8 高鳴る胸
谷さんのハグに特別な意味など無く、挨拶と同じ。だから、彼の優しさに甘える形になってしまった。と、思っていた。
「ハコベさん、あなたには必ず逢えると信じて待っていました。遅くても待てば必ず来る、遅れることはないとの聖書の言葉がありますし、美枝さんが繋いでくれたご縁ですから、大切にしたいと思っています」
でも、谷さんに頭上から静かにそう囁かれて……。
待っていましたって……、ご縁て?
『人間一生のうち逢うべき人には必ず逢える。しかも一瞬早すぎず、一瞬遅すぎない時に。』
私も以前本で読んだ、似たような名言を思い出す。
私にとって、谷さんは逢うべき人なの?
異性の腕の中に自分から飛び込むなんて信じられないことをしてしまったけれど、このぬくもりには安らぎを感じる。私は、私たちは、この先どうなるんだろう。
再度、催促するように玄関のベルが鳴り響く。
「もう少しこのままでいたかったのに、残念です」
そんな囁き声に甘い衝撃を受け、信じられない思いで見上げた先に、柔らかに微笑む宝石のように美しい瞳があった。
谷さんは、私にまわしていた腕をゆっくり離すと玄関へ。私も深呼吸して、高鳴る胸を落ち着かせながら谷さんの後ろからついて行く。
玄関で待っていたアンティークの買取業者さんたちは、ウェーブのかかった長髪を後ろに纏めている同じ年代くらいの男性と二十代前半くらいのフワフワした茶髪男性のふたり組だった。アンティークの家具など扱うにしては、ふたりともだいぶ細身だ。
「本日はご連絡いただき、ありがとうございます。【アンティーク・ムーン】の犬飼と申します。こちらは助手の猿渡です」
ふふっ、犬と猿って、ひとりでウケてしまって、危なく吹くところだった。おかげでふたりの名前は一発で覚えられたけど。
「村山です。お待ちしていました。どうぞよろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願い致します」
わざわざ名刺を渡された。谷さんにも渡している。私は笑いたいのを我慢していたのに、お隣の谷さんはなぜか引き締まった表情?
「村山さんの片付けの手伝いに来ている谷です」
谷さんから滑らかな日本語で挨拶された犬飼さんは、一瞬まばたきしたけれど、すぐ笑みになった。
「村山さん、谷さん、今日は、どうぞよろしくお願い致します」
犬飼さんは、穏やかで丁寧な方だった。
挨拶を済ますと、さっそくふたりを家の中へ案内した。各部屋の説明をして、売る予定のない大切な物はだいたい選別してあるので、部屋に残っているものは自由に見てくださいと伝えた。
犬飼さんは紙が挟んであるバインダーとペンを手に、猿渡さんに指示しながら、応接間からチェックを始めた。
一通り全ての部屋を見てまわって、買い取りする物の査定金額を出してくれるらしい。それによって売却するかどうかはこちらで決めて良いとのことだった。
余程の高額でなければ、すぐに現金買取してくれるそうだ。
犬飼さんと猿渡さんは、談笑しながら、これはどうする? と、楽しそうに仲良く物色している。犬飼さんが若い猿渡さんの意見もきちんと求めているのが印象的だった。
興味深いので、私も谷さんもふたりの査定についてまわった。私としては、一番の掘り出し物は、洋間の奥にあるおばあちゃんの着物がしまってあった大きな桐箪笥かと思っていた。
ところが、犬飼さんの見立てではハリボテなので、まさかの買取対象外だった。
私にはさっぱりわからなかったけど。
あのおじいちゃんの奇妙な形の写真引き伸ばし機も買い手がつかないとのことで、対象外。珍品なので喜ばれるかと思ったのに、必ずしもそういうわけではないらしい。
結局一番高値がついたのは、おじいちゃんのどっしりとした木製の書斎机だった。
その机用に使っていた木製の回転椅子はなぜか脚の部分だけ買取で、上の椅子は対象外。上だけ残されてもね。
石膏の女神のトルソーや古い呼び鈴、本棚にあった国民的アニメ原作の古い漫画本は、猿渡さんの好みだそうで、買取。あとは台所に置いていた鰹節削り機、木製の茶箪笥、かび臭いガラス扉付きの小さなキャビネット、本棚、文机、小さなブックスタンド的なものまで、とにかく古い木製品は全て値段がついていた。大きな木製の本棚もあったけれど、よく見たら虫食いのあとがあるとのことで対象外。新しめの家具類は、やはり見向きもされなかった。
この家のトイレは、個室のドアの前に廊下があって、その入口にもガラスの入った格子の扉がある。その扉にも値段がついたのには驚いた。
トータルでなんと三万円ほどになった。あとで叔母に報告しよう。
犬飼さんと猿渡さんは、細身の割に力仕事は慣れているらしく、手伝おうとした谷さんを制して、ふたりで買取した物を乗ってきたワゴン車に要領よくすべて積みこんで帰って行った。
さほど時間もかからずに済んでしまって、拍子抜けした。
ところどころ、いくつかの家具がなくなっただけで、部屋がガランとなって広く感じる。狭い家だけど、一軒家だし、それなりには広かったんだ。
谷さんとふたりだけに戻ると、さっきのハグの余韻が……。
なんだか谷さんからの視線に熱がこもっているようで、急に落ち着かなくなってくる。
「ハコベさん、ちょっと外の空気でも吸いに行きませんか? この辺りの古い町並みも見てみたいです」
「そ、うですね。行きましょうか!」
谷さんの提案にのる。
この界隈は街中に近く、お寺や古い建物も数多く残っている。大学が近いので意外と外国の方が多い。留学生のための寮や留学生向けのアパート、国際サポートセンターもある。
日常的に外国の方々が道を歩いている。そんな中でも谷さんは目立つと思う。
玄関で靴を履いていると、
「ハコベさん、あの、厚かましいお願いなんですが、そろそろ僕のことを『オリオン』と名前で呼んでいただけると嬉しいです」
「えっっっ!!?」
唐突なお願いで、距離をつめられた。
そ、そ、それは、さすがにハードルが高すぎる。
そちらでは名前呼びは普通でしょうけれど、こちらではかなり親しい間柄に限られるということを、わかってます?
「だめですか?」
軽く腰をかがめて、流し目で私の顔を覗き込むというあざとい仕草。谷さんがするとお願いの威力が半端なく、お断りしにくい。
「だ、ダメじゃないですけど……」
けど……、という、この語尾をにごした複雑な心境を読み取って〜!
「ありがとうございます!」
パァっと笑顔に花が咲くって、こういう顔のことだ。
読み取っては……くれていないよね。
むしろとても前向きな解釈で、喜ばれた? どうするこれ。