青い春と、朱い夏
茹だるように暑い空気を切り裂いて、幾許か涼しい風が吹いた。
それは、夏の匂いとともに、特徴的な油の臭いを運ぶ。
まだ嗅ぎなれないその臭いは、彼女が使う油彩の道具から発されていた。
「……どうにかならないのか、その臭い」
「ならないね。
なっているのなら、とうの昔に変えられているよ。
……まあ、方法がないわけではないんだよ?
油自体を変えればいいんだ。
けれど、この学校では無理ってだけさ。
換気はしているから、我慢しておくれ」
「なんで駄目なんだ?」
「値段が高い」
おう、ごもっともな理由だった。
部費を減らされ続けるこの部活にとっては、死活問題だ。
エアコンの付いていないこの空間で、それぞれ目的は違えど、僕らはずっと座っていた。
正直、まともな奴ならここで作業しようとは思わないはず。
なんと言っても、暑すぎる。
扇風機があるのが唯一の救いだ。
二台あるそれらは、今は僕ら専用のように使われている。
ここは、この学校の四階の隅に追いやられている美術室。
雑多に画材が置かれ、先達が放置した作品の数々が散らばっている。
その多さに、僕も彼女も片付ける気にはなれなかった。
それでも、大多数は倉庫的な場所に移してあるというのだから驚きだ。
どれだけ怠惰なんだ、美術部員。
そう、美術部。
ここは美術室で、今は放課後。
そして、ここで活動しているということは──。
「なあ、きみ。そろそろ正式に部員になる気は?」
「ないよ、面倒臭い。
そもそも、『ならなくていい』っていう話だっただろ」
美術部員ではなかった。
少なくとも、僕はだが。
あの春の日、僕は彼女に連れられ、この教室にやって来た。
彼女によれば、ここは『安寧の地』らしい。
いや、そんなはずがないだろう。
知っているんだぞ、美術室は美術部の活動場所だ。
どう考えても人が居るだろうが。
しかし、その反論は説き伏せられる。
「……美術部員は今、私を除けば三年生しか居ないんだ。
それが意味することは、分かるね?」
「受験勉強ですぐ居なくなる、と」
「すぐどころか、もう居ないよ。皆、国立大志望だからね」
若干憂いを感じさせる声色で、彼女は僕に伝える。
名簿を見せられれば、それが本当であることは即座にわかった。
少し、可哀想である。
現美術部員がほぼ幽霊部員化しているということは、つまり、彼女は部員の勧誘を押し付けられたわけだ。
因みに、正式な入部申請は来週であるため、彼女は正式部員ではない。
尚更、可哀想である。
「ね? ここは君のお望み通りの場所だろう。
人は居ない、誰も知らない。
知っていたとしても、来ようとしない。完璧じゃないか!」
「自分で言っておいて悲しくないのか……?
まあ、確かに、大体は合ってるが……」
部活動勧誘は、新入生の授業が始まったその日から同時開催されている。
大体二週間前から、ということだ。
この学校は運動部が盛んであるが、文化部はぱっとしない。
精々、数年に一度入賞する者がいるくらいである。公立高校なんて、基本そんなものだろうが。
僕は周りを見渡した。
彫刻に油彩画、イーゼル、美術本らしきものもある。
人数は少なくても、画材はそれなりに揃っているらしい。
暇はいくらでも潰せそうだ。
この際、絵を本格的に習い始めてもいいかもしれないとは思う。
しかし、だ。
「やっぱ駄目」
「何故だ!」
「君が居るから」
「更に何故!」
彼女が居る限り、僕に安寧は訪れないだろう。
どこからどう見ても、彼女は嵐そのものだ。
居るだけで騒がしい。
だから、僕がここに入り浸ることはあり得ない。
多少リスクは合っても、屋上の方に居よう。
そうやって踵を返す僕の腰に、少女が抱き着いた。
「嫌だ、一緒に居て!
一人は寂しいんだ!
部員にならなくてもいい、わたしの絵を見てるだけでも!」
「最初から、そのつもりだったんだろ! 正直に言え!」
「そうだよ、悪いか!」
「悪いわ!」
ほれ見ろ、やっぱり信じるんじゃなかった。
というか、離せ。
がっちり掴まれてしまえば、どれだけ小柄でひ弱な少女だとしても、貧弱な僕の力では解きようがない。
こちとら握力十だぞ、十。
小学生にも余裕で負けるわ。
それでも、どうにか抜け出そうと藻掻く。
それが悪かったのだろう。
不安定になった姿勢で、後ろから掛けられた彼女の体重を支えることが出来ず、僕は前に倒れ込んだ。
「危な──」
中学時代に習った柔道の動きを思い出し、見様見真似で受け身を取ろうとする。
勿論、少女のことも気にしつつだ。
こんな阿呆みたいなことで怪我をされると、目覚めが悪い。
短い滞空時間でくるりと身体を半分捻り、彼女の頭を包み込む。
そうすれば、すぐ時間切れだ。
肩から落ちた痛みで、小さく悲鳴を上げる。
痛いのは嫌いだ、痛いから。
それを聞いたらしい少女が、僕に馬乗りになって心配する。
「大丈夫かい? すまない、わたしのせいで……」
「……そう思うなら上から退いてくれ、普通に重い」
「平均より大分軽いが!」
彼女は「レディに歳と体重の話をするのは、紳士としてなっていないよ」と怒りながら、身体を起こそうとした。
その時だった。
「……何やってんだ、お前ら」
頭上から、低い男性の声が響いてきた。
ぎぎぎ、とブリキ人形のように首を動かすと、そこにはどこか少女と似た黒髪の若い男性。
仏頂面と画材の入ったエプロンが特徴的だ。
黒のタートルネックにジーパンと、制服でないところから、生徒ではないようだった。
なら、安心──できるわけがない。
寧ろ、安心できない要素しかない。
ここは学校だ。聖域とも呼ばれるこの空間で、生徒ではない人物とは、即ち──。
「……先生、これには山よりも高く、谷よりも深い事情がありまして──」
「先生、良いところに来ましたね!
わたし、この人に無理矢理……!」
「なるほど、教師として、不純異性交遊は取り締まらないとな……」
「余計なこと言うな、アホ!
釈明の余地をください、僕は何も悪くありません!」
始まった茶番とそれに乗る教師、叫ぶ僕。
美術室は、一瞬にして混沌に包まれた。
これも全部、あの女が悪い。
僕は何も悪くないんだ、本当に。
その後、先程までの調子はどこに消えたのか、「新入部員?」と冷静になった美術部顧問の男性教師と、ぼけ続ける少女の間に挟まれながら、のらりくらりと過ごしていれば、いつの間にかここに入り浸ることになっていた。
一度は、彼女の魔の手から逃れようとしたのだが、屋上の件を交渉材料にされてしまえば、受け入れる他道はなかったのだ。
だが、僕にも譲れないプライドはあった。
全て彼女の思うがままになって溜まるものか。
彼女も屋上に侵入していた一点をもって、どうにか美術部入部ルートだけは避けることが出来た。
失ったものと比べれば、些細なことかもしれないけれど。
しかし、美術室での生活は案外悪いものではなかった。
部活中の少女は真摯にキャンバスに向き合っているから静かであるし、来客だって偶に来る三年生と準備室に引き篭もる教師くらいだ。
彼らだって用が済めば速やかに退出するので、僕がまともに話すことは殆ど無い。
話すにしても、少女のおまけくらい。
それも、当然と言えば当然のことなのだが。
そして、時間は過ぎていった。