0.
「お前は特別だ」
生まれて初めて言われた言葉、最も望んでいた言葉だった。
いきなり目の前に現れ、親しげに笑いかけてきた男の顔を、私はまじまじと見上げた。顔といっても、三分の二は紫色のフードで覆われていて、可笑しげな口元でしか相手の表情を判断できない。日に焼けた顎のラインが引き締まっていているからか、柔和だが強い意志を感じさせる。年は三十前後。顔と同じように、身体も毒々しい紫のマントに包まれていた。この閉ざされた田舎村では、目立たずにいられない格好だ。幸いか不幸か、周囲に人はいない。
「どういう意味?」
冷静に答えながらも、内心興奮して私は言った。もしかしたら、この男は壁の外から来たのかもしれない。私に秘められた能力を求めて。それとも、私の持っている物の中に、この男の捜す秘宝があるのだろうか? ……いや、それは有り得ない。私の所有物なんて雀の涙ほどしかないのだから。
私は心の中で、勢いよく頭を振った。
悪い癖だ。何も持っていないくせして、自分の秘められた力に期待している。失望するのは目に見えているというのに。この男だって、今の単調な日々に狂った変人――。
いや、違う。狂人は見れば分かる。頭はまともなはずだ。となると本気なのか?
男が白い犬歯を見せて笑った。自信に満ち溢れているが、その裏に何かありそうな、なんともいえない表情だ。
「言葉の通りだ。もしよければ――」
「――ユキ姉!」
男の言葉は、甲高い叫び声に遮られた。うんざりしながら振り向きながらも、声の主は分かっている。厚く着込んだ毛玉のような少女が、牛と藁の間からボールのように跳ねてくる。まだ肌寒い春の明け方とはいっても、そこまで厚着する必要はないと口を酸っぱくして言ってきたのに、なお彼女は脱ごうとしない。
案の定、目を戻した先に男はいなかった。紫のマント姿は跡形もなく消えている。腹の底から、むず痒い怒りが湧いてきた。抑えきれなくなり、思わず地面を蹴った。
「どうしたの、ユキ姉?」
妹のチルだ。隣に並び、健気な上目遣いで能天気に話しかけてくる彼女に、苛立ちは募った。私は、いつの間にか取り落としていた斧を乱暴に拾った。
「どうもこうもないよ。何しに来たわけ」
自然と吐き捨てるような口調になる。それでも別によかった。彼女はまた一つ、私の希望を抜き取ってしまったのだから。
チルはみるみる目に涙を溜め、
「お、お母さんが、呼んでる……。ご飯だって」
と、哀れみを誘う声で鳴いた。泣き虫は大嫌いだ。そして、死に損ねた老人の次に嫌いなのが子供。特に、彼女のような弱々しいやつはこの世にいらないと思っている。この嫌悪感は苛立ちから来るものだとわかっているが、やはり拭いきれない。私は舌打ちをした。
「いいよ。すぐ行くから先に行ってて」
この言葉を耳にした途端、チルは転がるように走り出した。
彼女の姿が消えると同時に、私は深く息を吐いた。まだ薪割りが終わっていない。牛毛づくろいもしていないし、水も汲んでいないし、屋根の修理も追いつかない。薬草も探さなければいけなかった。沈む思いで空を見上げた。いつもと変わらず、いや、変わるはずもなく、人口の空は青く晴れ渡り、農場の先で地面と接している。永遠にここから出られないのだろうか。外の世界を見る間もなく、平坦な人生を終えるのだろうか。冒険なんて叶うはずもないだろう。心の底から憎かった。チルも、母も、父も、この世界も。行き場のなくなった怒りをぶつけるように、私は力任せに斧を振り下ろした。何度も何度も、薪が粉々になるまで、壊すものがなくなるまで。最後の一欠片を切り、力なくへたり込んだ。体力仕事なんて向いていない。頭は切れても腕は鈍かった。体力だってない。もう限界だ。身体も心も限界だ。この世界から抜け出したい。連れ出してくれるのなら何だってする。さっきの紫の人物を思い出し、悔しさが込み上げてきた。あれが最後のチャンスだったのではないだろうか。逃したら最後、二度と外に出る機会は巡ってこないのではないだろうか。私は声を押し殺して泣いた。
農場からしばらく歩くと、道の両側に、同じような古い木の家が立ち並ぶ。その中の一つが我が家だ。薪を抱えて扉の前に立つと、中から家族三人の楽しげな笑いが漏れてきた。私が望めば、暖かく迎え入れてくれるのだろう。また苛立ちが募って、私は乱暴に木製の扉を蹴った。
「あら、お帰り」
初めに気づいたのは母だった。小さな部屋の中央に、家族四人が座るのが精一杯の、今にも壊れそうなテーブルがある。三人は、そこで白パンを分け合っていた。私の分は端にぽつんと寄せられている。本人みたいだ、と惨めに感心した。
「薪はそこに置いておけよ」
父は太い指で暖炉の脇を指した。久しぶりに彼の声を聞いた気がする。これが彼なりの償いなのだと、冷めた気持ちで納得した。
「うん」
通り過ぎざま、恐る恐る横目で見た父の足があるべき場所には、弱々しく細い木の棒が延びていた。あの事件を思い出し、思わず身震いする。私に夢を与えたと同時に、この壁の中での暮らしをさらに居心地悪いものにした、忌々しい記憶だ。
「チル、さっきはごめん」
立ったまま白パンをくわえて呟いた。一瞬で胃に収まる量だ。飲み込むと、私は掛けられている籠を担ぎ、また外に出た。
「いってらっしゃい。早く帰ってくるのよ」
母の声が追ってくる。以前は『気をつけて』だったのに、今では『早く帰ってきて』なのか、と皮肉に思った。
家を出ると、同じく農場へ向かう、近所のバルおじさんに声を掛けられた。
「おお、ユキ。元気か?」
「元気なわけないじゃん。見れば分かるでしょ」
毒舌ながらも、私の心は弾んでいる。周りの村人は、揃いも揃って私たちを避けた。正確には、バルおじさんを、だ。彼は村一の変わり者で、もうすぐ還暦を迎えるというのに、若者以上にエネルギッシュだ。そのくせ普段は家に閉じこもり、得体の知れない呪文を唱えているというのだから、もっぱら女たちの噂話の種に使われる。それが次第に誇張され、今では、“狂人”という肩書きで呼ばれているのだ。私が彼に興味を持っているのはそのせいでもある。まともじゃない人間なら誰でもよかった。バルおじさんはそれにぴったりなのだ。狂人とまではいかなくとも、何か不思議な雰囲気を漂わせているのは確かだ。ふと、今朝のマントの男は彼だったのではないかと、どこからともなく疑いが頭をもたげた。
おじさんは豪快に笑った。
「ははは、相変わらず冷たいのう。腹が減ってるのか」
一人で納得してしまっている。
「そんなことで元気なくすなんて、おじさんぐらいだよ」
言い終えた後で、おかしなことを言ったものだと思った。バルおじさんが元気じゃない日なんてあっただろうか。 いや、ないに決まっている。
「失敬な! わしだって意気消沈することぐらいあるわい」
「おじさん、もしかして私の頭読んだ?」
私は畏敬を込めておじさんを見つめた。
「そんなわけないじゃろう。顔に書いてある」
にやりと笑うと、彼は前を見つめて叫んだ。
「お、着いたぞ」
彼の何でも楽しめる性格が、心底羨ましいと思った。農場の草を見るだけで吐き気がする。これからの辛い作業を想像し、心臓が重々しく脈打った。
「また化け物が襲ってきたりしないかな?」
淡い期待を込め、声をひそめてたずねた。本当はわかっている。とてつもなく馬鹿馬鹿しい空想だということぐらい。
そんな私の投げ掛けに、おじさんは急に険しい表情になった。
「冗談でも言ってはいけないことがあるぞ、ユキ。忘れたのか」
「さあ、どうだろう」
私は諦めきった笑みを浮かべた。
まずは牛の毛づくろいだ。私の家は二頭しか所有していないから楽だが、周りは屈強な男たちだ。自分の牛を見つけるや否や、私の三倍の速さで仕上げていった。おじさんもどこかへ行ってしまっている。必死に目を凝らし、ようやく栗毛を二頭見つけた。
「ほら、動かないで。いい子だから、ね、マコ」
私は小さい骨ばった身体を押さえた。マコはもう長くないかもしれない。毛並みに艶がない。それはそれでいい気がした。仕事が減るのだから。いい加減にブラシを当てて、隣に移った。
「テル、止まって止まって」
テルはマコの娘だ。まだ若い。マコとの差は一目瞭然だった。ミルクは取れるだろう。安心して息を吐いた。久しぶりの牛乳だ。チルが喜ぶ。父が足を失って以来、母は彼に掛かりきりで、もちろんチルは使い物にならない。私が何もかもやるしかなかった。もちろん生活はぐんと悪くなり、お腹が満たされることも、ぐっすり眠ることすらなくなった。バケツを籠から出し、淡々と乳を搾りながら、五年前の事件に思いを馳せた。
乳を搾る手を休め、袖で汗を拭った。今日のところはこのくらいでいいだろう。また明日、時間があったら取りにこればいい。早く父のための薬草を探さなければいけない。二つのバケツを両手で持ち上げ、家の玄関まで運んだ。昼時になれば、母が取りに出てくれる。
薬草はなかなかない。ただでさえ狭いこの村だ。壁のせいで食料は年々減っている。なぜ閉ざされたのか、外には何があるのか、知っているのは長のルダだけだろう。幼い頃に一度たずねたが、上手く交わされてしまった。
私は、村外れの森の前にある彼女の家を訪ねた。薬草の在り処は彼女に聞くのが一番いい。
「ごめんください」
重い木製の扉を、孔雀の顔を模したノブで叩いた。木の心地よい音が響く。改めて、この家は不気味だと思った。滅多に人が入らない森は鬱蒼と茂り、暗い影を落としている。豪華すぎる石造りに加え、それが余計に気味悪さを引き立たせた。父に代わって働かなければならなくなるまで、よく友達と探検しに来たものだ。結局みんな怖気づき、一人で森の中に入ったのを覚えている。迷子になって震えていた私を、ルダは森の奥で見つけ、家に連れ帰ってくれた。それからも懲りずにやってきたが、いつも追い返されてしまっていた。
いきなり扉が開いた。私は驚いて間抜けな声をあげ、よろめいた。
「何しに来たんだい」
扉の前に立つ老婆が、ぶっきらぼうに吐き捨て、下から私を睨みつけた。使用人だろうか。
「長に会いたいんですけど」
「何の用だい」
「薬草について聞きにきました」
苛立ちを隠さず、老婆が扉を大きく開けて中を指した。入れということだろう。私は大人しく招かれた。
長の館には、前も一度だけ入ったことがある。そのときは父と一緒だった。事件の前日、マコから取れたミルクで作ったチーズを、迷子の私を見つけてくれたお礼に渡しに来たのだ。そのときは、客間でお茶を出してもらった。使用人はいなかった気がする。さすがの彼女も年なのだろう。
内装は全く変わっていない。石が剥き出しになった壁には蝋燭が並び、床は長い赤の絨毯で埋まっている。どことなく恐ろしさを感じ、身震いした。
「ここだよ」
案内されたのは、前回と同じ客間だった。相変わらず質素な部屋だ。中央に木製の大きなテーブルが置かれ、両側に赤いソファがある以外、特に目立つものはない。ソファの中央には、華奢な老人が静かに腰掛けていた。私たちには見向きもしない。
「こんにちは」
私は、戸口に立ったまま声を掛けた。
ルダはゆっくりと振り向いた。
「ああ、薬草かい?」
「はい」
彼女の節だった手を見つめた。もう骨と皮ばかりにやつれている。私より身長は高いが、体重は半分程度しかないのではないだろうか。そろそろ死んでしまう気がする。
「森に取ってこい……と言いたいところだが、ちょうど良かった。最後の瓶が残ってる。持っていきな」
そう笑い、彼女は手を差し出した。紫の草がたくさん入っている。間違いない、痛み止めの薬草だ。仕事が減ったと安堵し、私は歩み寄った。
「ありがとうございます」
ルダの顔は小さかった。皺だらけで、笑っても怒っても同じ顔になってしまうのではないかと懸念するほど、本当に老けている。目も濁り、私の姿もろくに見えていないだろう。瓶を受け取るときに触れた手は、死者のように冷たかった。もしや幽霊なのではないか。嫌な想像を振り切るよう、唇を噛んだ。
「あの時、本当は何があったんだい」
頭から冷水を被ったような寒気がした。心臓が、内臓を揺るがすほど強く脈打ち、一瞬目眩を覚えた。
「あの時?」
素知らぬ顔で聞き返した。
「とぼけるな。たくさんの家畜が失われた。十三人もの人間が死んだ。後に発狂したストを合わせれば十四人だ。そんな中、生き残ったのは主と主の父、シンだけ。だが、そのシンも歩く術を失った。以前と変わらず生きているのは、ユキ、主だけじゃぞ。主は賢い子だ。何が言いたいか、わかるな」
彼女の剣幕にぞっとした。静かな物言いの中に、逆うことを許さない威厳が込められている。薄氷を踏む思いで、
唾を呑み込み頷いた。
「もちろんわかります。ただ、あの時のことはほとんど覚えていないんです。靄がかかったような……。これ以上お話できることはありません」
出てきた声は、予想外に落ち着いたものだった。だが、それに反して手は震えている。ばれないよう、さり気なく後ろで手を組んだ。
「そんなこと知ってるわい!」
ルダが、その身体から発せられたとは信じられないほどの力で、テーブルを叩いた。鳥肌が立つ。
「作り話はもう聞き飽きた。主もシンも、ずっと白を切りとおしておる。これから話すのは本当のこと、真実だけでいい」
足が震えた。見抜かれている。鋭い眼が怖い。もう誤魔化しは効かないだろう。
「本当のこと、ですか。どうして私が嘘を吐いていると思ったのか、教えてくれます?」
「口だけは達者だな」
「どうして私が嘘を吐いていると思ったのですか」
ルダは諦め、唸るように言った。
「どうしてそう思ったか? 簡単なことだ。怪しいと思った、それだけじゃよ。それよりも、本当のことを教えてくれんか」
急になだめるような口調になった彼女に、言い知れぬ恐怖を感じた。あの夜と同じ、戦慄だ――。
* * *
狂信に満ちた叫びが闇夜を切り裂いた。
私は走った。とにかく走った。立ち止まるわけにはいかない。でも、体力はもう限界に達している。足が動かない。腕も上がらない。声なんてとっくの昔に嗄れ果てた。私を駆り立てているのは、恐怖と右手の温もりだけだった。迷惑を掛けまいと、私は目を瞑り、草を蹴る足に力を込めた。開けていても閉じていても、目はないに等しい。むしろ閉ざしている方が楽だった。
短い悲鳴がいくつも飛び交った。私は、声にならない声で絶叫し続けた。息が切れても止めない。止められない。声が途切れることは、すなわち死を意味しているから。日が昇るまで――それが消えるまで、何も終わらせない。声も、鼓動も、温もりも――。
右腕が後ろに引かれた。胃がひっくり返り、背骨をしたたかに打つと同時に、酸っぱいものが喉に突き上げてきた。焼ける。間髪いれず、手をついて這った。ない、ない、ない、ない、ない! 手がない! 光がない! 尖ったものが掌を裂き、どろりとした熱いものが草に吸い込まれる。それが何なのかわからず、気にもせず、私は動き続けた。その時、柔らかいものが指に触れた。狂喜に叫び、必死にそれを手繰り寄せた。逃げなきゃ、早く行こう。思いを込めて強く引いた。が、それはだらりと垂れ下がったきり、握り返してくれない。ふと脳裏を掠めた嫌な予感に、背筋が凍りついた。
しっかりとその手を握り締めた私の腕は、強烈な力に引きずられた。一瞬の出来事だった。何かが潰れる鈍い音とともに、地平線に一筋の光が走った。稲妻のように淡く鋭く、青いはずの空を黄色に偽り、同時に真実を剥き出しにする悪魔の光。
私は見た。いや、見なかった。その光に照らし出されたはずの彼の脚を。確かにそこにあり、地面を力強く蹴るはずだった脚を。代わりに残ったのは、川のように流れる赤い水だけだった。
半狂乱に陥り、絹を裂くような悲鳴をあげた。助けを求めて見上げた空に、漆黒の闇が浮かんだ。夜の闇よりも濃い闇だった。父の脚を奪ったものが、そこに吸い込まれていく。私は反射的に手を伸ばした。
「……連れてって。私も……私も、連れてって」
それが姿を露にした。何もない薄っぺらい顔。目も鼻も口も、人間にあるべきものが一つもない。恐怖に竦むことはなかった。それどころか、胸が高鳴った。離しかけた父の手が、微かに動いたことにも気づかなかった。気づいたとしても、おそらく結果は同じだったのだろう。化け物は、伸ばした私の手を取り、心で笑った。私は解放されたんだ。抜け出せる、この閉ざされた空間から――。一瞬の歓喜だった。
「ユキ姉」
幼い声に背筋が凍った。希望は――黒い希望は、あっけなく消えてしまった。彼女の声が消したのだ。そう思うと、心に虚しい穴が開いた。チャンスが消えた。光が消えた。もう二度と抜け出せない。私は力なく崩れ落ち、絶叫した。
* * *
鮮やかに蘇った記憶に吐き気を催し、ソファの手すりで身体を支えた。
「……わかりました」
突然の承諾に、ルダが驚いたように身を乗り出した。
「あの日、夜中に牛の悲鳴が上がったのは、長もご存知ですよね」
「ああ」
「父が見に行くと言い出したので、私もついて行きました。他にも何人か――」
死んだのは十四人だと言うルダの話を思い出し、言い換えた。
「――私たちを含めて十六人、農場へ向かいました。そこで何かが起きたんです。暗闇で何も見えないから、とにかく走って逃げました。そんな時、悲鳴が上がりました。続いて何度も何度も。牛のものじゃなく、人間のものでした」
私は息を吸って続けた。
「父が転びました。私も転んで、嫌な音がしました。日が出てやっとわかったのですが、それは父の脚が……もぎ取られる音でした」
「化け物の姿は?」
「見えませんでした。それどころじゃなかったので」
敢えてここは嘘を吐いた。このことは誰にも言ってはいけない気がする。
「誰がこのことを知っている?」
「生きている中では父と私だけです」
これも嘘だ。バルおじさんには話したし、日が昇った後にやってきたチルも、化け物の姿を覚えているかもしれない。
「どうして家に逃げてこなかったのだ?」
「化け物をみんなのところに連れて行ってしまうかもしれない、と父が言ったからです」
これだけは事実だった。
満足げに、ルダがため息を吐いた。
「そうか。よく話してくれた。辛かっただろう? 少しお茶でも――」
「結構です」
私は瓶を抱えて館を飛び出し、農場まで一気に駆けた。告白してしまったからではない。猫なで声で労をねぎらったルダの瞳に、妖しい光を見出してしまったからだった。
父は、私が化け物に話しかけたのを知っている。彼に直接言われたわけではないけれど、態度ですぐにわかってしまった。いきなり無口になったのだ。初めのうちは脚を失ったせいかと思ったが、偶然彼が家族と仲良く話しているのを聞いてしまい、私の中に潜むものが見抜かれたのだと悟った。
彼は寡黙に秘密を守り続けた。というより、信じたくなかったのかもしれない。自分の娘の狂ったような言動を。最近、彼はまた少し口を利いてくれるようになったが、会話はするようになっても、心が通じることはもうないだろう。あの夜のわだかまりは、傷が癒えた後も消えない、頑固な汚れと同じだった。
今日は遠回りして農場に帰ることにした。集会場に寄りたかったのだ。あそこは滅多に使われることがなく、最後に住民が集まったのは、五年前の事件の翌日だった。下の広い部屋で、私と父は問い詰められた。だが、今日用があるのはそこではなく、二階の蔵庫だ。館を出てから、どうもすっきりしない。何かが引っかかっているのだ。どうしても確認したいことがあった。
集会場は館からそう遠くないところにある。着いたときには日が高く昇り、暑くなっていた。幸い周りに人はいない。住宅街から外れているから当然だ。すぐ隣に空の終わりがある。私は少し息を整えてから、額の汗を拭い、木製の大きな建物に足を踏み入れた。埃っぽさと冷気に襲われる。咳が漏れた。全く目立つもののない殺風景な部屋だ。百人が入る広さに何もないのは、殺風景を通り越して不気味かもしれない。扉を閉めると暗闇になって、あの夜のことを連想してしまうから、開けたままにしておいた。階段は足音を忍ばせて上った。他人の耳を気にしているのではなく、木の軋む音が嫌だったのだ。
二階は下以上に寒く埃臭かった。足元を照らしてくれるのは、壁に開いた小さな穴から差し込む光だけだ。両手をつき、手探りで書物の入った箱を探した。それはすぐに見つかった。つい小さな歓声をあげてしまう。重めの蓋を開けると、湿った埃が空に舞い、くしゃみが何度も出た。私は紐で留められた神の束から、一番新しいものを選んだ。暗すぎて記号の羅列にしか見えない。穴の一番近くまで這い、目を細めてようやく見えた。手書きの日記形式の記録書だ。ページを捲り、五年前の部分を探し当てた。だが、目当てのものがない。牛が二、三頭死んだことや、どこかの家の老人が重い病気にかかったなど、どうでもいいことは事細かく記してあるのに、肝心な事件の記録だけがない。慌てて全てのページに目を通し、他の束も一通り見たが、それらしきものはなかった。あの晩、確かに記録されていたはずだ。私たちが話す横で、記録係の少女が熱心に筆を走らせていた。恐ろしい予感に血の気が引いた。気を取り直すように頬を叩き、書物を全て仕舞い込んで、私は早足に集会場を出た。冷たい胸騒ぎが背筋に纏わりつき、どれだけ振り切ろうとしても離れなかった。
農場に戻ったとき、すでに人はほとんどいなかった。みんな昼食に戻ったのだろう。置きっぱなしにしていた籠に瓶を放り込み、大きな桶を二つ持ち上げて、農場の中央にある井戸の濁った水を汲みに行った。そのままでは飲めないから、家に帰ったらすぐにろ過しなければならない。もちろん私の仕事だ。重々しいため息が漏れた。母は少しの仕事もできないほど忙しいわけじゃない。父の看病と言う名目で、実際は庭の花をいじっている時間の方が長い。本人は忙しいを連発し被害者面するが、趣味を楽しんでいるのは誰の目にも明らかだった。
井戸は、紐に桶を結びつけて下まで下ろし、水を入れたら持ち上げるという、一見簡単そうに見える作りだ。が、やってみると意外と難しい。最近になってやっと一回で汲めるようになった。
冷えた水で少し顔を洗った。そして両手で重い桶を担ぎ上げ、籠をきちんと背負い、家に向かった。途中何度も桶を置いて休みを入れなければならなかった。肉刺のできた掌に、鉄の細い取っ手が食い込み、痛みが走るのだ。手から肉刺が消えたことはない。毎日新しいものが足されていくからだ。憂鬱になって、小さく舌打ちすると、朝と同様、家の扉を力任せに蹴った。
「おかえり」
出迎えてくれたのは、父の低い声だった。
「チルとお母さんは?」
狭い部屋をぐるりと見回し、桶と籠を暖炉の隣に降ろした。どうせ裏庭で花の世話をしているのだろう。案の定、父は裏口を指した。
「庭で花に水をやってる」
「へえ」
今朝の場所から一歩も動いていない父の背中を盗み見た。木の欠片をナイフで削っている。木彫りの人形を作るのだ。これが専ら、動けなくなった彼の日課だった。私以上に単調で変わり映えのしない生活だ。どうして狂わないのだろうか。いつも首を傾げてしまう。
そんな私の視線を感じたのか、
「やってみるか?」
彼は、ナイフとある程度輪郭が削り取られた木片を掲げた。十八番の天使を作るのだろう。少し興味はあったが、まだ仕事が詰まっている。私は首を横に振った。
「ううん、いいや。時間があったら教えてよ」
教えてもらうことは二度とないだろう。時間なんて足りないくらいなのだから。私は部屋の隅に水を運び、何年も前に父が作ったろ過機にかけた。木箱の中に砂利などが敷き詰められ、下に開いた穴から水が出てくる仕組みになっている。時間が掛かる作業だから、その間にパンの下地を練った。
父が手を止めた。
「お前、いくつになる?」
「この間十六になった。なんで?」
年齢など気にされたことがなったから、少しばかり驚いて顔を上げた。
「いや、なんでもない」
それっきり父は黙り込んでしまった。重い空気が流れる。そっと見やると、彼はナイフと木片を放置したまま、じっと座り込んでいた。脚を失ったとき、彼はどんな気持ちだったのだろうか。わかるはずもない。“苦しい”なんて安易な言葉では言い表せないことだろう。でも、もし私が彼だったら? 変なのかもしれないが、それでも今の生活よりいいかもしれないと、微かな羨望が脳裏を掠めた。足がないことは異端なのだ。ということは、私なんかよりずっと外の世界に近いのではないだろうか。外壁を抜け出せるのは異質な人間だけ。それが、幼い頃から頭に焼きついた、この世界の法則だった。前例があるわけではない。ただ、なんとなくそう感じたのだ。そうなると、私は誰よりも遠くにいるのかもしれない。無茶をしてみたり大口を叩いてみたりしたが、どれも結局中途半端に終わり、何一つ成し遂げることができなかった。改めて虚脱を感じ、全てを投げ出したくなった。
しばらく生地を捏ね、やる気を失った私は、昼食を諦めて家を出た。父は、相変わらず無の世界に入り込んでいる。もちろん追って来ることもなかった。これ以上仕事をしたって意味がない。そう悟り、久しぶりに友達に会ってみようと、子供の溜り場、牛舎の裏へ向かった。あの事件以来、一度もまともに話していない。たまに顔を突き合わせることはあったが、私の前にはやるべき事が山済みになっていて、二言三言交わすのが精一杯だった。
牛舎裏は薄暗い。丸太やら樽やらが山積みになっていて、大人数で馬鹿話をするのにはちょうど良かった。耳を澄ますまでもなく、子供達の笑い声は良く聞こえる。こうして牛舎の陰に隠れていると変な気分だ。まるで事件の前、父が普通に働き、私は遊び暮していたときに戻ったような気がする。はやる鼓動を抑えるために胸に手を当て、深く息を吸い込んだ。よし、いける。
「久しぶり」
勢いよく飛び出した。場が一瞬固まる。不穏な空気をいち早く察したのは、他でもない私だった。リーダー格の少女(名前は忘れた)が呟いた。
「何の用?」
興奮の波が、ここまで簡単に引くものなのか、と感心してしまうほど早く、跡形もなく消えた。この数年間で何があったのかはわからない。だが、もうここに私の入る余地はなかった。彼らの目に、かつての温もりがない。今となっては何故ここに来たのかさえ疑問に思う。冷めた笑いを浮かべ、返事も残さずに立ち去った。
やる事がない。暇だ。かといって仕事に戻ろうとも思わない。一人で人影のないところを目的もなく歩いていると、やめようとは思っても不安が拭いきれず、思考はそこで輪を描き続けてしまう。海草のように纏わりつく予感が嫌だ。でも、心のどこかでは興奮を感じている。今朝のことといい、ルダのことといい、どちらにしろ何かを暗示しているはずだ。もしかしたら、それは外の世界へ行く術なのではないだろうか。ふと見下ろした地面に転がった紫の石が、答えに辿り着けない私を嘲笑うかのように、妖しく光った。苛立たしくなり、それを草むらに向かって思い切り蹴った。
「ユキ、何やってるんだ?」
威勢のいい声が突如降りかかった。
「おじさん、驚かさないでよ」
バルおじさんは右手に鎌を担ぎ、左手に分厚い本を持って笑っていた。どこからそんなものを仕入れてくるのか、不思議に思ってたずねたことがあるが、代々伝わるものだと交わされてしまったのを覚えている。
「暇なら家に来ていいぞ」
私は即答した。
「行く」