聖剣を抜けなかった者の会、会員数が三万人を突破しました 〜国王(付け髭)と魔王(帽子)も在籍中です〜
聖剣は、抜けなかった。
びくともしない、というほどではなかった。ぐらっとは、した。した気がする。十年間、毎朝欠かさず実家の畑で大根を抜いて鍛えてきた俺の両腕は、確かに何かの手応えをつかんだのだ。
だが、抜けなかった。
王都の中央広場。その真ん中に鎮座する大岩に、聖剣は三百年前と変わらぬ姿で突き刺さっている。岩の正面には、苔むした碑文が一行。
――この剣を抜きし者、勇者なり。
俺は、勇者ではなかった。
柄から手を離すと、膝から力が抜けた。石畳に両手をつく。
十年だ。十年、大根を抜いてきた。村の大根抜き大会では三連覇した。村長には「お前の腕は、きっと世界を救う」と言われ、母さんには弁当を持たされ、父さんには「抜けたら、うちの大根もよろしくな」と意味のわからない激励をされて、三日かけて王都までやって来た。
その結果が、これだ。
立会いの衛兵が、口元をひくひくさせながら帳面に何か書きつけている。笑いをこらえているのだ。きっと「失敗」の二文字だろう。俺の十年は、たった二文字で――
パーン!
頭の上で、何かが盛大に弾けた。
ひらひらと紙吹雪が舞い落ちてくる。見上げると、広場の街灯に吊るされた巨大なくす玉が、ぱっくりと割れていた。中から垂れ幕が、べろんと下がる。
『祝・三万人目』
「おめでとうございまーすっ!」
野太い声とともに、粉まみれのエプロンをつけた大男が駆け寄ってきた。熊のような腕でくす玉の紐を握りしめ、満面の笑みを浮かべている。
「あなたが記念すべき、三万人目の『抜けなかった者』です!」
「…………は?」
見れば、大男の後ろには、ぞろぞろと人が並んでいた。片眼鏡の老騎士。左右で色の違う付け髭の老人。やけに背の高い、帽子の紳士。全員が拍手をしている。衛兵まで拍手をしている。お前は仕事をしろ。
「ようこそ、坊主!」
大男は俺の手をがしりと握り、ぶんぶんと上下に振った。
「俺はボルグ。『聖剣を抜けなかった者の会』の会長だ!」
「ぬ、抜けなかった者の……会?」
「そうだ! 三百年の歴史を誇る、由緒正しき互助会だ! さあ立て。今夜は歓迎会だぞ。三万人目の記念品もある!」
そう言って押しつけられたのは、手のひらに乗るくらいの木彫りの剣だった。
ちゃんと、木彫りの岩に刺さっている。
抜こうとしたら、抜けなかった。
「芸が細かい!」
* * *
連れて行かれたのは、広場の角にあるパン屋『ボルグ亭』の二階だった。
焼きたてのパンの匂いが立ちこめる広間には長机がずらりと並び、壁には大きな額が掲げられている。
『聖剣を抜けなかった者の会 会則』
一、抜けなかったことを恥じない
二、剣のせいにはしてよい。人のせいにはしない
三、抜ける者が現れたら、全力で祝福する
四、会員の素性は詮索しない
「まずは第二条だ」
ボルグさんが、俺の肩をばんと叩いた。
「坊主。お前、今、自分が悪いと思ってるだろう」
「……思ってます。十年も鍛えたのに、俺の力が足りなかったから――」
「違う!」
広間にいた全員が、声をそろえた。
「剣が悪い!」
「えっ」
「はい、坊主も一緒に。せーの」
「け、剣が悪い……?」
「声が小さい!」
「剣が悪いっ!」
「そうだ! あんな硬い剣が悪い! 三百年も意地を張ってる剣が悪い! お前は何も悪くない!」
拍手が起きた。なんだこれは。なんなんだ、この集団は。
なのに、胸のつかえが不思議と少しだけ軽くなっていて、俺はそれがちょっと悔しかった。
それから、会員の紹介が始まった。
「こちらは、元騎士団長のガルド殿だ」
片眼鏡の老騎士が、一礼した。背筋が槍のようにまっすぐな人だ。
「ガルドである。聖剣への挑戦、四十七回」
「えっ。挑戦って、一人一回までじゃ……」
「うむ。ゆえに、変装した」
ガルドさんは懐から、年季の入った手帳を取り出した。
「一回目は素顔。二回目は修道女。三回目は旅の吟遊詩人。四回目は老婆。五回目は樽」
「樽?」
「樽だ」
「樽は変装なんですか?」
「立会いの衛兵は、樽が剣を握るのを、見て見ぬふりをしてくれた。良い衛兵であった」
「ちなみに、その衛兵も会員だ」
ボルグさんが付け足した。どうりで、さっき拍手していたわけだ。あのひくついた口元も、俺を笑っていたんじゃない。祝いたくて、うずうずしていたのだ。
次に紹介されたのは、付け髭の老人だった。左が白で、右が茶色。どう見ても別々の髭を、無理やり貼りつけている。
「わしは、ただの髭の男じゃ。この会では『髭さん』と呼ばれておる。よろしくな、若いの」
髭さんの肩には、金糸の刺繍が入った豪奢なマントがかかっていた。というか、頭の上に王冠が載っていた。
「あの、頭の上に――」
「会則第四条!」
全員が、また声をそろえた。
「会員の素性は詮索しない!」
「……はい」
「ちなみに髭さんは、会費を十年滞納しておる」
ガルドさんが、片眼鏡を光らせた。
「来月払う」
「十年前から聞いておるぞ」
そして最後に、やけに背の高い紳士が、静かに立ち上がった。
夜の色をしたコートに、つば広の帽子。その帽子のてっぺんが、左右二か所、ぐいっと尖って盛り上がっている。ちょうど、立派な角が二本、中に押しこめられているような形だ。
紳士は胸に手を当て、地の底から響くような声で言った。
「余は、ただの帽子の男である」
「…………」
「『帽子さん』と呼ぶがよい」
帽子さんの足元では、影がうぞうぞと蠢いていた。窓の外では、帽子さんが立ち上がるのに合わせて、雷雲がゆっくりと渦を巻き始めている。
俺は、ボルグさんの袖を引いた。
「あの、会長。あの人、どう見ても魔――」
「第四条」
「……はい」
「帽子さんはな、百年前に入会してから、例会を一度も休んだことがない。皆勤賞だ。毎回、手土産の饅頭も持ってきてくれる」
「魔界名物、溶岩饅頭である。中が熱いゆえ、気をつけて食すがよい」
差し出された饅頭を割ると、中のあんこが本当にぐつぐつと煮え立っていた。熱い。うまい。悔しい。
「帽子さんは、どうして聖剣に挑戦したんですか?」
饅頭をふうふう冷ましながら訊くと、帽子さんは遠い目をした。
「先に抜いてしまえば、二度と勇者は現れぬ。そう考えたのだ」
「頭いいですね」
「抜けなかった」
「でしょうね」
「腹立たしかったので、帰りに広場の屋台で饅頭を買い占めた。その屋台の主が、この会の会員でな。余の顔を見るなり、『剣が悪い』と言いおった」
帽子さんは、ふっと口元をゆるめた。
「長い生のなかで、余を恐れずに慰めた人間は、あれが初めてであった」
ガルドさんが、湯呑みを置いた。
「それ以来、帽子さんは毎月ここで、我々と茶を飲んでおる。おかげでこの百年、王国と魔王軍のあいだに戦は一度も起きておらん」
「えっ」
「毎月一緒に饅頭を食う相手と、戦争はしにくいものだ」
なんだその和平。
「お父さーん、パン焼けたよー!」
階段をとたとたと上がってきたのは、十歳くらいの女の子だった。両手で、焼きたてのパンが山盛りになった籠を抱えている。
「娘のミナだ。うちの看板娘でな、将来はこの店を継ぐんだと」
ボルグさんが、でれっと目尻を下げた。
ミナちゃんはパンを配りながら長机を回り、帽子さんの前でぴたりと止まった。
「帽子のおじちゃん、こんばんは!」
「うむ。今宵の飴は、地獄苺味である」
「やったあ!」
魔王――いや、帽子さんの懐から、真っ赤な飴玉が出てきた。地獄苺がどういう苺なのかは、怖いので訊かないことにした。
ミナちゃんは飴を頬張ったまま、俺を見上げた。
「お兄ちゃんも、抜けなかったの?」
「……うん」
「そっかあ。剣が悪いね!」
当たり前のように、そう言った。この子は、この会で育ったのだ。
「ミナちゃんは、挑戦しないの?」
「しないよー。だって、わたし、パン屋さんになるもん」
にこにこと笑って、ミナちゃんは次の机へ駆けていった。
俺は、広間を見回した。
騎士がいる。王様がいる。魔王がいる。ほかにも、鍛冶屋の親方、宿屋のおかみさん、町医者の先生、学校の先生、橋大工の棟梁。みんな、勇者になれなかった人たちだ。
「王都の宿屋の七割、鍛冶屋の六割、パン屋の九割はうちの会員だ」
ボルグさんが胸を張った。
「橋だって、全部うちの会員が架けた」
「パン屋の九割……」
「勇者になれなかったやつはな、なぜかパン屋になりたがるんだ。焼けば膨らむからかもしれん」
ガハハ、とボルグさんは笑った。
勇者になれなかった人たちが、なれなかったぶん、別の何かになった。そうやって、三百年。
この国は、聖剣を抜けなかった人たちで、できていた。
* * *
「ところで坊主、字は書けるか」
歓迎会もお開きに近づいたころ、ボルグさんが訊いてきた。
「出荷伝票なら、毎日書いてましたけど」
「上等だ。お前、書記をやれ。前の書記が老眼で引退してな」
どん、と目の前に置かれたのは、辞書のように分厚い帳面の山だった。全部で三十冊ある。
「会員名簿だ。入会した者は、名前と、聖剣を握ったときの『手応え』を書き残す決まりになっている。それと、その後どうなったかもな」
一冊目を開く。紙は黄ばみ、インクはかすれていた。三百年前の字だ。
『会員番号一番。手応え――岩ごと抜けるかと思った。抜けなかった。その後――この会を作った』
初代会長だ。
ぱらぱらと、ページをめくる。
『手応え――大地そのものを引いている気がした。その後――農夫』
『手応え――昨日なら抜けた。その後――言い訳の多い宿屋』
『手応え――腹が減っていた。その後――パン屋』
パン屋が多い。本当に多い。
二十冊目のあたりに、見覚えのある名前があった。
『会員番号二万百十一番。帽子の男。手応え――びくともせぬ。腹立たしい。帰りに饅頭を買った。その後――魔王(継続中)』
隠す気がない。
『会員番号二万七千十二番。ボルグ。手応え――少し動いた気がする。気のせいかもしれない。その後――パン屋。娘が生まれた』
ガルドさんのページは、すぐにわかった。同じ筆跡で、四十七人ぶん、別々の名前が並んでいたからだ。修道女。吟遊詩人。老婆。
『樽。手応え――微動だにせず。その後――樽ではない』
知ってる。
「坊主も書いとけ」
ボルグさんに促され、俺は最後のページに自分の名前を書いた。
『会員番号三万番。ピート。手応え――ぐらっとした(気がする)』
「ガハハ、最近の若いのは、みんなそう書くんだ」
「うむ。近ごろの若者は、すぐ『ぐらついた』だの『動いた気がした』だのと書く。昔の者は、そんな甘えたことは書かなんだ」
ガルドさんが、嘆かわしげに首を振った。
その後の欄は、空白のままにしておいた。
まだ、何も書けることがなかったから。
* * *
翌朝。
「抜けたぞおおおおおっ!」
広場から聞こえてきた絶叫で、俺は飛び起きた。ボルグ亭の二階で、名簿を枕に寝落ちしていたらしい。
窓から身を乗り出す。広場は、黒山の人だかりだった。
その中心。大岩の前に、小さな女の子が立っていた。
片手にパンの籠。もう片方の手に、朝日を浴びて燦然と輝く、一振りの剣。
ミナちゃんだった。
階段を転げ落ちるように駆け下りて、人垣をかきわける。
「ミナちゃん!」
「お、お兄ちゃあん……」
ミナちゃんは、半泣きだった。
「パン、配達してたの。そしたら石につまずいて、転びそうになって。なんか、つかまるとこ探して、つかまったら……」
彼女は、自分の右手を見た。
「抜けちゃった……」
どっ、と広場が沸いた。
「勇者さまだ!」
「三百年ぶりの勇者さまの誕生だ!」
「いや、三百年で初めてだろ!」
王城の方角から、祝いの鐘が鳴り始める。
人垣が割れて、粉まみれのボルグさんが走ってきた。娘の姿を見て、その場で凍りつく。
岩と、剣と、娘を順番に見て。
ボルグさんの顔が、くしゃりと歪んだ。
それから、ゆっくりと、無理やり、口の両端を持ち上げた。
「お……」
声が震えている。
「おめ……おめで、とう……っ!」
会則第三条。抜ける者が現れたら、全力で祝福する。
ボルグさんは、泣きながら祝福していた。全力で。
その背後で、ガルドさんがどこからか古びたくす玉を取り出した。三百年前、初代会長が「いつか抜ける者が現れた日のために」と作り、代々受け継がれてきたものらしい。
紐が引かれる。
ぼふっ。
三百年ぶんの埃が、勢いよく噴き出した。
「げほっ」
「ごほっ」
「三百年の重みが、肺にっ!」
黄ばんだ垂れ幕が、ずるりと垂れる。
『祝・勇者誕生』
その文字だけは、三百年前のまま、くっきりと鮮やかだった。
* * *
その夜、ボルグ亭の二階で、臨時総会が開かれた。
広間に入りきらないほどの会員が詰めかけ、階段にも、店の前の通りにまで、人があふれている。
黒板には、ガルドさんの几帳面な字で議題が書かれていた。
『一、勇者誕生について
二、魔王討伐について
三、会員数が今後増えなくなる件について』
「三番目、深刻なんですか」
「会費収入に関わる」
ガルドさんは真顔だった。
「王城の古い決まりではな」
髭さんが、王冠の位置を直しながら、いかにも他人事のように言った。
「勇者が現れたら、七日以内に旅立たせ、魔王を討たせねばならんのだそうじゃ。いやあ、王様もさぞお困りじゃろうなあ」
「あなたが困ってください」
「第四条」
「……はい」
全員の視線が、自然と一か所に集まった。
部屋の隅で、帽子さんが静かに溶岩饅頭を食べていた。
帽子さんは饅頭を最後のひとかけまで食べ終えると、指先をナプキンで拭い、ゆっくりと立ち上がった。
「では、余が討たれよう」
広間が、しんと静まり返った。
「会則第三条。抜ける者が現れたら、全力で祝福する」
帽子さんは、帽子のつばにそっと触れた。
「余にできる最大の祝福は、勇者に討たれてやることであろう。百年、世話になった。礼を言う」
「重い!」
全員が叫んだ。
「重いよ帽子さん!」
「祝福が重すぎる!」
「第三条をそういう意味で使うな!」
「やだっ!」
いちばん大きな声を出したのは、ミナちゃんだった。帽子さんのコートの裾に、両手でしがみついている。
「帽子のおじちゃん斬ったら、もう飴もらえないもん!」
「……飴なら、遺言で、毎月届けさせよう」
「そういう問題じゃないです!」
今度は、誰にも第四条を言われなかった。
「ミナ」
ボルグさんが、娘の前にしゃがみこんだ。大きな手で、小さな頭をなでる。
「お前は、どうしたい」
ミナちゃんは、しばらく黙っていた。それから、ぽろぽろと涙をこぼした。
「わたし、勇者なんて、なりたくない」
「……うん」
「パン屋さんになりたい。お父さんみたいな、パン屋さん」
「……うん」
「それに、わたし、なんにもしてないもん」
しゃくりあげながら、ミナちゃんは言った。
「みんな、いっぱい練習して、何回もがんばって、それでも抜けなかったのに。わたし、つまずいただけだもん。ずるだもん。こんなの、勇者じゃないもん……」
誰も、何も言えなかった。
ガルドさんが、うつむいた。四十七回。素顔で、修道女で、老婆で、樽で。人生をかけて挑み続けた人が、黙って拳を握っていた。
俺も、十年を思った。毎朝の畑。冷たい土。抜いても抜いても、次の畝に待っている大根。
十年。四十七回。三百年。
それでも抜けなかった剣が、十歳の女の子が、つまずいて、つかまっただけで――
……つまずいて、つかまった、だけで?
気づけば、俺は机の上の名簿に手を伸ばしていた。
「お兄ちゃん……?」
一冊目を開く。三百年前の、かすれた字。
「三百年前。『岩ごと抜けるかと思った』『大地そのものを引いている気がした』『山を引いているようだった』」
ページをめくる。
「二百年前。『びくともしない』『微動だにせず』」
めくる。
「百年前。帽子さん。『びくともせぬ。腹立たしい』」
「読み上げるでない」
帽子さんが言った。
めくる。めくる。
「五十年前。『かすかに、軋む音がした』」
めくる。
「四十年前。ガルドさん、一回目。『微動だにせず』。……二十回目。『指に、わずかに何か伝わった』。……四十七回目」
ガルドさんが、顔を上げた。
「『動いた。確かに動いた。だが、抜けぬ』」
めくる。
「三十年前。ボルグさん。『少し動いた気がする。気のせいかもしれない』」
ボルグさんが、息をのんだ。
「十年前。『ぐらついた』。五年前。『ぐらついた』。去年。『ぐらぐらする』。……昨日。俺。『ぐらっとした』」
俺は、名簿を閉じた。
「気のせいじゃ、なかったんです」
広間のあちこちで、誰かが息をのむ音がした。
「うちの村には大根抜き大会ってのがあって、俺、三連覇してるんですけど」
「今それ関係あるか?」
誰かが言った。
「あります」
俺は、ミナちゃんの前に膝をついた。
「大根ってさ、いきなり力まかせに引っこ抜こうとしても、抜けないんだ。葉っぱがちぎれるだけで。だから、まず周りの土をほぐす。根元を握って、前後左右に、少しずつ揺する。何回も、何回も」
十年間、毎朝やってきたことだ。
「そうやって揺すってるとさ、ある瞬間、すぽっと抜ける。最後の一回は、子どもの力でも抜けるんだよ」
ミナちゃんが、涙でぐしゃぐしゃの顔で、俺を見た。
「この剣も、同じだったんだ。三百年かけて、三万人で、ちょっとずつ揺すってきたんだよ。初代の会長も、帽子さんも、ガルドさんも、ボルグさんも、俺も」
「…………」
「ミナちゃんが抜けたのは、ずるなんかじゃない。俺たちが三万人がかりで、ほぐしておいたからだ」
だから。
「ミナちゃんは、三万人ぶんの最後の一回を、引き受けてくれただけなんだよ」
しん、と広間が静まった。
最初に声を上げたのは、ガルドさんだった。
「……無駄では」
片眼鏡の奥で、老騎士の目が赤くなっていた。
「四十七回は、無駄では、なかったのか」
「気のせいじゃ……なかったのか」
ボルグさんが、天井を仰いだ。粉まみれの頬を、涙がつたい落ちていく。
そこかしこで、すすり泣きが聞こえ始めた。鍛冶屋の親方が、宿屋のおかみさんが、町医者の先生が、目元をぬぐっている。
ただ一人、帽子さんだけが、わなわなと震えていた。
「待て」
「帽子さん?」
「余は……勇者を生まぬために、聖剣に挑んだのだぞ」
「はい」
「その余が……揺すって、ほぐして……勇者の誕生に、加担しておったと申すか」
「百年ぶん、しっかりと」
帽子さんは、帽子の上から頭を抱えた。角の形の盛り上がりが、ぎゅっとつぶれた。
「…………剣が悪い」
広間が、どっと笑いに包まれた。
その笑い声のなかで、ミナちゃんが、ぽつりとつぶやいた。
「じゃあ、これ、みんなで抜いたんだね」
壁に立てかけてある聖剣を、彼女はじっと見つめた。
「みんなで抜いたんなら、わたし一人のじゃ、ないよね」
そして、ぱっと顔を上げた。
涙のあとが残る頬で、にっこりと笑う。
「わたし、これ、返してくる!」
* * *
翌朝の広場には、王都じゅうの人が集まっていた。
聖剣を抱えたミナちゃんが大岩の前に立つと、ざわめきが、すっと引いていく。
「あ、その前に」
ミナちゃんは、パンの籠から丸パンを一つ取り出した。
「せっかくだから、一回だけ使ってみてもいい?」
会員一同、顔を見合わせた。
「……まあ、いいんじゃないか」
ボルグさんの許しを得て、ミナちゃんは聖剣の刃を、丸パンにそっと当てた。
すとん。
力を入れた様子もないのに、パンは見事に真っ二つになった。断面が、きらきらと光っている。なんで光るんだ。
「わあ、よく切れる!」
ミナちゃんはパンを小さくちぎって、会員たちに配って回った。ガルドさんにも、髭さんにも、帽子さんにも、俺にも。
三百年待った聖剣の、最初で最後の仕事は、丸パン一個を切ることだった。
たぶん、世界でいちばん平和な、勇者の一太刀だった。
「ありがとね。またね」
ミナちゃんは聖剣にそう声をかけてから、岩の穴に、そっと差しこんだ。
その瞬間、剣がほのかに光った。
ずずず、と岩が鳴る。剣は吸いこまれるように沈んでいき、柄の根元で、ぴたりと止まった。岩の割れ目が、まるで三百年前に戻ったかのように、きっちりと口を閉じる。
広場が、静まり返った。
そこへ、髭さんが一歩、前に出た。
髭さんは、左右で色の違う付け髭を、べりっと剥がした。
広場が、どよめいた。
王冠は最初から載っていたのだが、それでも、どよめいた。
「国王である」
国王は、朗々と告げた。
「聖剣が岩に戻った以上、勇者の座は空位とする。よって、魔王討伐の旅も不要である!」
割れんばかりの歓声が、広場を包んだ。
国王は満足げにうなずくと、剥がした髭を、そそくさと貼り直した。
「……と、今さっき、王様が言っておったぞ」
「無理がある」
その隣で、帽子さんが、小さく頭を下げた。
「髭の。恩に着る」
「なに。会費の代わりじゃ」
「払え」
会員全員が言った。
「よーし」
ミナちゃんが、もう一度、聖剣の柄を両手で握った。
「よいしょっ!」
顔を真っ赤にして、思いきり引っぱる。
剣は、びくともしなかった。
「……抜けない」
ミナちゃんは、ぱあっと顔を輝かせた。
「お父さん! 抜けない! 抜けないよ!」
会則第一条。抜けなかったことを恥じない。
ミナちゃんは恥じるどころか、跳びはねていた。
「坊主」
ボルグさんが、俺の手に、くす玉の紐を握らせた。
「書記の仕事だ」
俺は紐を握りしめ、大きく息を吸いこんだ。
パーン!
紙吹雪が舞う。垂れ幕が下りる。
『祝・三万一人目』
「おめでとうございます! あなたが、三万一人目の『抜けなかった者』です!」
「やったあああっ!」
会員たちが、いっせいに拳を突き上げた。
「剣が悪い!」
「剣が悪い!」
「剣が悪ーいっ!」
ボルグさんが、娘を高々と抱き上げた。泣いていた。昨日とはまるで違う顔で、全力で泣いていた。
「おめでとう、ミナ! 抜けなくて、おめでとう!」
たぶん、世界でいちばんおかしな祝福だった。
そして、世界でいちばん幸せそうな、父親の顔だった。
* * *
その夜、俺は名簿の最後のページを開いた。
『会員番号三万一番。ミナ。手応え――びくともしなかった!(うれしい) その後――パン屋(予定)』
それから、一つ上の行に目を戻す。空白のままだった、俺の「その後」の欄。
少し考えてから、ペンを走らせた。
『その後――書記。みんなの手応えを、書き残している』
聖剣は、今日も抜けない。
岩は三百年前の固さに戻ってしまったから、三万人でほぐした三百年も、きれいに元どおりだ。次に抜けるのは、また三百年後か、もっと先か。
それでいい、と俺は思う。
ミナちゃんは、剣をみんなに返したのだ。挑む楽しみごと、ぜんぶ。
これから何万人がこの剣を握って、抜けなくて、ちょっと泣いて、剣のせいにして、笑って。パンを焼いたり、橋を架けたり、饅頭を配ったりしながら、名簿に一行ずつ書き足していくのだろう。
その手応えを、俺はぜんぶ書き残しておこうと思う。
いつか誰かが、すぽっと抜いて、あの朝のミナちゃんみたいに途方に暮れたとき。名簿を開いて、ここに何万人ぶんの手応えがあるんだと、読み上げてやれるように。
――ほら、また一人。
広場の真ん中で、旅装の若者が、がっくりと膝をついた。
俺はくす玉の紐を握り、大きく息を吸いこむ。
「おめでとうございます! あなたが、三万二人目の――」
作品をお読みいただきありがとうございます。
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