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鯨の歌、君の色彩  作者: 四ノ明朔
第二部【変奏曲/流れゆくとき、波風とともに】
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突飛な発想ほど的を射る

 いつの間にか夏休みも終わり、彼女は、今週末の文化祭に出す作品の仕上げに入っている。


 ここまで描けばもう終わりだろうとは思うが、彼女にとっては未だ完成していないらしい。

 全く、美術とは奥が深いものだ。


 時計を見れば、現在時刻は午後四時五十八分。

 そろそろ日が暮れ始める時間帯である。


 手持ち無沙汰で描いていたスケッチが良い感じに仕上がったので、それらしくサインをする。

 ただ単に自分の名前をローマ字にし、筆記体で書いたものだが、何だか凄く『それっぽく』なった。

 男心を擽られる格好良さだ。


 3Bという、それなりに濃く描ける鉛筆を机に置くと、同時に少女が咳混じりに歓声を上げる。



「……出来た!」

「おめでとう、風邪ひいてるならさっさと帰れ」

「ようやく完成したところだというのに、酷くないかなあ!

 ……まあ、風邪ではないから安心してくれ」

「ならいいけど……で、それ運ぶのか?」


 P百号という巨大なサイズで描かれた絵画は、少女の小さな背丈では運びにくそうだ。

 イーゼル上にそのまま置いてくのならそれでいいが、動かすようなら手伝うべきだろう。



「おや、手伝ってくれるのかい?」

「そりゃあな。僕だって、人の心がないわけじゃない」

「それは助かる。とても重いからね、このキャンバス」

「知ってる。誰が作ったと思ってるんだ?」



 少女がくすりと笑った。

 何を言おう、この巨大なキャンバスを作ったのは僕なのだ。


 指示を出したのは彼女であるが、木を切り出したり、釘を打ったりなどの肉体労働はこちらの担当。

 因みに、彼女の作品のキャンバスは全て僕の手製である。


 何故、部員ですらない僕がそんなことをしているのかと問われれば、彼女に工具を持たせるのがとても危なっかしかったからとしか言えない。

 普通、(のこぎり)の刃の延長線に手を置く者が居るだろうか、いや居ない。

 小・中学校の図画工作や技術の時間で習うはずなのだが。


 そうして僕は、ふと思い至った。

 そういえば、彼女は時々純真無垢な性質が垣間見える。人間社会で暮らしているのならば、絶対に知っているようなことでも、彼女は知らない。


 電子レンジにアルミホイルを入れてはいけないとか、自動販売機で十円以下の小銭は使えないとか、そういう細かなことだ。

 もっと言えば、昔流行っていた曲やテレビ番組なども、『興味がなかった』と言える範疇を超えるほどに無知である。


 気付いてはいけなかったことに、気付いてしまったような感覚。

 足元が抜け落ちてしまったような感覚。

 けれど、何故それを感じているのかがわからない。

 そこはかとない恐怖心が僕の背筋を凍らせた。


 そんな僕を他所に、腕を組んで空間を見渡していた少女が、とある一点を指差した。



「そうだな……空いているのは、そこくらいか。

 では、そこの壁に立て掛けてくれ。

 出来るかい?」

「……了解。少し退いてくれ」



 彼女の声で我に帰ると、僕は動揺を隠すように運び始める。

 数か月前に切ったきり伸ばしっぱなしの髪が、冷や汗をかいた額にぺたりと張り付いていた。


 ごとりと重いキャンバスを置く。

 美術室の硬いコンクリートの床と、キャンバスの木枠が重低音を立てた。

 その音と、筋肉の緊張が緩んだことをきっかけに、思考が数分前に戻ってしまう。


 何故、彼女は世間を知らないのだろう。

 何故、彼女は純粋無垢なのだろう。


 知る必要なんてないはずなのに、好奇心が溢れ出て来る。

 その答えを早く得ろ、と。


 玉のような冷や汗ごと、おかしな思考を吹き飛ばすそうと頭を振った。

 考えたくない、その先を考えてはいけない。

 恐怖に怯える心が脳味噌を抑制した。


 『好奇心は猫を殺す』というように、世の中には知らなくて良いことが沢山あるのだ。

 だから、止めろ。

 僕に何も考えさせるな。



「……聞いているのかい?

 気分が悪いようなら、きみこそ帰るべきじゃ──」

「気にするな。重い物を持って疲れただけだ。

 ……少し、休ませてくれ」



 食い気味に、心配する少女の言葉を否定する。

 僕がそこまで取り乱していることに驚いたのか、彼女の瞳が見開かれた。

 だが、それを気にする余裕も無く、僕は彼女に背を向けて椅子に座る。

 経年劣化のせいで鳴った、ぎしりという音に鼓膜がひくついた。


 何を言っているんだ、僕は。

 数か月ぶりに自身の言動に後悔しながら、水筒を傾けた。

 氷は既に溶けていても、まだ冷たい水が頭と身体をを落ち着けさせる。


 半分以上残っていた水が底を尽きた頃、僕は無意識に息が浅くなっていたことに気付き、深呼吸した。

 物理的に冷やした思考は、ざわついていたのが嘘のように静まり返っている。

 今なら、いつも通り話せるはずだ。



「作品を作り終わったなら、これからは何をするんだ?」

「……ああ、色紙でも作ろうかなと思っていてね。

 先輩方が作ったときの余りがどこかにあるはずだ。

 このくらいのものなのだけれど……」 



 平常に戻った僕を見て胸を撫で下ろした少女は、手で小さく正方形を示した。

 再び席を立った僕は、彼女が言った色紙とやらを探す。

 あの先輩たちが置くなら、この辺りだろう。

 そう目星を付けると、すぐにそれは見つかった。



「これか?」

「恐らくね。何枚あるか、分かるかい?」

「……多分、六枚。探せば、まだあるかもしれない」



 袋に入った小さな色紙を数え、袋ごと少女に手渡す。

 どれほど作るか知らないが、あればある分良いのだろう。


 屈んだり、踏み台を使ったりして、画材が置かれた棚やごちゃついた机の下、乱雑にものが放り込まれた段ボールの大群まで掻き分けると、更に六枚が見つかった。

 全部纏めて置けよという突っ込みは、あの先輩たちには効かない。

 良くも悪くも、自由人しかいないのだ。

 ある意味、美術部らしいのだろう。



「どのくらい作るんだ? つうか、それも売るのか?」

「そうだね。

 先輩方の隣に並べるのは気後れするけれど……まあ、描くだけ描くよ」

 

 四日後に控える文化祭では、美術部は教室一つ使って展覧会を開く。

 一年間で制作したものの展示、及び販売だ。

 売るか売らないかは制作者の自由だが、秋にある『高等学校総合文化祭』、通称『高文祭』用の作品以外は基本全て売るようだ。



 「売れなくても困ることないし、売れたらハッピーだし、売り得だよね!」とは美術部全員の弁である。

 美術大学を目指している者も居るので、そういう経験を積める方が有利なのだろう。


 顧問は自主性を重んじているので、特に口を出したりはしない。

 もしかすると、こういうところから、彼ら彼女らの自由さが育まれているのかもしれない。



「……海豚(いるか)に、海月(くらげ)(かめ)。海洋生物縛りか?

 良くもまあ、この短時間で描けるもんだ」

「海の生物は基本好きだからね、描き慣れているのさ」



 ペンのインクを乾かすために平置きされた三枚の色紙には、それぞれ異なる海洋生物が描かれている。

 細かな種類を言うと、バンドウイルカ、ミズクラゲ、アカウミガメ。

 以前、この少女が熱く語った海洋生物のうちの一部だ。というより、彼女が描いてきたものたちといったほうが良いのだろうか。


 少女は基本、海洋生物を中心としたものしか描かない。

 どんなテーマでも、隙有らば捩じ込んでくるのだ。

 唯一、風景画を書くときだけは除かれるのだが、妥協と言わんばかりに海や水面の絵を描く。


 いったい何が起これば、そこまでして『海』に駆り立てられるのだろう。

 趣味というべきものがない僕には、見当も付かなかった。


 珊瑚(さんご)を描いた四枚目の色紙を他の三枚と同じように置くと、積み上げられた白紙のものを取り、また描き始めた。

 踊るように引かれていく線が、真っ白な世界に輪郭を生み出していく。

 曲線、直線、斜線。

 所々インクが掠れるのが、手描きの良さだ。


 しかし、本当に筆が早いな。


 次々と作り上げられていく絵に、僕は驚きと感心を隠せなかった。

 「好きだから」と彼女は言うが、『好き』なだけでこれほど描けるのは少々おかしいと思う。

 画家を志す者ならば、泣いて悔しがる才能なのではないだろうか。


 十数分後、六枚目の色紙を描き上げた少女は、アルコール性のカラーペンを取り出した。

 数百の豊富なカラーリングが人気のものである。


 彼女は、透明なケースから群青色を選び取ると、筆タイプのニブを色紙に押し付けた。

 夏空のような群青が白地に滲む。



「こういうスケッチ的なものに若干色を付けるのが、最近の『おしゃれ』なのだろう?」

「人によると思うが……好きな奴は居ると思うぞ」



 確かに、有名ブランドのTシャツには、そういうデザインが多い。

 『おしゃれ』というのも、あながち間違いではないのだろう。


 そんなことを呆けて考えていると、いつの間にか彼女の手が止まっていることに気付いた。

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