君は魔法使い
人は、誰しも『色』を持つ。
波乱万丈の日々を表すビビッドカラー。
穏やかだが、起伏のあるパステルカラー。
辛酸を嘗めても、苦渋に塗れていても、必ずどこかに幸せがあるダスティーカラー。
どんな人間でも、生きていく上で『色』がある。
その色で、絵を描くことができる。
どれだけ不器用で、下手っぴだとしても、唯一の作品として、死をもって完成させられる。
自分の名を冠した、作品を。
けれど、僕は。
千明結という人間は、どこまでいっても『色』がなかった。
他人が『色』として持つ、経験──記憶を、一つたりとも持っていないからだ。
記憶喪失だとか、物忘れが激しいとか、そういう話ではない。
皆と同じように十六年弱生きてきたのに、何一つとして経験になる思い出を残していないというだけ。
本当に、ただ無駄に生きてきただけだった。
恐らく、得る機会自体は何度もあった。
その『色』を拾い上げたこともあった。
しかし、それを、『自分の色』とすることは出来なかった。
僕は、自らそれを手放したのだ。
本能的な拒絶反応。
反射にも近いそれは、僕の意志と関係なく、何もかも忘れていく。
何もかも、手放していく。
それは、多分、目を逸らすため。
『何でもない』という言い訳で、僕が『僕』であり続けるため。
『何でもない』ことにして、僕が『僕』ではなくなるため。
そうでなければ、とうの昔に壊れてしまっていたのだと思う。
この世に生まれ、存在を疎まれ。
誰もが僕を指差すから、逃げ隠れて耳を塞いだ。
『可哀想に──』、『関わらない方が──』、『助けてあげる──』。
皆みんな、無視をする。
誰も彼も、見えていない。
見ているのは、上辺にある『属性』という名のごみくずだけ。
本質なんて見ない、見れない、見ようとしない。
薄っぺらい皮だけ掬い上げて、まるで自分が正義のヒーローになったかのように語る。
何一つ、救ってくれないくせに。
辛い記憶は、後に残る。
楽しい時間は消えていくのに。
ずっと、ずっと、憶えてしまう。
ずっと、ずっと、忘れてしまう。
だから、いっそのこと、全部捨てることにした。
楽しいことも、辛いことも。
嬉しいことも、悲しいことも。
まるっと、綺麗に捨てるのだ。
そうすれば、壊れることはない。
元々、何も無いのだから。
壊れるものなんて、存在しないのだから。
何でもない僕。
『色』のない僕。
描くことをやめた僕。
だと、いうのに。
僕には、未だにキャンバスが残っている。
捨てられずに、未練がましく残した白紙のキャンバスが、独りぼっちのアトリエで踏ん反り返っている。
描く道具も、気力も、何もないくせに。
ここに来た誰かが描いてくれるのを待っている。
ああ、本当に他人任せだ。
まだ、誰かが救けてくれるのを待っているのだ。
もう、捨ててしまった自分には、何も描けやしないから。
暗い暗い、海の底。
深海よりも深い、深淵で。
独り、空を見上げた。
空には星がきらきら輝いていて、こんな海の底でも光が届いている。
眩しくて、明るくて。
僕とは、正反対のそれ。
手を伸ばしても届かないその星が、心底羨ましかった。
しかし、何ということだろう。
手を伸ばしても届かなかった星が、自分から海底へと堕っこちて来たではないか。
いや、違う。
星が堕ちてきたのではなく、僕が海から空へと無理矢理釣り上げられたのだ。
終わりかけの煌めく星。
忘却を否定し、美に魅入られた魔法使い。
唯だ一つの、自分だけの『色』──それが一色唯という少女だったのだ。
何でもない僕を、何でもないまま側に置き。
何でもないないことを否定せず、何でもないように肯定した。
それどころか、君は僕のアトリエを自分のもののように扱っていく。
勝手に道具を持ち込んで、勝手にキャンバスに描いて。
散らかしまくったアトリエを片付けるのは、僕だというのに。
そんな自由人の彼女だったけれど、そんな彼女が描いた絵だったけれど。
確かにそれは僕の、僕だけの『色』だった。
僕にしかない、彼女の『色』だった。
そうして、僕は生まれて初めて『色』を持った。
他の誰にもない、唯一の色を得た。
他ならぬ、彼女の魔法によって。
ある日、少女が言った。
────芸術家というのはね、魔法使いなんだよ。
芸術という魔法によって、誰かの世界を変える。
俯いていた誰かの顔を上げさせて、美しい空を見せる。
そこから、その『誰か』が芸術家の後を追うのか、はたまた別の道を選ぶのかはわからないけれど……。
わたしたちの芸術は、確かに誰かを救えるんだ。
これは、受け売りなんだけどね。
そう付け加えながら、彼女は僕に振り向いた。
その姿に、僕は一つ問う。
『君も魔法使いなのか、と』。
────ああ、そうさ。
まだ未熟な身なれど、わたしは立派な魔法使い。
唯一にして普遍の、魔法使いさ!
唯一。
それは、ただ一つであり他にはないこと。
普遍。
それは、全てに通じること。
即ち、全にして一、一にして全なる魔法使い。
虹色という一色を宿す者。
果てしなき銀河に棲まう怪物の如き名。
本来ならば、出会うことなき宇宙の色。
何の因果か『それ』と唯の人間は、縁が結ばれてしまった。
虹と透明、魔法使いと人間。
交わるはずのない二つは、偶然かつ運命に交わってしまった。
だからこそ、こんな夢のような日々──刹那の幸せな日々は、儚く散ることが定められていた。
しかし、過ごした日々の記憶は。
心に刻まれたその記憶は、きっと忘れることはない。
何故なら、透明は虹に染められてしまったから。
すべてを映す水面は、宇宙の虹を映したから。
繋がれた天と海、水天一碧の世界。
結んだ手はそのままに、君は僕に問う。
「──わたしは、魔法使いになれたかな」
「……勿論だとも。
とんでもなく立派で優しい魔法使いだよ、君は」
ああ、そうか。なら、良かった。
そう言って、ふわりと笑って。
目を細めて、手を握り返して。
それを最期に、少女の目蓋はぱたりと閉じられた。
冷たく、硬くなっていく身体。
静かな病室に響く、哀しみと嘆きの声。
まるで、鯨が歌っているように。
鯨が、友の死を悼むように。
遥か彼方まで、歌は止まない。
遥か彼方まで、聞こえる。
それこそ、宇宙の果てまで。
少女は死んだ。
治らぬ病に戦い、力尽きた。
しかし、魔法使いはまだ死んでいない。
魔法が遺る限り、魔法使いは死なない。
忘れられない限り、『一色唯』という名の芸術家は、芸術とともに生き続ける。
──『芸術は長く、人生短し』。
かの有名な古代ギリシアの医師、ヒポクラテスの言葉だ。
『医術を学ぶには長い年月を必要とするが、人生は短い。だから、人間は怠けず励むべきなのだ』ということから、転じて、芸術作品は作者の死後も後世に残るが、芸術家の生命は短いことを指す。
恐らく、少女に生き方を教えた者は、彼の言葉から着想を得ていたのだろう。
彼女の生涯が短いことを知り、彼女が後悔せず生きられるように。
そして、その考えは、限りなく正解に近かった。
だから、彼女は笑って逝けたのだ。
三月一日、午前零時。
一色唯は、息を引き取った。




