睡眠逃亡
おやすみです。
「怒ってる?」
「ん?」
「いや、怒ってるかなって、思って」
「うん、そうだね、なんて言おうか」
タン。タン。
真っ白な上靴が、教室の床に打ち付けられて乾いた音をたてる。小気味良い音がゆったりとしたリズムで生まれる。わたしは黙ったまま、彼の言わんとすることをじっと待っていた。
タン。
タップの最後を告げるように、一際大きく空気を揺らした静かな音。
小さく彼の声が響く。
「怒ってはいないよ。ただ、」
ただ。
わたしはその言葉の続きが何なのか、知っていた。
不自然な間が空いた。
そっと近づいていって彼の顔を覗き見るも、いつもの通り涼しい顔だ。涼しくて、そっけなくて、そしてどこか優しくて、切なくて、甘くて、淡い。
でもその顔の下の方、喉の奥からは隠しきれない嗚咽が漏れていた。
それは不思議な光景だった。大きな焦茶色の瞳に浮かぶ感情は、悲しみでもなく、苦しみでもない。彼の顔は歪んでないし、唇は曲げられてもないし、頬が引き攣っているわけでもない。
ただ教室に響くのは、悲しみの混じった小さな彼の嗚咽だけ。
それからどれくらいの時間が経っただろうか。ふと気づくと、わたしの喉からも小さな呻き声が漏れていた。嗚咽なんて崇高な、透明なものじゃない。呻き声。
涙はこれまで枯れるくらいに流してきた。目を真っ赤にしたわたしを、涙と洟でぐちゃぐちゃになったわたしの顔を、彼にも腐るほど見せてきた。でもどうしてだろう、今は彼に見せたくない。顔を背け、平気なふりをして、遠くの方を見る。
「うぅ、んう、ゔぅぅ、ゔう」
汚い呻き声は隠せるわけもなく、静まった教室によく響く。
瞬きはせず、上を見る。目にいっぱいに溜まった涙を一滴も床に落とさないように。
低くて優しい彼の嗚咽と、喉の奥から溢れ出てくるわたしの声が混ざり合って、溶けていく。
「ただ、」
おもむろに彼が口を開く。
「ただ、悲しくってね」
まだ息が荒っぽいが、落ち着く間すらも惜しむように、彼はせきを切ったように言葉を吐き出す。
「他に道はなかったのか、とか、生きてればいいことあるよ、とか、幾重にも衣を重ねれば、言葉なんてのは何だって出てくるんだよ」
ふ、と一息ついて、荒くなってしまった息を正す。そんな彼を目に入れつつも、わたしはまだ雫を落とすまいと抗っていた。
「僕は結局、偽善者だった。君を守れなかった。自己保身に走った。ヴェールを剥いだ言葉を君にかけるかどうか迷っていた。答えが出ないまま、君から遠く遠く離れたところへいってしまった。」
そしてわたしも、
「そして君も、僕を追いかけてきてしまった」
それが、
「それが、悲しくて」
哀しくて。
「最後まで君のそばにいたかった。君たちのそばにいたかった。君たちを見捨てたわけじゃないんだ」
知ってる。
「僕も、逃げたかったんだ」
知ってる。
知ってる。
ゔぅ。
知ってる。
知ってるの。
わたし、ほんとは全部知ってたの。
あなたの苦しみも、溢れそうな涙も全部、わかってたの。
知ってたの。
わたし、ほんとは、
「知ってるよ。私たちに逃げていいって言ってくれたもんね。私たちだけが許されて、あなたに許されないなんて、そんなのおかしいよ。あなたが私たちに語ってくれたことを、あなたもしただけ。ただ、それだけ。だからあなたは、正しいの、間違って、ないの」
ゔぅぅ。
また声が漏れる。汚い声。
隠しきれない声が溢れてしまったのに気付いたのか、呻き声に被せるように、大きい声で、彼が言う。
「逃げて、ごめんね」
ごめんね、だなんて。そんなバカなこと言って。ねえ、
「悪いことじゃないんだよ。逃げてもいいの。あなただってわたしだって、苦しくなったならもう、どこか遠くへ行っていいの。誰にもそれを止める権利はないの。あなたしかわからないの。あなたが苦しいのは、あなたしかわからないの。だから」
「もういいよ」
知らず知らずの間に声が大きくなってしまっていたわたしを、やはり甘い声とともに彼が制す。
「ありがとうね」
不意に彼が呟く。少し気まずそうに、癖っ毛のある髪を手でかき回して。細くて節くれだったその手は、薄い色でありながらも暖かかった。
「今更こんなことを君に言っても、なんというか、自己満足な気がする。うん、我儘だってのは、わかってるよ」
「わがままなら、そんなの、わたしの方が」
「『僕の方が』『君の方が』とかじゃないんだ。ぼくは僕だから、君の我儘を最期まで聞いてあげないといけなかった」
自責の念のこもった眼には、心なしか諦念も窺えた。
わかった。
彼の内側の黒い部分に手を触れてやっと、気付いた。
ああ、そうか。彼だって、人間なのだ。わたしたちと何も変わらない、人間なのだ。完璧っていう脆い鉄の皮を被ったただの一人の、弱い人間なのだ。
「もっと早く気付いてあげればよかったね」
「気づくはずもないよ。何しろ、SOSを出さなかったのは、僕なんだからね」
少し困ったように眉尻を下げて、小さく笑って、彼はそう言った。
「でも、じゃあ、あなたのわがままは誰が聞くの?」
「え? ……うん、そうだね…」
「わたしが聞く」
「え?」
「わたしが聞く。もう遅いかもしれないし、わたしじゃ心許ないかもしれないけど、でも、あなただって人間なの。あなたが一人で生きていけるわけないの」
誰かを守るために、誰かが犠牲になるなんて、馬鹿げた話だ。
わたしたちを守るために、彼が犠牲になるなんて、馬鹿げた話だ。
彼が苦しむなんて、ほんとうに、ほんとうに、馬鹿げた話だ。
だから、
「あなたの全部、わたしに聴かせてほしい」
しばらくの間、わたしの喉元に目を置いたあと、彼は教室の隅まで歩いていって、窓を少しだけ空けた。優しく吹くそよ風をほおに当てて、目を細めながら彼が言う。
「もう遅いんだね。もし君に、もう少し早くそんな言葉をかけられていたら。もし僕が、そのことにもう少し早く気付いていられたら」
薄く呟かれた言葉の節々に染み渡っていたのは諦念でも未練でもなかった。
あるはずもない太陽がまるで眩しいかのように、空を仰いで手をかざす。その姿は、なんだか、懐かしかった。
もしわたしが、彼の気持ちに気づいてあげられていたなら、もし彼が、自分の苦しみに気づいていたなら、吐き出せていたなら、
わたしたちは、ここにいることはなかったのだろうか。
「ねえ」
机に腰掛けた彼が言う。
「わがまま、聴いてくれる?」
彼の方も見るも、彼は窓の外を見ている。
「ぼくのわがまま、最初で最後の、最期のわがまま」
不思議と、わたしの眼に映る彼は、幼かった。
「うん、いくらでも。いくつでも、何回でも、何でも、聴かせて」
腰掛けていた机からゆっくりと腰を下ろして、彼はまた困ったような微笑みを浮かべる。
「一つだけだよ。一つだけ。簡単だとは言わない。絶対に、そんなことは言わない。だから、落ち着いて聞いてほしい」
「うん」
「やっぱりぼくは、君に生きてほしい」
「うん」
「君が捨てた世の中が苦しいのは、知ってる。知ってるのに、こんなお願いをするのは間違ってるかもしれない。逃げたぼくが言うのは、無責任だと思うかもしれない」
「うん」
「生きてれば楽しいことあるなんてこと言わない。君が浴びた苦しみの分だけ幸せが来るなんてこと、言わない」
「うん」
「ぼくが君を幸せにしてあげるなんて、言わない。言えない」
「うん」
「………言えない」
「…うん」
「だけど、わがままかもしれないけれど、ぼくは君に生きてほしくって。幸せになってほしくって」
彼の声が小さくなっていく。
小さくなっていく?
いや、
遠くなっていく。
「だから、もうここへは来ちゃいけないんだよ」
懐かしい彼の低い声で目が覚めた。馴染みのある匂いがして瞼を上げると、私の腕がベッドからだらしなく垂らされているのが見えた。
どうやら、長い夢を見ていたようだ。
長い長い夢を見ていたようだ。
大好きな人の夢を見ていたようだ。
できるなら、もう少し、もっと、夢を見ていたかった、
夢を見ちゃいけないのかな。
それが幸せな夢でもダメなのかな。
私は、生きてたほうがいいのかな。
ねえ、先生。
おはようです。
きつかったら逃げてもいいんだって。




