鯨の歌、君の色彩
「……多すぎません、それ?」
「俺は知らん。あいつに言え」
彼が持ってきたのは、巨大な段ボールだ。
中を見ると、様々な画材が所狭しと並んでいる。
記名欄には『一色唯』と書かれていた。
「中を見る前に……これを見ろ」
差し出された、一通の封筒。
それが何であるかを察した上、僕はそれを開けた。
予想通り、それは遺書だった。
僕専用のようで、今までの思い出と、隠していたことへの謝罪、僕自身の未来への応援。
そして──。
「これ全部が、ですか」
先生は、頷いた。
彼女の遺書には、『わたしのものを全部きみにあげる』と書かれていた。
どうせ、きみのことだから、わたしを驚かせようと、来年度になって急に入部してくるんだろう。
なら、画材が必要になるはずだ。
そう、僕の図星を突くように。
「……作品自体は、俺が引き取ることになっている。
だが、どうしてもその画材はお前にあげたいんだと。
嫌なら、それも俺が──」
「いえ、いいえ。僕にください」
食い気味に彼の言葉を否定する。
あの時も、この手紙でも伝えられていないけれど、確かに彼女は願っている。
僕が絵を描くこと──魔法使いになることを願っている。
多分、一度は書いて、でも消した。
それが呪いではなく、呪いになってしまうとわかっていたからだろう。
死の間際の言葉は、否が応でも力を持つ。
彼女は、優しかった。
だから、呪いになることは避けたかった。
最期なんだから、少しは自分勝手になればいいのに。
「先生、僕決めました」
「……何を、だ」
「進路です」
彼女に出会うまで、僕は進路を決めかねていた。
どうせいつか死ぬつもりであったし、決めたところで無駄になると思っていたからだ。
けれど、今は違う。
今は、進むべき路が見えている。
「僕は、芸術家になります。
唯が辿るはずだった道を、進みます」
「……それは、同情か?」
「いいえ。紛れもなく、僕自身の意志です」
あの日誓った、一心同体の契約。
それに則った、僕自身の意志。
たとえ、彼女が居なくても、僕はその道を進む。
彼女とともに辿るはずだった道を進む。
そこに、同情なんて想いは一切ない。
けれど。
「……強いて、言うなら。
僕は、彼女のおかげで救われました。
でも、この世界のどこかには、『彼女と出会えなかった僕』のような人が絶対に居る。
なら、僕はそういう人たちを救いたい。
あの時、僕を救ってくれた唯のように。
今度は、僕が救いたいんです」
見上げた瞳は、彼女と同じ濡羽色。
呆れたように瞬きをして、溜息を吐いて。
そして、彼はこう言った。
「やっぱり似た者どうしだよ、お前ら」
────わたしは、ね。芸術に救われたから。
同じように、芸術によって誰かを救いたい。
駄目、かな。
「……絶対、言いますね。唯なら」
「だろう? だから似た者同士なんだ」
開けた窓から風が吹く。
穏やかで優しい春の風。
散った桜の花弁が一片、僕らの元に舞い込んだ。
それは、幸せだった日々の終わりを告げるように。
夢から醒ますように。
いつかの少女の言葉が、頭を過る。
「鯨はね、歌を歌うんだ。
理由はまだ、よくわかっていないらしいけれど……一説によれば、求愛のためなんだそうだ」
──なんだか、人間みたいだね。
泣きたいほどに澄んだ空と海。
水天一碧の世界で見た君の笑顔を、僕はもう忘れることが出来ない。
忘れたいとは思わない。
大きく息を吸えば、嗅ぎ慣れた油の臭いが鼻につく。
良い匂いとは決して言えない。
しかし、心地良い匂いではあった。
君と過ごした日々を、どうしようもないほど思い出させてくれるのだから。
窓から陽光が差し込み、爽やかな風が吹いた。
君と出会った日と同じ、春の暖かな光と風だ。
けれど、少しだけ冷たい。
これは、隣に君がいないからなのだろうか。
問おうにも、この空間には僕一人。
答えてくれる者は、誰一人としていない。
当然だ。
二人ぼっちの世界が、独りぼっちの世界になってしまったのだから。
だが、いずれまた、人が訪れるだろう。
いや、訪れさせなければいけない。
そうでなければ、僕と君が過ごした世界がなくなってしまう。
忘れないように、憶え続けるために。君が歌った魔法が、どこまでも響くように。
そうだ、君の骨は海へ散らそう。
君は、海が好きだった。
あの世界でなら、ずっと伸び伸び暮らせるはずだ。
そうしたら、いずれ。
僕も、同じ場所で眠れるだろうから。
右手にはパレット、左手には絵筆。
真っ白なキャンパスに向かって、今日も明日もまた描き続ける。
唯の色彩で。




