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鯨の歌、君の色彩  作者: 四ノ明朔
第三部【海のノクターン/刹那の終わりへ】
27/31

君は魔法使い

 人は、誰しも『色』を持つ。


 波乱万丈の日々を表すビビッドカラー。

 穏やかだが、起伏のあるパステルカラー。

 辛酸を嘗めても、苦渋に塗れていても、必ずどこかに幸せがあるダスティーカラー。


 どんな人間でも、生きていく上で『色』がある。

 その色で、(じんせい)を描くことができる。

 どれだけ不器用で、下手っぴだとしても、唯一の作品として、死をもって完成させられる。

 自分の名を冠した、作品を。


 けれど、僕は。

 千明結という人間は、どこまでいっても『色』がなかった。

 他人が『色』として持つ、経験──記憶を、一つたりとも持っていないからだ。


 記憶喪失だとか、物忘れが激しいとか、そういう話ではない。

 皆と同じように十六年弱生きてきたのに、何一つとして経験になる思い出を残していないというだけ。

 本当に、ただ無駄に生きてきただけだった。


 恐らく、得る機会自体は何度もあった。

 その『色』を拾い上げたこともあった。

 しかし、それを、『自分の色』とすることは出来なかった。


 僕は、自らそれを手放したのだ。

 本能的な拒絶反応。

 反射にも近いそれは、僕の意志と関係なく、何もかも忘れていく。

 何もかも、手放していく。


 それは、多分、目を逸らすため。

 『何でもない』という言い訳で、僕が『僕』であり続けるため。

 『何でもない』ことにして、僕が『僕』ではなくなるため。


 そうでなければ、とうの昔に壊れてしまっていたのだと思う。

 この世に生まれ、存在を疎まれ。

 誰もが僕を指差すから、逃げ隠れて耳を塞いだ。


 『可哀想に──』、『関わらない方が──』、『助けてあげる──』。

 皆みんな、無視をする。

 誰も彼も、見えていない。

 見ているのは、上辺にある『属性』という名のごみくずだけ。


 本質なんて見ない、見れない、見ようとしない。

 薄っぺらい皮だけ掬い上げて、まるで自分が正義のヒーローになったかのように語る。

 何一つ、救ってくれないくせに。


 辛い記憶は、後に残る。

 楽しい時間は消えていくのに。

 ずっと、ずっと、憶えてしまう。

 ずっと、ずっと、忘れてしまう。


 だから、いっそのこと、全部捨てる(わすれる)ことにした。


 楽しいことも、辛いことも。

 嬉しいことも、悲しいことも。

 まるっと、綺麗に捨てるのだ。


 そうすれば、壊れることはない。

 元々、何も無いのだから。

 壊れるものなんて、存在しないのだから。


 何でもない僕。

 『色』のない僕。

 描くことをやめた僕。


 だと、いうのに。

 僕には、未だにキャンバスが残っている。

 捨てられずに、未練がましく残した白紙のキャンバスが、独りぼっちのアトリエで踏ん反り返っている。


 描く道具も、気力も、何もないくせに。

 ここに来た誰かが描いてくれるのを待っている。


 ああ、本当に他人任せだ。

 まだ、誰かが救けてくれるのを待っているのだ。

 もう、捨ててしまった自分には、何も描けやしないから。


 暗い暗い、海の底。

 深海よりも深い、深淵で。

 独り、空を見上げた。


 空には星がきらきら輝いていて、こんな海の底でも光が届いている。

 眩しくて、明るくて。

 僕とは、正反対のそれ。

 手を伸ばしても届かないその星が、心底羨ましかった。

 

 しかし、何ということだろう。

 手を伸ばしても届かなかった星が、自分から海底へと堕っこちて来たではないか。


 いや、違う。

 星が堕ちてきたのではなく、僕が海から空へと無理矢理釣り上げられたのだ。


 終わりかけの煌めく星。

 忘却を否定し、美に魅入られた魔法使い。

 唯だ一つの、自分だけの『色』──それが一色唯という少女だったのだ。


 何でもない僕を、何でもないまま側に置き。

 何でもないないことを否定せず、何でもないように肯定した。

 それどころか、君は僕のアトリエを自分のもののように扱っていく。


 勝手に道具を持ち込んで、勝手にキャンバスに描いて。

 散らかしまくったアトリエを片付けるのは、僕だというのに。

 そんな自由人の彼女だったけれど、そんな彼女が描いた絵だったけれど。

 確かにそれは僕の、僕だけの『色』だった。

 僕にしかない、彼女の『色』だった。


 そうして、僕は生まれて初めて『(にんげんせい)』を持った。

 他の誰にもない、唯一の色を得た。

 他ならぬ、彼女の魔法によって。


 ある日、少女が言った。



 ────芸術家というのはね、魔法使いなんだよ。

 芸術という魔法によって、誰かの世界を変える。

 俯いていた誰かの顔を上げさせて、美しい空を見せる。

 そこから、その『誰か』が芸術家の後を追うのか、はたまた別の道を選ぶのかはわからないけれど……。

 わたしたちの芸術(まほう)は、確かに誰かを救えるんだ。



 これは、受け売りなんだけどね。

 そう付け加えながら、彼女は僕に振り向いた。


 その姿に、僕は一つ問う。

 『君も魔法使いなのか、と』。



 ────ああ、そうさ。

 まだ未熟な身なれど、わたしは立派な魔法使い。

 唯一にして普遍の、魔法使いさ!


 

 唯一。

 それは、ただ一つであり他にはないこと。

 

 普遍。

 それは、全てに通じること。


 即ち、全にして一、一にして全なる魔法使い。

 虹色という一色を宿す者。


 果てしなき銀河に棲まう怪物の如き名。

 本来ならば、出会うことなき宇宙(そら)の色。

 何の因果か『それ』と唯の人間は、縁が結ばれてしまった。


 虹と透明、魔法使いと人間。

 交わるはずのない二つは、偶然かつ運命に交わってしまった。


 だからこそ、こんな夢のような日々──刹那の幸せな日々は、儚く散ることが定められていた。

 しかし、過ごした日々の記憶は。

 心に刻まれたその記憶は、きっと忘れることはない。


 何故なら、透明は虹に染められてしまったから。

 すべてを映す水面は、宇宙の虹を映したから。


 繋がれた天と海、水天一碧の世界。

 結んだ手はそのままに、君は僕に問う。



「──わたしは、魔法使いになれたかな」

「……勿論だとも。

 とんでもなく立派で優しい魔法使いだよ、君は」



 ああ、そうか。なら、良かった。


 そう言って、ふわりと笑って。

 目を細めて、手を握り返して。

 それを最期に、少女の目蓋はぱたりと閉じられた。

  

 冷たく、硬くなっていく身体。

 静かな病室に響く、哀しみと嘆きの声。


 まるで、鯨が歌っているように。

 鯨が、友の死を悼むように。


 遥か彼方まで、歌は止まない。

 遥か彼方まで、聞こえる。

 それこそ、宇宙の果てまで。


 少女は死んだ。

 治らぬ病に戦い、力尽きた。


 しかし、魔法使いはまだ死んでいない。

 魔法が遺る限り、魔法使いは死なない。


 忘れられない限り、『一色唯』という名の芸術家(まほうつかい)は、芸術(まほう)とともに生き続ける。

 

 ──『芸術は長く、(Ars longa,)人生(vita )短し(brevis)』。


 かの有名な古代ギリシアの医師、ヒポクラテスの言葉だ。

 『医術を学ぶには長い年月を必要とするが、人生は短い。だから、人間は怠けず励むべきなのだ』ということから、転じて、芸術作品は作者の死後も後世に残るが、芸術家の生命は短いことを指す。

 

 恐らく、少女に生き方を教えた者は、彼の言葉から着想を得ていたのだろう。

 彼女の生涯が短いことを知り、彼女が後悔せず生きられるように。


 そして、その考えは、限りなく正解に近かった。

 だから、彼女は笑って逝けたのだ。


 三月一日、午前零時。

 一色唯は、息を引き取った。

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