽しみだった。でも、やっぱり夏は好きになれない。

 漏れだすようなため息をひとつついて、全身で大きく伸びをする。車に押し込められていた気だるさが、少し抜けていった。

 一足早く車を降りた母は、もう家の中に入っているようだ。開け放した玄関から祖母に挨拶している声が聞こえてくる。車のトランクから荷物を運び出そうとしてる父の隣に立ち、自分の荷物を肩にかける。

 その時、母と祖母の会話にもうひとつ声が加わった。背中越しにかすかに聞こえた声は、一年前と変わっていなかった。急に胸が高鳴った。

 父の一歩後ろについて玄関をくぐった。

 夏しか来ない祖母の家。本当はその短い間しか存在していないのではないかと思うこともある。家の中は去年と変わらぬ様子で、一年の間に継ぎはぎになっていた記憶をあっという間に補修していった。

 祖母は少し背が小さくなったように見えた。気のせいだろうか。簡単に挨拶だけ済ませて玄関のすぐ脇にある階段で二階へ上る。

 二階には六畳間がふたつあり、手前の部屋で毎年寝泊りしている。奥はサトミの家族が来た時に使っていた部屋で、今はサトミの部屋になっている。そもそもは母とおばさんの部屋だったらしく、母は毎年来るたびに懐かしいとつぶやいている。

 荷物を部屋の隅に置くと、開けっ放しの出窓から外を眺めた。

 山に囲まれた町並みと、川が見える。去年より少し家が増えたようだ。わざわざこんな田舎に、と思う。

 とん、とん、と階段から軽い足音が聞こえた。足音は部屋の外で止まり、襖が開いた。

「いらっしゃい。下で冷たい麦茶でも飲まない?」

 振り返るまでもない。というか、振り返れなかった。

 はっきりと声を聞いただけで、なんだか恥ずかしくなってしまった。結局、窓の外に顔を向けたままあやふやな返事をしてしまった。サトミは、「そう」とだけ言って階段を下りていった。

 足音が聞こえなくなると、大きく息をはいた。心臓が激しく脈打ち、握った手のひらには汗がにじんでいた。顔が赤くなってそうだ。もし何か言われたら、暑いからだとでも言えばごまかせるだろうか。

 再び階段を上る足音が聞こえた。今度は二人分。

「マコト、おじいちゃんにお線香あげてきなさい」

 部屋に荷物を置くと、母はそれだけ言ってまた下りていった。父はなにやら荷物をあさっている。どうせまたカメラだろう。放っておいて部屋を出た。

 仏間はどうも苦手だ。いつ来てもここは暗くて重苦しい空気がする。天井がないだけ墓場の方がましだと思う。祖父には申し訳なく思ったが、形だけ済ませると早々に逃げ出してしまった。

 居間から話し声が聞こえた。部屋に引っ込むのも変な気がしたので、気恥ずかしさを抑えながら入っていった。

 祖母と母と、サトミが楽しそうに話していた。こちらを見たサトミと一瞬目が合った。思わず視線を外す。そのままわざとらしく部屋の中を見渡した。何か言わないといけない気がしたが声が出なかった。

「マコトも麦茶飲む?」

 こちらの焦りなど気にも止めていない様子でサトミがたずねた。かろうじて首を立てに振ると、サトミは笑顔のまますっと立ち上がりこちらに歩いてきた。また背が伸びたように見える。

「背、伸びたね。いくつ?」

 考えていたことを見透かされたような気がして心臓が飛び跳ねた。

「160……くらい」

「いいなあ。私もそのくらい欲しい」

 そう言って廊下に出ていった。

 一年ぶりに会ったサトミはなんだかおとなっぽくなっていた。

「マコト、そんなとこ突っ立ってないですわんな」

 祖母にそう言われて、空いた場所に腰を下ろした。

「マコトはもう中学校には慣れたか」

「慣れたよ。もう二年生だからね」

「あれ、そうか。てっきり今年中学生になったんだと思ってたよ」

「サトミと同じ年なんだから覚えててよ」

 祖母はうれしそうにゆっくり笑った。「年はとりたくないねえ」なんて言ってる。日々のことをたずねてくる様子はまだまだ元気そうで安心した。母も久しぶりに会えたせいだろう、どこか嬉しそうに話している。

 居間は奥の間に続く襖と縁側に面した障子を開けはなっているせいか、扇風機だけでも十分に涼しい。そこから眺める庭はまだ午後の日差しが強く地面を照らしていてまぶしかった。

 畳の部屋、祖母の顔、庭の小さな畑、それとサトミ。夏の、ほんのわずかな間だけの、奇妙な存在感が満ちていた。

 サトミが麦茶の入ったポットとグラスを持って戻ってきた。ためらいもなく隣に腰を下ろすと、とぽとぽと音を奏でながらグラスに麦茶を注いでいく。

「どうぞ」

 気取ったように微笑むと、顔に少しかかった髪を軽くかきあげた。そうか、髪が伸びたんだ。

「ありがとう」

 一年間のわずかな違いを見つけて戸惑ってしまった。照れ隠しに口をつけた麦茶が乾いていた口の中を潤していく。

 それきり何も言えなくなってしまった。

 サトミは母と祖母の会話に混ざっている。何気ない日々の細かなことをあれこれと話しながら楽しそうに笑っている。三人のゆっくりとした会話以外、何も聞こえない。いつの間にか蝉の声も聞こえなくなっていた。日差しも少し傾いていた。

「おい、買い物行かなくて平気か」

 不意に障子が開き、父が廊下から声をかけた。

「あら、そうね。姉さんも夕飯までには着くのかしら」

「はい。六時くらいには着くと思う、って電話で言ってました」

「じゃあそろそろ夕食の準備しないとね。足りないものはなにかしら」

 そう言って母が立ち上がる。

「私も手伝います」

「サトミ、あんたはいいんだよ。こんな時くらいやすみな」

 心配そうな顔で引き止める祖母に笑顔で応えると、サトミは母と台所へ行った。

「マコト」

 廊下に立ったままの父に呼ばれた。

「荷物持ちだ。行くぞ」

 父は楽しそうに微笑んだ。

 玄関へ向かう前にちらりと台所に目をやると、母とサトミは冷蔵庫の中身を見ながら何やら話していた。

 日が落ち始めたとはいえまだまだ外は暑い。クーラーを入れたばかりの車内に逃げ込んで涼しくなるまでの間、暑苦しさに抗う。父は外で車内が冷えるのを待つようだ。助手席の正面には山の緑がじっとたたずんでいた。

 暑さと静かな空気に頭がぼうっとなりはじめた時、突然後部座席のドアが開いて母とサトミが入ってきた。はっと目が覚めたような気分になった。

 少し遅れて父が運転席に座る。いつもと同じ流れる手つきでギアが切り替えられると、車はゆっくり動き始めた。

 国道沿いにあるショッピングセンターの駐車場は思ったよりも車が止まっていた。

 スーパーで買い物をしている間サトミはずっと母に並んでいて、なぜかそこに近づくことができなかった。

 会計が済むと、ぱんぱんにふくれたビニール袋を両手に持たされた。一体誰がこれだけの量を食べると言うのだろうか。大きなため息を飲み込んで車まで荷物を運んだ。

 帰りの車内でもサトミは母と話していた。細かいことはよくわからなかったが、どうやら夕食の内容を少し修正したらしい。それにしてもいつの間にこれほど料理に詳しくなったのだろう。小学校の低学年だった頃は、川で釣った魚に触ることすらできなかったというのに。

 そういえば去年は川で釣りをしなかった。それまで毎年川を上ったところで釣りをしていたのに。何か理由があった気がしたのだが、なんだったろう。

「父さん」

「なんだ」

「明日釣りに行きたい」

「明日の午前中は墓参りだぞ。午後からでいいか」

「うん」

 家に帰ると、母とサトミはすぐに料理を始めた。料理上手な祖母が台所に立っていないのが気になった。

 居間でテレビを見ながら夕食を待っていると、外から車の音が聞こえてきた。エンジン音が消えてしばらくすると、勢いよく玄関が開き、おばさんの声が聞こえた。祖母がゆっくり立ち上がり玄関へと向かう。

 おばさんは声が大きくて性格も大雑把だ。子供の頃から男勝りで、近所の男の子と喧嘩をしては泣かせていたらしい。それでいて頭もよくて美人(自称)なので、結婚前はモテたと何度も話を聞かされた。

「こんばんは、マコト。元気にしてた?」

「うん。こんばんは」

 おばさんは荷物も置かずに居間に顔を出すと、相変わらずの大きな声で話しかけてきた。その声に気付いた母とサトミがやってきて廊下で話し始めた。サトミは明るいけどおとなしいので、おばさんよりは母と並んでいる方が親子に見える。

 それから間もなく夕食が居間に運ばれてきた。

 父とおばさんは次々とビールの缶を空け、上機嫌だ。母も珍しくビールを飲んでいる。大人というのはどうしてお酒を飲みたがるのだろう。何年か前にこっそり父のビールをなめて怒られたことがあったが、ただ苦いだけで二度と口にしたいとは思わなかった。

 料理はほとんど母が作ったようでいつもと変わらない味だった。しかしいくつか見慣れないメニューがあって、それはきっとサトミが作ったのだろう。試しに一口食べてみたらおいしかった。祖母の作った料理と似ているような気がした。

「それ私が作ったんだよ。おいしい?」

 夕食を食べ始めてからずっと黙ったままだったサトミが声をかけてきた。正直においしいと答えるのが少し照れくさかった。

「ばあちゃんの料理に似てる」

「おばあちゃんから教わったんだもん」

 満足のいく答えだったようだ。サトミは自信に満ちた表情でさらりと言った。うまく言葉をつなげられなくて、それきり黙ってしまった。

 いつの間にか父の顔が真っ赤になっていた。手元のグラスにはいつの間にかビールではなく地酒が入っている。おばさんも頬をほんのりと染めて若い頃の武勇伝を語り始めていた。こうなってしまっては近づかないほうがいい。母だけがいつもと変わらない笑顔で飲み続けていた。

 大人は無視して食後のアイスを食べながらテレビを見ていると、同じようにアイスを手にしたサトミが横に座った。

「ねえ、明日釣りに行くの?」

「なんで?」

 思わぬ問いかけに少し戸惑った。

「さっき車の中でおじさんと話してたじゃない」

「うん」

 聞けば当然のことだ。サトミも車に乗っていたのだから聞こえていてもおかしくない。

「このまえクラスの男の子に穴場を教えてもらったんだ。そこ行ってみない?」

 クラスの男の子、という言葉が耳に入った瞬間、のどの奥に妙な異物感を感じた気がした。舌の上で溶けたアイスがのどにからみつくようだった。

「釣り、来るの?」

 つい、そんなことを口走ってしまった。後悔した。

「うん。私もマコトと一緒の時しか釣りしないし。久しぶりにやりたいな」

 サトミは特に気にした様でもなかった。アイスは食べ終えたが、のどの奥にはまだ何かが引っかかっている気分だった。

 落ち着かない気分とべたつく汗を流したくて風呂場に逃げた。

 思い返すと今日はまともにサトミと話していない。去年はどうだったろう。もっと前は普通に話していた。サトミの視線を意識してしまうと、どうしても言葉が出なくなってしまう。本当はもっといろいろと話したいのに。

 結局シャワーだけではこの気分を洗い流すことなんかできなかった。

 風呂から出ても居間ではまだ宴会が続いていたので、先に部屋に戻る事にした。電気をつけずに出窓に腰をかけて窓を全開にする。思ったよりも涼しい夜風が吹き込んできた。

 時折聞こえる階下の笑い声をなんとなく聞いている内に背中の汗も引いていた。思い返すと去年もサトミとはまともに話せていなかったように思う。前みたいに話せなくなってしまったのはきっとサトミのことを好きになってしまったからなんだろう。顔を見るたびに、声を聞くたびに、頭に血が昇ってしまうんだから。サトミは以前と変わらない様子なのが余計に気持ちを焦らせる。

「マコト。入っていい?」

 廊下から襖越しにサトミの声が聞こえた。いいよ、と返事をしようとしたらかすれた息がもれただけだった。鼓動が早まって顔が熱くなる。仕方なく襖を直接開けに行った。

「わ、びっくりした」

 返事もなく急に襖が開いたので驚いたようだ。あまり見かけない表情を見ることができた。

「電気つけないの?」

 サトミは風呂上りのようだった。髪の毛はまだ濡れていてノースリーブのシャツは胸元が大きく開いていて、そんな姿を見て戸惑っていることにすら気が付かないままじっと見つめてくる瞳をどうしてまっすぐ見つめ返すことができるというのだろうか。

「どうしたの」

「ゲーム持って来てるんでしょ?何か貸してくれない?」

「いいよ」

 なんとかそれだけ答えると逃げるように離れた。しゃがみこんで自分の荷物の中から携帯型のゲーム機を取り出す。電源を入れるとパズルゲームの画面が写しだされた。

「それなあに」

 サトミもとなりに来て画面をのぞきこんでいる。暗い部屋に、甘いにおいが満ちた。

「パズルゲーム。最近母さんがはまってるみたいなんだ」

「ふうん。じゃあそれ貸して?」

 無言で手渡すと、サトミはありがとう、と言って自分の部屋に戻って行った。もう限界だった。これ以上は寝るしかない。部屋の一番奥に布団を敷いて倒れこんだ。心臓にひきずられるように体中がばくばくしていた。


 頬に冷えた空気が触れて目が覚めた。

「あら、起こしちゃった?まだ早いから寝ててもいいわよ」

 母が頭上の出窓を開けたようだ。目線だけ動かして壁に掛かった時計を見ると六時を少し過ぎたところだった。母は静かに布団を畳むと階下へと姿を消した。目を閉じると、意識が深い所へ落ちていった。

 頭に軽い震動を感じた。再び目が覚めると今度は父が布団を畳んでいた。一歩ごとに畳を伝わって枕に震動が届く。時計の針は七時の少し手前を指していた。

「朝ごはんすぐにできるぞ。もう起きなさい」

 目を覚ましたことに気付いたのか、父はそれだけ言って部屋から出た。まだ頭が寝ぼけていたが体を起こすことにした。

 洗面所で顔を洗うと少しすっきりした。居間ではもうみんな朝食を食べ始めていた。昨夜の宴会なんてなかったかのように落ち着いている。小さくおはよう、とだけ言って空いた場所に座った。

 味噌汁の味は祖母が作ったものに思えた。もしかしたらこれもサトミが作ったのかもしれない。何も聞かずに、ただ食べ終えた。

 墓参りは十時頃に出かけるから、と父が言った。

 することも特にないしテレビもおもしろくなかったので、まだ日差しのゆるい縁側にひとり座って呆けていたら、猫がやってきて庭の真ん中で寝そべった。隣で飼っているにゃん太だ。子猫の頃から知っているが、動物はあまり好きではないので距離を取ったままじっと動かないにゃん太を眺めていた。

 年に一度、夏休みの数日しか来ないのに、にゃん太はこちらを覚えてくれているように感じる。まだお互いが子供だった頃に遊んだことも覚えてくれているだろうか。今ほど動物が嫌いではなかったので無理矢理抱えたりなでたりして引っかかれたものだ。にゃん太にしてみれば迷惑なだけだったのかもしれないが。

 朝が早かったからか朝食を食べたからか、少し眠くなってきたので縁側に寝転んだ。このまま二度寝でもしようか。にゃん太が大きくあくびをした。


 右腕がしびれている。

 朦朧とした意識の中でそれだけがはっきりとした感覚として認識できた。

 蝉の声で徐々に目が覚めていく。全身が少し汗ばんでいる。しっかり寝てしまっていたようだ。

「起きた?」

 サトミの声が降ってきた。見上げると、横に立って顔を覗きこんでいる。

 恥ずかしい所を見られた気がして慌てて体を起こした。すると腹の当たりで何か動いて、小さな鈴の音がした。にゃん太が小さく抗議するように鳴いて庭に降りていった。右腕の痺れはあいつの仕業だったようだ。

「もうすぐ出かけるって」

 サトミはくすくす笑いながらいなくなった。その見えなくなった背中をなんとなく眺めていると、父が早く用意しろと言った。

 お墓は車で三十分程走った山の中のお寺にある。本堂の半分が山に呑まれているような古いお寺で、墓地も木々の隙間に無理矢理墓を建てたようなところである。墓石の半分が土中に埋まっていたり首がもげてしまっているお地蔵さんなんかもそこらじゅうにある。注連縄の巻いてある巨大な木は地面をのたうつように無数の根を張り、枝は大きく広がって空を覆い隠している。周りの木々も似たような大木ばかりがそびえ、おかげで強い日差しは遮られているが代わりに会話に支障をきたすほど蝉の声が響いている。

 車から降りたところで露出した肌に虫除けスプレーを吹きかける。本堂の正面に無理矢理作った駐車場に他の車は止まっていなかった。

 少し遅れておばさんの運転する車がやってきた。サトミと祖母もそっちに乗っている。

 祖母が車から降りるときサトミが手を貸していた。歩くときも去年はなかった杖を使っている。墓へ向かう坂道でも辛そうにしていた。

 祖母の家は去年までと変わらないように見えたし、お寺も相変わらずお化けが出そうなほどの古寺だし、祖母も変わらず元気なままに見えていた。それでも、見えないどこかが少しずつ変わってきているのだろう。父と母もどこか変わっているのだろうか。サトミとの関係も変わっていくのだろうか。

 墓参りは何事もなく済んだ。帰りにはやはり毎年立ち寄っているお寺の近くにある古い蕎麦屋に寄った。この店もずっと変わらないように見えた。


 祖母はずいぶん疲れていたようで、家に帰るとすぐに「少し横になる」と言って寝室に引っ込んでしまった。母が様子を見ているから出かけておいでと言ってくれたので、心配ではあったけど釣りに行くことにした。

 物置になっているガレージの奥からほこりをかぶった釣竿を掘り出して外に出ると、おそらく同じ目的だったのだろう、サトミと鉢合わせた。その後ろにはおばさんもいた。

「釣竿見つかったんだ。わかんないかと思って来てみたんだけど」

 そう言ってサトミはちいさく手を差し出す。持っていた二本の釣竿の片方を手渡した。

「ほこりだらけだね。軽く洗ってくるね。そっちもちょうだい」

 手に持っていた方を差し出しながら、サトミなら祖母の様子を詳しく知っているのではないかと思い、聞いてみたくなった。

「あの」

「昨日話した穴場のことお母さんに聞いたらね、もうずっと昔からこの辺りじゃ有名なところなんだって。お母さんが場所わかるから車出してくれるって」

 口を開いたところでサトミに言葉をさえぎられてしまった。

「うん。わかった」

 一呼吸あけてそれだけ言うと、なんだか不思議そうな顔をされてしまった。

「どうかしたの?」

「なんでもないよ」

「そう。それじゃあ準備できたら声かけるね」

 ほこりまみれになった両手がごわごわと落ち着かない。サトミの姿が家の裏手に消えてから、黙って立ったままのおばさんの顔を見た。

「ん? ああ、そうそう。あそこ泳げるとこだから水着あるなら用意しておいで」

 おばさんは視線に気付くと、思い出したようにそう告げて家の中に戻って行った。

 部屋に戻ると、父がカメラを畳の上に広げてなにやらいじりまわしていた。こうなるとぶつぶつ独り言がうるさいのでゆっくりできない。仕方がないので居間に行くことにした。

 居間の座布団でにゃん太が丸くなっていた。隣の猫なのに図々しいやつだ。そばに置いてあった孫の手で遠慮がちに脇腹をつつくと、ぶうぶうといびきで抗議してきた。それがおもしろくてしばらくにゃん太をいじって遊んだ。

 ほどなくしてサトミが呼びに来たので、おばさんの運転で件の穴場に出かけた。父は久しぶりに出番を得たデジカメを持って付いてきた。気色悪いほどの笑顔で。

「にゃん太ねえ、私が遊んでたらすっかり家に馴染んじゃって。橋本さん、お隣のおばさんもね、きっとにゃん太も若い女の子の方がいいんだろう、なんて言うのよ」

 車中のサトミは楽しそうににゃん太の話をしていた。遠慮がちな笑顔から奏でられる言葉の端々には知ることのできない日々のかけらが見え隠れしていて、なんとなく憂鬱な気分になってしまった。

 ため息で紛らわすのは簡単だけど、楽しそうなサトミの言葉に水を差すのも嫌だったので、田舎町の風景を肴に憂鬱な気分を吟味してみた。

 若干の苦味と砂を噛んだような気分の正体が嫉妬と憧れと諦めなのかもしれないと推論した頃に目的地へ到着した。

 川のそばだからなのか、午後二時頃にもかかわらず辺りの空気は冷たくて気持ちよかった。おばさんから釣れそうなポイントを教えてもらうと座りやすそうな大きな石に腰掛けて釣り糸を垂らした。

 川の流れる音と蝉の声が耳をふさぐ。冷えた空気は心地よいのだけど、やはり日差しは強く日なたにいるとじっとしているのに汗ばんでしまうほどだった。帽子を持ってくればよかったかなと少し後悔した。

 サトミは少し離れたところでおばさんと一緒にいた。帽子は被っていないがうまいこと日陰になっているところを確保したようだ。何か話をしているようだが、その中身までは聞こえない。

 不意に背後からシャッター音がして振り返ると、カメラを構えた父が立っていた。

「なにしてるの」

 わざと不機嫌そうに声をかける。

「何って、写真を撮っているんじゃないか」

「それならあっちの美人親子を撮ってくればいいじゃない」

「我が子の記録は大事なんだぞ」

 そしてまたシャッター音。

「ならもう十分でしょ。もう撮らないでいいよ」

「そうか?せっかく新しいレンズにしたのになあ」

 父はぶつぶつと何か言いながらサトミとおばさんのいる方へ向かった。あからさまに不機嫌な言葉を投げつけても父の顔から楽しそうなにやけ顔が消えることはなかった。竿にぐっと手ごたえを感じたので慌てて引いてみたが、糸の先にはエサのついていない針しかなかった。父のせいにした。

 その後もひとりで釣り糸を垂れていたが、当たりらしい当たりはなかった。ちらちらと水面に見え隠れする魚の影を見つめて、もしかして手でつかみかかったほうが早いのではないかと思っていたら、顔に水しぶきがかかった。くすくす笑うサトミの声もした。

「釣れますか?」

 からかうようにサトミが聞く。

「釣れません」

 不思議と落ち着いて返事が出来た。

「それじゃあ今日の晩御飯は抜きですね。えいっ」

 サトミは指先で軽くすくうようにして水をかけてきた。水しぶきがほてった顔に当たって気持ちよかったので、されるがままにしていた。

「マコトー。つまんないよ、遊ぼうよ」

 反応がないことに不満だったのだろう。珍しく機嫌の悪そうな声を出した。

「晩御飯抜きは困るのでもう少し釣りをします」

「ふぅん」

 つまらなさそうにそう言うと、どこかへ行ってしまった。

 小さい頃のようにはしゃぐサトミは新鮮だった。あんな風にしている姿を見るのは数年ぶりかもしれない。思い返してみると、おばさんが離婚した小五あたりから段々とおとなしくなっていたように思う。当然サトミも何か考えるところがあったのだろう。両親が離婚したのだから無理もない。自分の身に起きたら、今のサトミのように振舞うことすらできないかもしれない。そう思うと、自分の気持ちばかり気にして本当はサトミのことなんてちっとも考えていなかったような気がしてきた。

 サトミが楽しそうにしているなら、一緒に楽しむのが一番いいのかもしれない。不意にそんな考えが浮かんで、先ほどサトミの誘いを無碍にしたことを後悔した。

「マコト」

 突然背後からサトミに呼びかけられた。川の音で近づいてきたことに気付かなかった。

 驚きを隠しながらゆっくり振り返ると、水着姿のサトミが立っていた。手にはなぜかバケツを持っている。

「どう?去年買ったのなんだけど。似あってるかな?」

 両手を広げて遠慮がちに水着姿をアピールしてくる。白いセパレートの水着がよく似合っていた。

「似合ってる、と思う」

 かろうじてそれだけ言うと、川の方へ向き直った。どきどきして直視できなかった。

「そっか。よかった」

 サトミは感情のこもらない声でそう言うと、隣に座りこんでバケツを川の浅いところに倒して置いた。中に少しずつ水がたまっていく。

「いつ着替えたの」

 何をしているのかさっぱりわからなかったので、様子を探りつつ会話をつないだ。

「今。車の中で着替えてきた」

 こちらを見ずにそう言うと、水がいっぱいになったバケツを両手で抱えて立ち上がった。

「何してるの?」

 サトミがこちらを向いた。その質問を待っていたんだよ、といったところか。顔中が何かたくらむような笑顔でいっぱいになる。そして、抱えていたバケツを思い切り川面にたたきつけた。

 ぱーん、と派手な音と共に大きな水しぶきが立つ。一瞬の間が空いて、頭上から大量の水が落ちてきた。反射的に手で頭を覆ったが、当然、びしょ濡れだ。

 サトミは腹を抱えて大笑いしていた。

 突然の不可解な行動に呆気に取られてしまったが、とりあえず釣竿を脇に置いて立ち上がると転がっていたバケツをつかんだ。サトミは座りこんでまだ笑っている。

 ゆっくりとバケツいっぱいに水を汲み上げると、しっかりと両手でつかんで、引きつるように笑い続けるサトミの頭に勢いよく水をかけた。

 水着も持ってくればよかった。

 ちいさな子供みたいにはしゃぎながら水をかけあって、全身ずぶ濡れになった。何がおかしいのかもわからないまま二人で大笑いした。とても楽しかった。

 笑いつかれて車のそばに戻ると、父とおばさんがいつの間に出したのか、キャンプ用の折りたたみテーブルに座って何か食べている。横に置かれたクーラーボックスには大量の氷が入っていた。

「何食べてるの?」

 父が陰からかき氷器を持ち上げた。おばさんは「いちご」と書かれたシロップのビンを持っていた。

 それから服が乾くまで四人でかき氷を作って食べた。魚は一匹も釣れなかったけど、きっと今日が今年の夏で一番楽しい日になるだろう。


 家に帰ると祖母は元気そうに母と夕食の準備をしていた。どうやら余計な心配をしていたようだ。

 二日目の宴会では珍しいことに父のデジカメが大活躍をしていた。川原のバカ騒ぎは大人達にとっても懐かしく新鮮な出来事だったようで、その場に居合わせなかった母がデジカメのメモリを見ながら「楽しそうね」とつぶやいた。

 昼間の余韻が残っていたせいか、食事をしながらサトミといろんなことを話せた。祖母から料理を教わっていること。隣のおばさんと一緒に車で買い物に行っていること。学校での出来事。にゃん太に足を引っかかれたこと。そのどれもが生き生きとした日常を含んだものだった。

 聞かれるままにこちらも学校や友達のこと、時々おばさんが持ってくるお菓子のことを話した。中でもいつも行列ができているケーキ屋のシュークリームに興味を持ったようですかさずおばさんに今度持って来いと要求していた。

 不思議な感覚が体を満たしていた。いや、周囲の空気を、かもしれない。その感覚に身をまかせていると、サトミと話すのがあれほど難しく思えていたのが嘘だったようだ。次から次へと言葉があふれ、濃密な時間がゆっくりと流れていくのすら感じることができた。

 いつの間にか祖母が部屋に戻り、真っ赤な顔をした父が船を漕ぎ始めた頃、静かな夜が戻ってきた。宴会はお開きになり、後片付けが済むとサトミもお風呂に入ると言って立ち上がった。

「なんだか子供の頃に戻ったみたいな気分だね。お風呂も一緒に入る?」

「いいから早く入っておいでよ」

 冗談めかしたサトミの言葉は、魔法が切れた後では受け止めきれなかった。ほてった顔を見られたくなくて、逃げるように階段を上った。

 部屋では既に父が横になっていた。起こさないようにゆっくりと暗い部屋の奥へと向かう。昨晩のように出窓を開いて腰を下ろした。

 冷たい夜風が夢のような時間の名残を少しずつ削り取っていく。薄い皮を一枚ずつ剥がすように目が覚めていく。心の底に残された憂鬱が姿を見せた頃、サトミが襖を開けて声をかけた。

「マコト、お風呂空いたよ」

 サトミの姿が目に映ったとき、心が全く動かないことに気付いて、激しく動揺した。

「どうしたの?お化けでも見たような顔して」

「うん。なんでもない」

「ふぅん。昨日借りたゲームまだいいかな?」

「いいよ」

「ありがと」

 サトミは軽く微笑むと、隣の部屋へ消えた。

 その夜は、なかなか寝つけなかった。


 翌朝、目が覚めると既に八時を過ぎていた。

 昨晩からの重い気分を引きずりながら居間に顔を出すと、朝食はもう片付けられてしまっていた。

「おはよう、マコト」

 台所からサトミが顔を出していた。

「おはよう」

 サトミの顔を見たら心が少し軽くなった気がした。まだ、大丈夫。そう感じた。

「どうしたの? 何だか元気ないけど」

「昨日、はしゃぎすぎたかな」

 苦笑いをしながらそう言ってごまかした。

「あれだけで? 都会っ子は弱いなあ。朝ごはん、パンでいい?」

「うん」

 サトミはいつも変わらない明るい顔を見せてくれる。そこにはきっと深い意味などなにもないのだろう。自分がどんな思いで見られているのかなんて考えもしないのだろう。サトミのことでこんなにも思い悩んでいるのに、それに気付く事なんてないのだろう。それが少し恨めしく思えてしまった。

 勝手に好きになったのにそのことに気付いてもらえないから恨めしく思うなんて、自分の身勝手さが嫌になる。

 いっそのこと告白してしまえばサトミも悩んでくれるだろうか。きっと困った顔をするだろう。容易に思い浮かぶその光景を想像して、そんなことがしたいわけではないと思い直した。

「はい、食パン焼けました。あとマーガリンといちごジャムね。味噌汁温めてるからもう少し待ってね」

 うじうじした悩みなど知らぬとばかりにサトミが朝食をてきぱき並べてくれた。いちごジャムと味噌汁の組み合わせはどうなんだろうと思ったが、ただ座って待つ身としては文句を言えるはずもない。

 味噌汁をテーブルに置いた後、サトミは隣に座って朝のワイドショーを見始めた。

 程よく焦げ目の付いたトーストにいちごジャムだけ塗ってかじる。口の中がきれいになってから味噌汁を一口すすった。

「無理して一緒に食べなくてもいいよ」

 その様子を見ていたサトミが笑いながら言った。どういうことかわからず、ただ見つめ返した。

「お母さんがお酒飲んだ次の日は味噌汁がないと嫌だっていうから作っただけなの。いちごジャムと味噌汁じゃ口の中おかしいでしょ」

 無言のままトーストをかじり、今度はまだ口の中に残ったままのそれを味噌汁で流し込んだ。

「たまにはいいよ」

 舌にからみつくような甘じょっぱさが今朝の最悪な気分にぴったりだった。もう一度試してみたいとは思えなかったけど。

「変なの」

 サトミは、そんな様子を見て静かに笑っていた。

朝食を食べ終えると、やはり何もすることがなくてまた縁側に座りこんでいた。

 まだ暑さのゆるやかな夏の朝、おそらく指定席なのであろう場所で丸くなるにゃん太をぼうっと眺めていたら、眠くなってきた。またここで寝てしまおうかと目を閉じたときに肩をぽんと叩かれた。

「っ!?」

 言葉にならない驚きが口から飛び出した。

「なにそれ。何て言ったの?」

 笑ってそう言いながら隣に座ったのはサトミだった。

「びっくりしたって言った。たぶん」

「そっか。ごめんね、起こしちゃって」

「いいよ。そんなの」

 サトミの声が聞こえたのか、にゃん太がのそりと起き上がり大あくびをしてから近寄ってきた。音もなく縁側に飛び上がるとサトミの太ももで再び丸くなった。

「休みの日は、いつもここに座ってるんだ。にゃん太は寝心地のいいベッドくらいに思ってるんだろうけど」

 恨めしげな口調とは裏腹に表情は柔らかいままだった。右手でそっとにゃん太をなでている。にゃん太もどこか気持ちよさそうだ。

 サトミはふと、思い出したように口を開いた。いつもとは違う何か考え込むような表情でゆったりと流れる時間に合わせるように静かに言葉を選んでいく。その内容は昨夜の楽しいものとは少し違っていた。祖母の体を案じていること、クラスにどうしても馴染めないこと、おばさんとのこと、漠然とした将来への不安、そんなことだった。それをただ、うんうん、とだけ言って聞いていた。

 サトミの言葉が途切れると、しばらく静かな時間が流れた。

 にゃん太が丸くなったまま器用に毛づくろいをすると、のそりと体を起こし、優雅に庭を横切り塀を飛び越えて隣家へと姿を消した。

「マコトだから話したんだからね。誰にも言ったらだめだよ」

「言わないよ」

「来年までには忘れてるんだよ。こんな都合のいい人他にいないんだから」

 そう言ったサトミの顔には笑顔が戻っていた。

「わかった」

 そう答えることしかできなかった。

「そろそろお昼の用意しないと。何が食べたい?」

 サトミはすっと立ち上がると何かを吹っ切るように言った。

「まだお腹すいてないな」

 さきほどの暗い表情などなかったような瞳を見上げて答えた。

「マコトがそうでも他の人がそうだとは限らないでしょ」

 笑顔を残し、スカートの裾をふわりとなびかせて去った。

 昼食はそうめんだった。こまかく刻んだねぎとみょうがをのせてごま油を一滴落とすのがサトミ流だとか。真似してみたら驚くほどおいしかった。

日が高くなるとともに急に蒸し暑くなった。さすがに耐えられなくなったので滅多に使われることのない客間のエアコンをつけて避難することにした。

「宿題まだ残ってるんでしょう? ちゃんと終わらせないとだめよ」

 ドアを開けたところで母に見つかり、背中越しに思い出したくない言葉を投げつけられた。

 客間は祖母の家で唯一の洋室で、古めかしい革張りのソファや毛足の長い絨毯といったいかにも「おもてなしのための部屋」といった雰囲気がある。高価なティーセットや調度品も置いてあるため小さい頃は入ってはいけないと言われていた。最近は何も言われなくなったが、それでも入ると少し緊張する。

 思い出してしまうとやはり気持ち悪かったのでまだ半分以上残っている夏休みの宿題をすることにした。当然気が進まなかったが、他にやることもないし、と自分を無理矢理納得させた。

 室内は外の音が入りにくい造りになっているのか、ほとんど音がしなかった。おかげで嫌々始めた割には集中することができた。

 数学の難問に悩まされていたとき、ドアが遠慮がちにゆっくりと開かれた。母が様子を見に来たのかと思ったが、こっそり様子をうかがうように顔をのぞかせたのはサトミだった。

「あ、エアコン付けてる」

 サトミはアイスをかじりながら入ってきた。もう片方の手にはゲーム機を持っている。

「勉強してたの? お邪魔していいかな?」

「いいよ。夏休みの宿題やってた」

「ふうん。ちょっと見ていい?」

「どうぞ」

 サトミは二人掛けのソファの真ん中に座りこみ、数学の問題集を手に取った。

「結構難しいねえ。大変そう」

「そこ、今詰まってた」

 それを聞くと不敵な笑みを浮かべ、ペンケースから勝手にシャープペンを取り出すとよどみない動きで問題を解いてみせた。

「どうよ?」

 自慢げに見せつけてくる。正解はわからないが見たところ合っていそうだ。学力の差は歴然だった。

「あ、ありがとう」

 上から見下ろしていい気分、を演出している相手に素直に礼を述べた。少し悔しかった。

「普段も暇すぎて勉強くらいしかやることないんだよね。宿題も夏休みが始まってすぐに片付いちゃったし」

「そうなんだ」

「そうなんです。ではこれから宿題をしているマコトの横でマコトから借りたゲームをして過ごしたいと思います」

 どうやらサトミは本当にいい気分になったようで、ソファにだらしなく寝そべると残ったアイスを食べながらゲームを始めた。

 気を取り直して宿題を再開した。詰まっていた問題以降はそれの応用が多く、サトミの解答を参考にしてみたらつまづくことなく進めることができた。

 サトミは食べ終えたアイスの棒を噛みながら鼻歌を歌っている。手元をちらりと見たら難易度の高いステージでも手が止まることはない。

「あ、うるさかった?」

 視線に気付いたのかサトミが気を使って聞いてきた。

「ううん。大丈夫」

「ごめんね。このゲーム歌かわいいからついはまっちゃって」

「おもしろい?」

「うん」

 その後も小さく流れる軽快な歌を聞きながら宿題を続けた。

 数学の宿題を一通り終えた頃、サトミの手が止まっていることに気付いた。いつの間にか寝てしまっていたようだ。口元にアイスの棒が落ちている。つい、スカートから伸びる細い足に目を奪われてしまった。

 どうしようか迷った挙句、とりあえずゲーム機の電源は切ろう、というなんだかわからない結論を出した。

 近寄るとかすかな寝息が聞こえた。寝顔から目が離せなくなった。

 伸ばした手が寄り道しそうになるのを抑え、力の抜けた指からゲーム機を取り上げた。するとサトミが全身をびくりと震わせ、うーん、と言いながら大きく伸びをした。

「おはよう、マコト」

 顔をのぞきこんでいたせいでばっちり目が合ってしまった。とろんと寝ぼけた目が妙に色気を感じさせて目をそらせなくなった。

「おはよう」

 照れ隠しに自分の口元を指す仕草を見せると、サトミが慌てた様子で口元に手を当てた。

「よだれ出てた?」

「さあ」

「もう、何よ」

 サトミは照れた顔を見せると、さっと立ち上がって客間から出ていった。

 居間では祖母と母とおばさんがお茶を飲みながら楽しそうに話していた。

「あらマコト。駅前のおまんじゅう買って来たよ。一緒にお茶しよ」

 おばさんが手招きをしている。テーブルの上にはこの辺りの銘菓であるまんじゅうがたくさん載っている。はやる気持ちをぐっと抑え、無言でうなずいてから腰を下ろした。

 母たちの話題は近所のなんとかさんが最近どうしたとかどこそこの娘さんが結婚したとかいうものばかりで口を挟む余地はない。話に夢中な三人の隙をついてここぞとばかりにまんじゅうに手を伸ばす。

 このまんじゅうはとてもおいしいのだ。薄皮にこれでもかとばかりに詰め込まれた重量感たっぷりのあんこ。しかし控えめな甘さと皮のほのかな塩分がしつこさを全く感じさせない。関東でもこれほどのまんじゅうにはそうそうお目にかかれないだろう。始めて食べたのは小学校に入る前だったが、その時の衝撃は今でも食べるたびに思い出す。両手と口のまわりをあんこだらけにしている姿をばっちりと父に撮られてしまったのだが。

 最後のひとつを一口かじったところでサトミが居間に姿を見せた。

「マコト、今日お祭りあるんだけど一緒に行かない? 何食べてるの?」

 口の中をまんじゅうが占拠していてとっさに返事が出ない。その隙にサトミの分を残しておかなかった言い訳を必死で考える。

「お祭りってもっと早い時期じゃなかったかしら」

 母が横から口を挟んだ。いい時間稼ぎだ。

「今年から日にちを変えたみたいなんです。あっ、おまんじゅう私のは?」

 ぎくりとした、という表現がこれほどぴったりなこともそうないだろう。

「あら、この子ったらあんなにあったの一人で食べたの?」

 もぐもぐと口を動かしつつ、何事もなかったように立ち上がる。もちろん食べかけのラストワンを手放すことはない。

「信じられない! マコト! その手に持ってるのよこしなさいっ」

 サトミが本気で怒った顔で腕をつかんだ。そして食べかけのまんじゅうをかすめとる。

 思えばサトミとのまんじゅう争奪戦も相当年季が入っている。今回は先手を取って圧勝したこともあるし、おとなしく貴重なラストワンを手放した。

 ふくれながらまんじゅうをほおばる顔をちらりと見て、逃げるように二階へ駆け上がった。

 名残を惜しみながら最後の一口を飲み込んで、たべすぎたおやつを消化するために畳に寝転がる。舌に残る上品な甘さを堪能していると、母がやってきた。

「サトミちゃんが浴衣着て行くって。あなたも着てみたら?」

「浴衣なんて持ってないよ」

「古いのが残ってるから大丈夫よ。サトミちゃんも姉さんのお古よ」

 サトミの浴衣姿はさぞかし似合うのだろうな、と思った。それに比べて自分が浴衣を着たところで、とも思う。気は進まないが母が楽しそうに準備をしているので拒否するのも悪いような気がした。

 初めて身につける浴衣にとまどいながらもなんとか支度を済ませたころ、窓の外から小さく祭囃子が聞こえてきた。太陽は今にも山の陰に隠れそうで、橙に染まった町並みと青黒い空がきれいだった。少しだけ、心が躍った。

 年季が入った感じの下駄を履いて外に出ると、もうサトミが待っていた。

 長く伸びた髪をきれいに結い上げていて細い首筋が見えた。少しだけ化粧もしているようだ。赤とピンクのかわいらしい浴衣もよく似合っている。

 こちらを向いて微笑む姿に、ため息が出た。

 紺色の地味な浴衣を着ている自分が恥ずかしく思えてきた。

「マコト浴衣似合うねえ。なんか、かっこいい」

 下駄をかたんかたんと鳴らしながらサトミが言う。

「サトミの方こそ」

「ふふん。かわいいでしょ」

 少し大げさにポーズを取ってみせる。それがまた様になっていて、素直に頷いた。

「二人とも似合ってるじゃないか。ほらこっち向いて」

 背後から父の声がして振り向くと、案の定カメラを構えていた。

「また?」

 最大限嫌そうな顔で応えると、突然サトミが駆け寄ってしがみつくように腕をからませてきた。そのまま笑顔を作ってポーズを決める。カメラが瞬いた。

「もっといい顔しろよ、マコト」

 父が言葉とは裏腹に笑顔で言う。

「そうだよマコト。せっかく浴衣着たんだし」

 サトミは腕を組んだまま引っ張るようにして歩き始めた。二人の下駄がかみあわないリズムを刻む。

 ちらりと背後を振り返ると、父たちはいつもと同じ格好でついてきていた。祖母の姿はやはり見えなかった。

 祭りの会場は川にかかる橋を超えた先の神社らしい。慣れない下駄を履いているせいで思ったよりも遠く感じる。去年まではもっと早い時期に行われていたらしく、道中サトミは過去に行った時の話をしてくれた。

 初めて訪れた神社は思っていたよりもずっと大きいものだった。長く伸びた参道の両脇には屋台がいくつも出ていて、どこにこれだけの人がいたのかと思うほどの人が歩いていた。その様子に驚きを隠せないでいると、ここの祭りは昔から有名で遠くからも人が来るんだよ、とおばさんが教えてくれた。

 参道の入り口に立つ大きな鳥居の下で、サトミが誰かに声をかけられた。おそらく学校の友人なのだろう。知らない女の子二人と遠慮がちに挨拶を交わしていた。今朝、クラスに馴染めないと言っていたことを思い出した。

提灯とむき出しの電球が照らす道をサトミと並んで歩いた。甘いものばかりに手を伸ばすことを指摘すると「おまんじゅうも食べたいなあ」とうらめしそうな目で返された。

 奥まで一通り見て回った頃、両親とおばさんの姿が見えないことに気付いた。

「携帯持ってきたから電話してみるよ」

 サトミが携帯を持っているなんて知らなかった。どうやらすぐにつながったようで、短く会話をするとすぐに通話を切った。

「遅くなる前に帰りなさいって。あと無駄遣いしすぎるなって」

「それだけ?」

「うん。近所だし、知ってる人もいっぱいいるから大丈夫だよ」

 それから二人で中身のすかすかなたこ焼きを食べて、帰ることにした。途中サトミは大きなりんご飴を買っていた。

 祭囃子が遠くなり、川の流れる音がそれに替わるように大きくなる。頼りなく立つ街頭と星空が照らす道を無言で歩いた。

 サトミの少し後ろから、楽しそうに歩くその背中を見つめていた。

 玄関の明かりが見えるとサトミが口を開いた。

「花火買っておけばよかったね」

「そうだね」

 頷き返すと、満足したように微笑んで小走りに家の中へ入って行った。

「ただいま」

 その夜は、思いのほか遅くまで祭囃子が聞こえていた。


 朝食の後、また縁側でくつろいでいようと思ったら父から呼ばれた。

「ちょっと付き合ってくれ」

 手には車の鍵を持っている。また荷物持ちでもさせる気だろうか、とため息混じりに車に乗り込んだ。

 時計は九時を少しまわったところだ。買い物にしては早い。父は何も言わないまま車を出した。

 スーパーに行くのとは明らかに違う道を通り、大きな国道をためらいなくまっすぐ進む。助手席の窓から無言で外を眺めていたが、一時間ほどして海が見えるとさすがに行き先をたずねた。

「もうすぐだ」

 具体的なことは何も言わないまま父はハンドルを握っている。

 言葉どおりに間もなく着いた場所は、何もない海岸だった。

「何? ここ」

 車を降りてまだ人の少ない海水浴場を見渡す。潮風がゆっくりと吹きぬけていった。

「こっちだ」

 父はまだ何も言わないでどこかへと歩きだす。仕方なく数歩後を追った。

 少し歩くと海岸に降りる大きな階段の上に着いた。

「気持ちいいだろう。来年は海水浴でもするか」

 天気もいいし眺めもいいし潮風も気持ちいいのだが、何か釈然としない。飲み物を買ってくると言った父を無視してその場にしゃがみこんで待っていた。

 いつまでも戻って来ないので探しに行こうかと立ち上がると、聞きなれたシャッター音が聞こえた。振り返ると父がデジカメと缶ジュースを二本持って立っていた。

「いたなら言ってよ」

「シャッターチャンスを待ってたのさ」

 決め顔で言う父に、憮然とした顔を見せて返事とした。

「行くか」

 そう言ってオレンジジュースの缶を手渡す。そっぽを向いてそれを受け取った。

 車は来た道を戻るのではなく、そのまま道なりに進んだ。この辺りの道など全く知らないけど、方角的に帰り道ではなさそうだ。それほど飲みたかったわけでもないオレンジジュースに口をつけた。

 しばらくして着いたところは、海が見渡せる高台の公園だった。

 父の不可解な行動にうんざりしきっていたので、何も聞かずに眺めのよさそうなベンチに座ってジュースの残りを飲み干した。父はいつものうれしそうな顔で少し散歩をして、そして何枚かの写真を撮った。いつもの不意打ちで一枚撮られたのは言うまでもない。

「お昼は何にしようか」

「帰る」

「ハンバーグなんてどうだ。うまい店があるんだ」

「帰る」

 父はやはり笑顔のままエンジンをかけると、来た道を戻り始めた。

「何しに来たの?」

「昔よく母さんと遊びに来たところなんだ」

「はあ? 母さん連れてくればいいのに」

「そうか? そうだな」

 照れ隠しのように声を出して笑う父を見て、大きくため息をついた。

「父さんはなんでそんなに写真が好きなの?」

 信号待ちのときなんとなくそんな言葉が出た。

「レンズを通すと普段とは違ったものが見えるんだ。目では見えないものを写真で見つけられるのが楽しいんだ」

「なにそれ。どういうこと」

「何かを見て、何かを感じたなら、それは絶対に正しい。だけどそこで立ち止まったらいけない。そんな気持ちになる」

「よくわかんない」

「マコトにはまだ早かったかな」

 苦笑する父の目は優しかったが、とても真剣だった。

 帰ると母が「お昼ご飯いるのかいらないのかくらい連絡しなさい」と父に説教をした。

 

 昼過ぎから蝉の鳴き声がいっそう大きくなり、蒸し暑くなったのでまた客間に逃げ込んだ。他に出かける予定もないようなので、午後はここで読書でもして過ごそう。

 部屋の隅にある本棚から何年か前に話題になったミステリーのハードカバーを取り出して軽く息を吹きかけると、ぱっ、と埃が舞った。ソファに沈み込むように座りページをめくると乾いてぱりぱりになった紙からほこりっぽいにおいが立った。

 特に興味があったわけでもないけど、読み始めるとおもしろくて夢中になった。時間を気にすることもないし、こんな過ごし方もたまにはいいかもしれない。


 カン、カン、と何か固いものを叩く音で目が覚めた。

 読んでいた本が絨毯の上に落ちている。ソファに寝そべって読んでいたらそのまま眠ってしまったようだ。

 外から雨の気配がする。先ほどの音はたぶん雨どいか何かにしずくが落ちているのだろう。

 エアコンが止まっている。

 途中まで読んだ本を元の場所に戻して客間を出た。

 雨戸がしっかり閉めてあるせいで家の中が薄暗い。やけに静かなので居間でひとりテレビを見ていた祖母にたずねると、他のみんなは買い物に行ったと言う。寝ていたので置いていかれたようだ。

「雨すごいね。いつから降ってるの」

「ついさっきからだ。マコト寝てたんか。ほっぺた赤くなってるでねか」

 祖母に言われて下にしていた方の頬に手を当てた。

「言われてから隠してもだめだあ」

 笑われてしまった。

 それから水戸黄門の再放送を見ながら祖母と少し話しをした。

 玄関が勢いよく開く音がして、突然の雨に苦情を並べたてる声が聞こえた。おばさんが帰ってきたようだ。

「マコト。そこ押し入れん中タオル入ってっから持ってってやれ」

「うん」

 祖母に言われた場所からいくつかタオルを出して玄関に行くと、ちょうどサトミが入ってきたところだった。

「ありがとう、マコト。裏に車止めて玄関まででびしょ濡れよ」

 おばさんにタオルを手渡したちょうどその時、強い閃光が目を刺した。間髪いれずに木の板を無理矢理引き裂いたような轟音が響き渡った。

「いやっ、なにっ」

 サトミがびくりと身をすくませ、おびえたような声を出した。

「雷」

 タオルを手渡しながらそう言った途端、また外が光った。

「ひゃ。もう、そんなのわかってるよ」

 サトミがここまで雷嫌いだとは知らなかった。色々知ってるつもりでいたけど、まだまだ知らないことがあるんだ。雷に文句を言いながら濡れた髪を拭く姿に少し見蕩れてしまった。

「マコトは雷平気なの?」

「うん。全然」

「なんかずるいな。一緒に怖がってよ」

「だって怖くないし。うちの親は一緒じゃないの?」

「別々だよ。帰るまでにマコトの苦手なもの聞き出してやる」

 サトミがそう言って階段を上ろうとした時、また大きな雷鳴が響いた。油断していたのだろう、足を滑らせて転びそうになっていた。

 激しい夕立はその後あっさりと過ぎ去り、何事もなかったかように両親が帰ってきた。母曰く「濡れるのが嫌だったからお茶してきた」とのこと。

 夕食がテーブルに並び始めた頃には昼間の蒸し暑さが嘘のように涼しくなった。

 明日帰るから控えめで、と言って父とおばさんは昨日までと同じペースで飲み始め、サトミは雷がよほど悔しかったのかしつこく怖いものはないのかと聞いてきた。隣に座り腕をつかんで食い下がるその姿が妙にかわいらしくて、適当にはぐらかそうとしたつもりがしどろもどろになってしまった。

 結局動物が苦手と白状したものの、にゃん太と寝ていたからダメと納得してもらえなかった。

「なんにでも特別ってものがあると思うんだ」

「そんなことでごまかされないよ? さあ他には何が怖いの」

「サトミだってトマト嫌いなのに畑で採ったばかりのトマトならおいしいって言ってたじゃない」

「そんな昔の話、今頃持ち出さなくてもいいでしょ。トマトだってもう食べられるんだから」

「他の人から見ておかしくたって、本人にはきちんと正しいことなんだよ」

「それ話逸らそうとしてない?」

 おとといまでは全然会話できなかったのに、普通に受け答えをしている自分を不思議に感じた。それでも、サトミが楽しそうだからいいか、と考えないことにした。

 食後にアイスを食べていたら花火をしよう、と唐突に誘われた。

 外に出ると半袖では肌寒いほどに涼しくなっていた。きっと夕方に降った雨のせいだろう。空はもうすっかり晴れ上がり、吸い込まれそうな星空が広がっていた。

 サトミは色とりどりの花火を振り回してはしゃいでいた。両手に花火を持って踊るようにくるくる回っている。一度に何本も火をつけて笑いながら暗闇に絵を描く。

 もえかすをつかんだまま、バカみたいにじっとその姿を見つめていた。


 夜の肌寒さがまだ残る早朝、祖母とまだ少し眠そうなサトミに見送られながら帰路についた。コンビニで買ったおにぎりで朝食を済ませると、眠気が襲ってきた。

目を覚ました時にはもう自宅のすぐそばだった。長時間おかしな格好で寝ていたせいで体中の関節がきしむような違和感があった。

 車が止まる。蒸し暑くて不快な空気が帰ってきたことを実感させる。夏休みも残り二週間ほどで終わり、また退屈な学校へ通う日々が戻ってくるのだ。

 自分の部屋に戻り、窓を開けて少し埃っぽくなった空気を入れ替える。

 日常が戻ってきた。


 二学期が始まると先生たちはしきりに高校受験という単語を口に出すようになった。進路とか将来の展望とか、まだ自分には関係ないことのように思っていた。

 台風がいくつか過ぎて九月も終わりにさしかかった頃、祖母が具合を悪くしたと聞いた。母は風邪を少しこじらせただけだと言ったがやはり心配だった。サトミはどうしているだろうか。二人きりなのだから自然と祖母の世話はサトミの役目になるのだろう。学校に通って家事をして祖母の看病まで、できるのだろうか。

 連絡を受けて二週間ほど経つと、今度は祖母が入院したと聞かされた。容態があまりよくないのとサトミの負担を考えて、ということらしい。それから週末になると母が様子を見に行くようになった。

 そんな状況だったせいで、それなりに楽しみにしていたはずの文化祭や修学旅行もあまり楽しいものには思えなかった。旅行中に何かあった時はすぐに連絡するから、という母の言葉が重かった。

 そして、十二月を迎えることなく祖母は逝った。


 祖母の家に着くと、喪服姿のおばさんが迎えに出てくれた。

「サトミの相手してあげてくれる。あの子すっかりふさぎ込んじゃって。そのくせ無理にでも何かしようとするのよ。本当は私がしなくちゃいけないことなんだけど、マコト、頼んでいいかな」

 離婚した後ですら陽気に笑っていたおばさんが眉間に皺を寄せながらそう言った。ちいさく頷くと、無理に微笑んで「頼んだよ」とわざとらしく大きな声を出した。

 サトミは台所にいた。

「サトミ」

 背を向けるサトミに声をかけたが反応はなかった。近づいて肩に手を乗せた。

「あっ、マコト。いつ来たの」

 振り返ったマコトの顔にはいつもの明るさがなかった。

「ついさっき。だいぶ疲れてるみたいだけど平気?」

「うん。お茶淹れるね」

 しかしその手元には洗いかけの急須と湯飲みが転がっていた。

「少し休みなよ。顔色悪いよ」

 渋るサトミを無理矢理台所から連れ出して階段を上る。

「少し一人にさせて」

 そう言ってサトミは自分の部屋に入っていった。

 どうしようかと迷ったが、隣にいれば何かあってもすぐわかるだろうと思って一人にさせておくことにした。

 いつものように出窓に腰を下ろす。夏なら涼しい風が吹き込むこの出窓も、冬を間近にしては凍えるような風がガラスを叩くだけだった。

 紅葉の季節にも遅い時期で、木々の葉は落ち山は茶色に染まっている。曇天のせいだろうか、町全体が暗い雰囲気に沈んでいる気がした。

母の話では、祖母はもともと体が丈夫なほうではなかったそうだ。夏休みに会った時はまだまだ元気そうだったにも関わらず急逝してしまったのはその辺りに原因があるのではないかという。「寿命だったのね」と両親は名残を惜しむように話していた。

 おばさんも思っていたよりも平然としていた。祖母の死よりも、それによってショックを受けたサトミの心配をしているように見えた。

 そのサトミは、終始呆然としていた。涙を見せることはなかったが時々話しかけてみてもはっとしたように無理矢理笑顔を見せるばかりだった。

 慌しい一日が過ぎ、祖母の遺骨が納められたひと抱えほどの箱とともに母の実家へ帰った頃には、深夜と呼べる時間になっていた。

「まだ片づけがあるから先にお風呂に入ってきなさい」

 母は疲れきった表情を隠さずにそう言った。

 さっとシャワーを浴びて脱衣所を出ると、足元に冷たい空気が触れた。玄関が開いているのかと思いそちらへ向かうと、途中で縁側からであることに気がついた。

 居間は障子がしっかり閉められているが明かりがついたままだったので廊下もそれほど暗くはない。角を曲がると雨戸が一枚だけ開けられていて、そこから冷たい空気が入り込んでいた。

「そんなところに座ってると体冷えちゃうよ」

 座ったまま石になってしまったようなサトミに声をかけた。

「大丈夫。さっきにゃん太捕まえたから」

 真っ暗な夜の闇へ向いたままサトミが答えた。隣に腰を下ろすと確かに膝の上でにゃん太が丸くなっていた。そのふわふわした毛をゆっくりなでている。

 無言のままでいると、時が止まったようにすら思えた。

 見上げると無数の星が散りばめられた空は高く、すっかり冬の景色になっている。大きく吐き出した息が白く染まって消えた。

「マコト、猫嫌いなんだっけ」

 唐突にサトミが口を開いた。

「嫌いって程じゃないけど」

 言葉を濁すように返事をすると、サトミはふっと漏れるような小さな笑みをこぼした。

「手、出して」

「なに?」

 言われるまま片手を差し出すと、手首をつかんでぐっと引っ張られた。その行く先がにゃん太であることに気がつくと思わず手を引いてしまった。しかしサトミの手は離れない。

「いや、待って。それはちょっと」

 サトミの目的に気がついて必死に抵抗するがサトミが思ったよりも強くつかんでいて離れない。

「さわってみなよ。気持ちいいよ。あったかくてふわふわしてて」

「本当に、許して」

 よほど嫌そうに見えたのだろうか、サトミは手を離してくれた。

「最後のチャンスだよ? いいの?」

「どういうこと?」

「私ね、お母さんと住むことにしたから、この家にはもう人が住まなくなるの。だから明日マコトが帰ったらもうにゃん太には会えなくなるんだよ」

「そうなんだ。東京にはいつ行くの」

「早ければ二学期が終わる前に。三学期からは東京の学校に通う」

「急な話だね」

「仕方ないよ。こんな山の中で子供一人で暮らすなんてできないし」

「サトミは、ずっとこの家に住むのかなって思ってた。……ばあちゃんと」

「高校は東京の学校に行くつもりだったんだよ」

「知らなかった」

「話してないもん」

「自分で決めたの?」

「うん。わがまま言ってここに住んでたけど、ちゃんと先のこと考えたらその方がいいなって思ったの。もう少ししたらお母さんにも話すつもりだったんだけど、こんな形になっちゃって」

 サトミは何か考えるように少しうつむいた。

 かける言葉を探して暗い庭を見渡していると、膝の上ににゃん太を乗せられた。突然のことに全身が硬直してしまった。

「な、なにしてるの」

「マコトって話そらすの上手だよね」

 そう言うサトミの表情はいつもの茶目っ気いっぱいの笑顔だった。そして宙に浮いたままの腕をつかんでにゃん太のそばへ持っていく。

「小さい頃は一緒に遊んでたじゃない」

 サトミは強引に手を押しているが、それでも無理に触らせるのではなくにゃん太のすぐそばで手を止めていた。あくまでも自分の意思で触らせようとしているのだろう。優しさの使い方が間違ってると思わずにはいられない。

「また今度があるとは限らないんだよ」

 言っていることはわかるのだが、だからといって苦手な物を克服できるかといえばそういうわけでもない。緊張しきった足が少し震えている。にゃん太も居心地悪いだろうからどいてくれればいいのにと思う。

 それまで笑顔だったサトミの表情が曇り、手が離れた。

「明日も会えるとは限らないんだよ。また来年なんて、もう、ないんだよ」

 その声が大きく震えていた。目には今にもこぼれそうなほど涙がたまっていた。

「まだ、話したいこと、たくさんあったのに。もう、なんで。なんで」

 叫びたいのを必死で抑えこむようにぐっと歯を食いしばり、睨みつけるようにこちらを見つめている。大粒の涙が堰を切ったように次々とこぼれていく。

 何かしなければ。そう思って手を差し伸べようとした途端、サトミは立ち上がり涙を拭った。

「そんな格好してると、風邪引くよ」

 低く、しぼり出すようにつぶやくと、足早に階段を上っていった。

 にゃん太がもぞもぞと身じろぎをした。のぞきこむと丸くなったまま器用に顔をあらっている。恐る恐る背中に手を当ててみると、懐かしい温かさが伝わってきた。

 背後で障子の開く音がして振り向くと、おばさんが立っていた。

「ありがとね。マコト」

 つぶやくような言葉には疲れが見えた。

「マコトがいてくれてよかったよ。あの子何も言わないけど、ずいぶんマコトに助けられてるみたい。ほんと、ありがとね」

 なんて言えばいいのかわからなかった。黙ったまま夜を見つめていると、濡れたままだった頭をなでられた。

「やっ、冷たっ。なにしてるのあんた。もう一回風呂入ってきな!」

 おばさんに背中を押されてもう一度風呂場に戻った。

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