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鯨の歌、君の色彩  作者: 四ノ明朔
第二部【変奏曲/流れゆくとき、波風とともに】
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後悔先に立たず

 「どうした」と訊く前に、鈴のなるような声が響く。



「きみは、どうなんだい?」

「……何が?」

「『好きな奴は居る』というが、きみ自身はどうなのかなと。

 ……ねえ、きみはわたしの絵が好きかい?」



 急に何を言い出すんだ、こいつは。


 唐突な問い掛けに心拍数が上がる。

 訊かれているのは彼女の絵に対してのものであるはずなのに、どこか彼女自身が好きか訊かれているようだ。


 咄嗟に答えることが出来ず、僕は俯いた。

 一般的に思春期である僕にとって、『好き』という言葉は重い。

 絵に対してだと理解していても、異性に言うなら尚更だ。


 逡巡していると、正面からかたりと音が聞こえた。

 白い指先が視界の端を過ぎる。

 次の瞬間、僕の視界は濡羽色に染め上げられた。



「さあ、早く答えを聞かせておくれよ。

 ちゃんと、わたしの目を見てね」



 普段筆を握っている細い指が、己の頬に触れている。

 彼女の低い体温が指から、手から僕に伝わってくる。

 首筋側から目尻の方へ、まるで熱を奪うように動いたそれらが、吹き飛んでいた僕の意識を呼び戻した。



「……何のつもりだ、離せ」

「答えを聞くまでは離さないよ。

 いつものらりくらり躱されるからね。

 今日こそ聞かせてもらわないと」



 振り払おうと手を上げるが、彼女の手に触れる気になれず、そのまま下ろしてしまう。


 ああ、くそ。どうしてこんなことになっている。

 今まで感想を求められても、素っ気ない返ししかしなかったからか。

 僕が君の絵が好きかなんて、気にすることでもないだろうに。


 処理落ちしそうなパソコンの如く熱くなっている頬に気付かない振りをして、何とか答えを捻り出した。



「……好きか嫌いかなら、『好き』だと思う。多分だけど」

「なんだい、その微妙な返しは」

「うるさい。答えてやったんだから、それでいいだろ」



 仕方ないなという風に肩を竦めた少女は、やっと僕から手を離す。

 紅潮しているだろう頬の熱で、冷たかった指先は大分温まっていた気がした。


 立ち上がって、机に身体を預けていたであろう彼女は、作業の続きをするためか、椅子に座り直した。

 邪魔になるからと一つに纏められた黒の長髪が、彼女が動く度に揺れる。



「……まあ、今日のところは勘弁してあげよう」

「『今日のところは』じゃないだろ。もう止めろよ」

「嫌だね」



 即答かよ。


 ぽつりと苦言を呈しても、自由人の少女は気にしていないようだった。


 再び、ペンで色を塗っていく少女。

 一枚ごとに色を変えるようで、群青だけでなく、浅葱色や茜色も使っていた。


 美術室に漂う臭いが、油からアルコールへと変わる。

 それでも刺激的で不快な臭いなのは変わらないはずなのに、僕はどこか心地良く感じていた。


 やがて、彼女全てに色を塗り終え、もう完成したのかと包装用の袋を取ろうと立ち上がった時だ。

 制服のシャツの袖が、後ろから引っ張られる。


「おっと、もう少し待ってくれ。

 最後の仕上げが終わっていないんだ」

「仕上げ……?」



 頷いた彼女は、線を描いたものと同じ種類だが、それより細いペンを僕に見せた。



「色を塗っただけだと、物足りなくてね。

 少しテクスチャを入れようと思うんだ」



 そう言うと、彼女は海豚の絵に線を描き足す。

 影や表皮の皺に当たるものだ。


 始めは、そんなことをしてもあまり変わらないだろうと思っていた。

 そのままでも、立派な一つの作品であると感じたからだ。

 しかし、数分後、僕は彼女の言葉の意味を理解した。

 実在感──リアリティが全く異なるのだ。


 変化を目にした今だだからこそわかることだが、先程までの絵は『イラスト』であった。

 シルエットははっきりしているが、そこまで深い書き込みはなく、あっさりとしている。

 それが悪いわけではないが、彼女が意図してそう描いたわけではないからか、若干の違和感があったのだ。


 例えるならば、テストの解答用紙にある謎の空白だろうか。

 何かしら問題があったはずだが、点数調整などの事情があり、敢え無く削除されたことで生み出されたもの。

 少女の描いた『イラスト』は、それと同じだった。


 僕のような初心の素人は、言われなければ気付かない。

 しかし、彼女はその違和感を自覚し、そして加筆してみせた。

 それは、積み上げられた経験と努力と知識があるからこそ成せた業。

 彼女の人生の結晶そのものだった。



「……良し、今度こそ描き終えた!」



 少女は、最後の一枚を掲げる。

 色紙の箔押しが夕焼けの光を反射して煌めいた。


 ふと時計を見れば、もう六時を過ぎている。

 そろそろ、部活を終える頃合いだ。


 彼女の作業と同時進行していた包装を終わらせると、僕は立ち上がった。



「そろそろ、帰るぞ」

「……もうこんな時間か。

 『脱稿ハイ』というものだったのかな。

 いつもより時の進みが早く感じるよ」

「確かに、今日の君はいつもより一段とおかしかった」

「酷くないかなあ!」



 夕日が差し込む教室で、いつものように軽口を叩き合う。

 僕はもう、彼女に対しての恐怖心なんて忘れてしまっていた。


 あんな意味のわからない感情は、一時のバグか何かだったのだ。

 今が正常、あるべき本当の姿。

 だから、何も問題ない。


 画材の片付けを終わらせ、包装した色紙を棚の中に入れると、僕は自分の鞄を手に取る。



「じゃあ、また明日」

「ああ、またね」



 そうして、逃げるように教室を後にした。

 茜色に染まった君は、僕が見えなくなるまで、手を振り続けていた。


 今思えば、どうして目を逸らしたのだろう。

 どうして、現実を見れなかったのだろう。

 あの時、君に話を聞けていれば──。


 そんな未来は露知らず、僕は夢を見続ける。

 魔法使いが見せる、刹那の夢を。

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