プロローグ〜星花とハイカラおばあちゃん
プロローグは、以前短編で投稿した
【星花とハイカラおばあちゃん】を少し改稿した内容で筋はほとんど同じです。短編は検索除外にしました。このプロローグは、ひな月さま、よつ葉さま主催【紡ぎあう絆】企画、参加作品です。
そして、1話からが、星花と織音の新たなエピソードになります。
香月よう子さま&楠結衣さま主催「バレンタインの恋物語」参加作品にしたかったのですが、色々盛り込んでしまって、文字数オーバーしますし、その他も企画概要から外れているところがありますので単独作品で投稿しました。
よう子さんに届きますように。
ーー星花ちゃん? 万里子よ。
年末12月29日の早朝、私の所に、私の母の妹である万里子叔母さんから電話がかかって来た。声が沈んでいる。
ーー母が、今日の明け方、ケアハウスで亡くなったの。
え!? おばあちゃんが……!!
「そんな……!!?」
おばあちゃんは、九十八歳。高齢のため心臓の機能が低下していて、胸に水が溜まっているものの、まだ入院するほどではないとの病院の先生の診断で、ケアハウスに戻されていた。
数日前に、父とケアハウスを訪れて、話をして来たばかりだったのに。
ーー高齢だから、急に悪化したのかもね。それでね、今日の午前十一時から警察の検視があるそうなの。私はこっちからだし間に合わないから、悪いんだけど、立ち会いに行ってくれる? 親族の立ち会いが必要なんだって。
「警察の検視?」
ーー病院以外の場所で亡くなると警察の検視があるらしいの。ごめんなさいね。私も準備が終わり次第、こっちを発つから。
叔母は北陸の方に住んでいて、おばあちゃんと私は東北。来るとは言っても新幹線を乗り継いでなので、だいぶかかる。
そのあと、叔母からおばあちゃんの亡くなった経緯を説明された。
前日は朝からあまり食欲がなかったそうだが、さほど普段と変わりない様子で寝ていたらしい。明け方、スタッフさんが別の入居者のお世話をしている間に、おばあちゃんはひっそり亡くなっていたとのこと。夜勤のスタッフさんしかいない時間帯。
「わかった。まずは検視の立ち会いに行くね」
そう言って電話をきってから、悲しんでいる間もなく、さっそく出かける準備を始める。年末で、既に会社は休みになっていたのでその点は気にすることはない。
まずは市内にいる父にも連絡して、念の為に一緒に行って貰うことにした。あとは、叔母さんと相談して手分けして親戚に連絡と葬儀屋さんの手配をしなければ……。
涙が滲んだ。
おばあちゃん、最後までひとりで頑張って本当に立派だったよ。看取ってあげられなくてごめんなさい。
おばあちゃんは、最近までずっとひとり暮らしだった。
二年前に、長女だった私の母美千子が膵臓癌で他界、関西に住む伯父も同じ年に肺の病で他界、万里子叔母は遠方なのもあって、一、二ヶ月に一度の頻度で、一週間程度おばあちゃんの所に泊まりに来ていた。叔母は同居を望んだけど、おばあちゃんが住み慣れた自分の家から離れたくないと断った。
孫の私は同じ市内に住んではいても仕事もひとり住まいの父のこともあるので、おばあちゃんの様子は一、二週間に一回、バスを乗り継いで見に行っていた。
おばあちゃんは、介護保険を利用してヘルパーさんを毎日朝と晩四十五分ずつお願いして、週二回デイサービスを利用してリハビリとお風呂に入れてもらっていた。そして訪問看護、訪問リハビリも受けていた。
私がおばあちゃんの家を訪れるととても喜んでくれて、デイサービスでは、レクリエーションにも積極的に参加して、下敷きで卓球をして上手いと褒められたとか懐かしい歌を歌ったとか、楽しそうに話してくれた。もともと活発なおばあちゃんなので、外出できるのも嬉しかったようだ。
おばあちゃんは、念の為オムツははいていたけれど、自宅では最後までベッド脇のポータブルトイレを利用して用を足していた。私が一度ポータブルトイレの中を綺麗にしようとしたら、それはヘルパーさんのお仕事だから私がすることないと毅然として断られ、ポータブルトイレは回りが汚れている時だけお掃除をするくらいだった。
それから、私が訪れた時は、足を洗ってあげたり、手足の爪を切ってあげたりした。意外と爪が伸びるもので、高齢のためかカルシウム不足のせいか、爪は硬いのにボロボロで、剥がれてしまわないように用心深く切ってあげた。
普段のご飯の準備はヘルパーさんが、必要な物の買物は近くの商店の方が御用聞きに来て下さっていた。ヘルパーさんの作って下さる甘い厚焼き玉子がお気に入りだった。
多くの方々の助けを借りて、ひとり暮らしができていた。
でも、おばあちゃんも九十八になり、さすがに叔母も私も心配で、ケアマネージャーさんに入居できる高齢者施設を探してもらっていたが、どこも満室で民間のこじんまりしたケアハウスで空きを待っていた矢先だった。
☆
おばあちゃんは、神奈川県生まれ。とにかく才女だった。なんと言ってもかの有名なO女子大学出身。
私が物心ついた時には、市内の私立高の数学教師で、その後定年まで勤めあげた。定年後は、自宅で中学生の数学の家庭教師をして、何人もの中学生たちを県内一の公立高校に合格させたらしい。おじいちゃんも国立T大学の化学の教授だったので、あの近所では、かなりの有名人だったと思う。
実はおじいちゃんとは、お互いに再婚同士、伯父と母はおじいちゃんと若くして亡くなった前妻の子どもで、万里子叔母だけがふたりの子どもだ。
母の話では、叔母は秀才ふたりの血を引いて神童だったらしく、なんでも学校から脳波を撮らせてくれないかと打診されたとか。昔のことなので信憑性は薄いが、もちろん断ったらしい。
おばあちゃんと私は、残念だけど血の繋がりは無い。それを知ったのは高校を卒業してから。母からそのことを聞いた時は驚いた。でも、血は繋がってなくても、おばあちゃんは私のおばあちゃんに変わりはない。
おばあちゃんは、理系だったけれどもスポーツも音楽も大好きだった。若い頃はバスケットボールをしていて、高校では長くバスケットボール部の顧問をしていたそうだ。スケートも好きだったらしく、自分だけの白いスケート靴を持っていた。
音楽のほうでは、日本モーツァルト協会に所属していた。入会すると自分だけのケッヘル番号が、会員番号になると嬉しそうに教えてくれた。
おばあちゃんは海外旅行のツアーに行ったり、クラシックの演奏会に行ったり、本の朗読会に行ったり、毎日何かしら忙しくしていて、昔で言うハイカラな女性だったと思う。
いつも、溌剌としていて前向きで、努めて背筋をピンと伸ばし、好奇心旺盛で、活動的、感情豊かで笑顔が素敵だった。誰からも慕われるような人で、私も大好きだった。自慢のおばあちゃんだった。私も目指せおばあちゃんみたいなおばあちゃん、と思っている。
おじいちゃんが寝たきりになってからは、自宅で看護や介護もがんばっていた。おじいちゃんが亡くなって、ひとり暮らしになってからもずっと自分の家で過ごして、大変だったと思うし、特に夜などは寂しかったかもしれない。それでも、理想的な老後を過ごしたと思う。毎日来て下さるヘルパーさん、訪問看護の看護師さん、訪問リハビリの方、町内会の民生委員の方、ご近所の方々、叔母や私を含め、たくさんの方々に見守られて、幸せだったと思う。
☆
ケアハウスのベッドで横たわっているおばあちゃんは、安らかな顔をしていた。スタッフさんが異変に気が付かなかったくらいだから、それほど苦しまなかったに違いない。
ケアハウスで警察の検視を受けて、葬儀屋さんに連絡をして、来て下さった葬儀屋さんのワンボックスカーでおばあちゃんと一緒におばあちゃんの家に帰った。
葬儀屋さんは、手早くおばあちゃんを部屋に安置、手際よく小さい祭壇をセットしてくれた。
家に帰って来たよ、おばあちゃん。
独特のいつもの古い家の匂いに包まれる。
数時間後、万里子叔母も来たので、葬儀屋さんと打ち合わせを行った。さすがに年末年始に葬儀は難しく、年明け後、数日経ってからになった。
おばあちゃんは、何日もドライアイスのお世話になって、ずいぶんと冷たかったに違いない。
☆
林家先祖代々のお墓のある市内でも由緒あるお寺での葬儀には、年明けすぐにも関わらず、遠方の親戚、学校関係者から教え子さんたち、ご近所の皆さんまで多くの方々にお越しいただいた。
私が、父と受付けを行っていると、その場が一瞬ざわめいて、静かになった。
誰、この人?
みんながそう思ったに違いない。
喪服の黒一色の中にその容姿は目立ちすぎた。自然な金髪に碧眼のスラリと背の高い男性。見た目は明らかに欧米人、整った顔立ちで年齢は私と同じアラサーくらいに見える。
父も私もその男性に目が釘付けになってしまった。彼は、私たちのいる受付までゆっくりやって来ると、お香典を差し出して、
「ハコベさんとお父さまですね? この度は、心よりお悔やみ申し上げます。美枝さんには、大変お世話になりました。私は秋津町町役場の谷と申します」
綺麗な日本語で、話しかけられた。
町役場!? 秋津町は隣りの町。
私の名前を、私を知ってる?
〈美枝〉というのはおばあちゃんの名前だ。おばあちゃんの知り合いにこんな若い人が?
これが、彼、谷 織音との初めての出会いだった。
彼と私の話は、また別の機会に……。