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鯨の歌、君の色彩  作者: 四ノ明朔
第二部【変奏曲/流れゆくとき、波風とともに】
8/31

不可能/存在しない

「……丁度良いんだ、ここ」



 画材置き場である棚のとなり、壁と棚の微妙に空いた隙間にすっぽりと嵌まる成人男性が一人。

 美術部顧問の美術教師である。


 彼は、会議が始まって拍手をするときから、ずっとあそこに嵌っていた。

 何度か部長に視線で問い掛けても、気にするなと首を振られていたのだ。


 顧問の変わったところ。

 奇行は今に始まったことでもないが、元来ツッコミ気質の僕は、この光景にツッコまずには居られない。

 しかし、会議の進行を止めることになるので、終わるまでは唇を噛んで耐えていたのである。


 やっと解放されたと清々しい気持ちになっていると、顧問はぬるっと抜け出して、僕らに近付いてきた。



「これから作業するんだろう。

 いつも通り、戸締まりは任せた。

 俺は職員室に居るから、必要があったら呼びに来い。

 熱中症には気を付けろよ」



 後ろ手で手を振りながら、彼は先輩たちと同様に美術室を去る。

 どこぞの掃除屋のように。


 しかし、そこまで格好つけても、奇行は中和されないのだ。

 どこまで行っても、彼の評価は『格好良い』ではなく、『面白い』なのである。

 アスファルトをタイヤで切りつけることもなければ、チープなスリルに身をまかせることもない。

 まあ、彼はどちらかというと女嫌いであるので、どうしてもあの男ようには成れないのだろうが。



「……作業するか」

「……そうだね」



 昨日と同じく二人ぼっちになった空間で、僕らはそれぞれ紙を手に取った。


 風が吹けば、風鈴がなる。

 凛とした音は、僕らの気持ちを涼しくさせた。

 

 昨日より、いくらか低い気温。

 けれど、それでも暑いものは暑い。

 僕の額には、少量であるが汗が滲んでいた。


 しゃきんと鋏の刃が紙を切る音、かちりとホチキスが紙を止める音だけが空間に響く。

 時折、鳥の鳴き声や車の駆動音が、相槌のように聞こえていた。


 その気まずい静寂を掻き切るように、僕は口を開く。



「……君、鋏使えたんだ」

「流石に舐め過ぎだよ。わたしを何だと思っているんだい?」

「筆より重いものが持てない」

「偏見が過ぎる。

 水を入れた筆洗くらいなら持てるからね?」



 それでも大分貧弱だろう。

 自分のことは棚に上げて、僕は彼女を揶揄(からか)った。

 

 平均よりは下だが、彼女ほど弱いわけではない。

 現に、彼女が持てない巨大なキャンバスを息も絶え絶えというレベルだが持ち運べるのだ。

 つまり、僕には揶揄する資格がある。


 そんな戯言を垂れていると、ふと頭に『あれ』が過ぎる。

 

 純粋無垢で、ひ弱で、浮世離れした少女。

 しかしながら、美術に関しての知識と技量は舌を巻くほど。昨日が良い例だろう。


 知識範囲は僕でも知っているようなものから、誰も知らないような雑学まで幅広い。

 僕の現在の美術知識は、彼女との何気ない会話から得たものが大半だった。


 技量に関しては、何も言うことはない。

 素人ながら、彼女の描く絵はプロと大差無いように見える。

 身内贔屓もあるかもしれないが。


 改めて考えてみれば、とても歪だ。

 言うなれば、表面上の一般常識はあるが、それの土台となるような知識が全く無いのだ。

 しかし、己の得意範囲では、長い時を研鑽に費やしたような力を誇る。


 まるで、ずっとこの世界ではない、どこか別の世界で暮らしてきたかのように。

 この世界に、()()()()()()()()()()()()


 しゃきん、しゃきん。

 少女が鳴らす音が、僕の鼓動と一致する。

 聞こえてくる度に、僕の鼓動は早くなる。


 頭を埋め尽くすのは、ただ一つの問い。

 『彼女の所属は、どこのクラスだ?』なんて、知っていて当然であるはずのものだった。


 何故、今の今まで気付かなかったのだろう。

 彼女と出会ったのは、屋上が初めてだ。

 それ以降、会うのは美術室に限られ、ここ以外の校内で遭遇することはない。

 無論、校外もだ。


 今日の会議だって、部長は僕のクラスにおける出し物には言及したが、彼女には全く触れなかった。

 それは、予め聞いていたからという可能性が否定しきれないが、あのドストレート物言いの部長なら、把握している時点で僕に伝えるはずだ。


 だが、僕の耳には一切何も入ってこない。

 彼女の、ここ以外での生活の情報が、何も。


 なら、いったい彼女は何者なのだ。

 制服を着ているのだから、生徒なのだろうか。

 しかし、校内で見かけたことはない。

 ただ、制服を着ているだけの部外者なのだろうか。

 ならば、顧問が見過ごすわけがない。


 しゃきり。彼女が操っていた鋏が動きを止めた。



「どうしたんだい、きみ?

 全く手が動いていないよ」



 ──何か、気になることでもあったのかい?


 首を傾げる少女。

 宵闇のように黒い髪、その隙間から覗く光の無い『闇』。

 それとは正反対の透き通った声が、酷く鼓膜を震わせた。


 わからない、どうすればいいかわからない。

 君は何者なんだ、君は誰なんだ。

 訊こうにも、喉が閉まって声が出ない。


 ああ、そうだ。この感情は、『恐怖』。

 昨日と変わらない恐怖心。

 僕は、紛れもなく彼女に恐怖しているのだ。


 得体のしれない、この少女に。

 そして、その深淵に触れることに。



「……何、でもない。気にするな」



 僕はまた、彼女の心配をあしらった。

 彼女から目を逸らした。


 蛇腹折りにした花紙の束の中心を、ホチキスで止める。

 端を波状に切り落としてから開けば、出来上がるのは青い薔薇を模したもの。

 決して本物ではないけれど、それは薔薇のように見えた。


 青薔薇、花言葉は──。

 以前、少女が語ったそれを思い出し、そして息を呑んだ。


 なあ、君は僕がこうなることをわかっていたのか。

 僕が、君の存在を疑うことを知っていたのか。


 手の中の造花は、何も示さない。

 口を閉じた僕らは、何も話さない。

 目に見えない壁を感じながらも、僕は彼女と同じ空間に居続ける。認めたくない現実から、逃げ続ける。


 けれど、いつか夢から醒めることになる。

 醒めなければいけなくなる。

 この刹那の幸せの日々は、いつかは終わってしまうのだ。


 だから、僕はその日が来るまで夢を見る。

 夢が終わってしまわないように、足掻き続ける。

 現実に追い付かれてしまわなように。

 でなければ、僕は──。


 またもや茜色に染まる世界の中、青い薔薇が揺蕩っていた。

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