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鯨の歌、君の色彩  作者: 四ノ明朔
第三部【海のノクターン/刹那の終わりへ】
26/31

二人の■■

 反射だった。

 病室の床を蹴って、僕はベッドに雪崩込むように縋り付く。



「気が付いたのか……!」

「……そこにいるの、かい……?」


 

 僕の声に呼応するかの如く、目蓋が弱々しく開けば、長い睫毛の隙間から濡羽色の瞳が覗いた。

 光のない目、恐らく彼女には僕の姿は見えていないのだろう。

 手足もまともに感覚がなく、残っているのは聴覚くらいなのかもしれない。

 か細い心電図の音が妙に耳に入った。



「……ああ、なるほど。もう、時間なんだ。

 いる、よね。おじさん、お願いがあるんだけど」

「わかってる。……あとは、任せた」



 途切れながらも、彼女は叔父に意志を伝える。

 多分、ずっと前から覚悟していたのだ。

 いつ、自分が倒れてもいいように。


 二人きりになった部屋で、僕は少女の手を握った。

 小さくて、細くて、冷たい手。

 およそ人間とは思えないような、人形のような手だった。



「……ごめんね」

「馬鹿」

「……ごめんってば」



 何を言えばいいのだろうか。

 僕の頭は真っ白だ。

 こいつが馬鹿なのは当然だし、僕が馬鹿なのも当然だからいいものの、それ以上の言葉は出て来ない。

 

 他人の死に目に遭うなんて初めてなのだ。

 気遣いも、励ましも、何一つ言えやしない。

 そんなもの、彼女は端から期待していないだろうけれど。


 黙り込んでいる間にも着実に時間は進んでいく。

 彼女の魔法が解ける時間は、迫って来る。



「なあ」

「……どうしたんだい?」



 切り出したのは、僕だった。



「……今言うのは、多分間違ってる。

 もっと早く言うべきだっただろうし、寧ろ言わずに墓まで持ってくべきかもしれないとも思う。

 でも、言わなきゃ後悔しそうだから」



 力なく垂れ下がる手をぐっと握り、祈るように己の額に近付ける。



「……ありがとう。

 僕と出会ってくれて、僕を救ってくれて、僕に生きる道を教えてくれて。

 君が居なきゃ、今の僕は存在しなかった。

 感謝しても、しきれない。

 返そうにも、返しきれない恩だ。

 だから、一生を掛けて君に返す。僕の人生を君に捧げる。

 だから、だから──」



 ──お願いだ。もっと生きてくれ、(ゆい)



「……やっと、名前、呼んでくれたね。(ゆい)くん」



 彼女の名は、一色(いっしき)(ゆい)

 僕の名は、千明(ちあき)(ゆい)


 唯と結。

 ただの一度も呼ぶことのなかった、『ゆい』という音。

 初めて呼んだ(よばれた)その名は、聞き慣れていなかった。



「……でも、ね。それは、難しいお願いだよ」



 わかっている。

 わかっている、けれど。

 言わずにはいられなかったのだ。


 突き付けられた無情に、どうしても大粒の涙が零れてしまう。

 止めようにも止められなくて、拭おうにも拭い切れなくて。

 息を吸う度に肺が痛い。

 しかし、この痛みは、彼女が抱えてきたものの百分の一にも満たないだろう。


 なんで、変わってあげられないのだ。

 なんで、彼女が死ななければいけないのだ。


 そんな馬鹿げた願いが思考を反芻する。

 『たられば』なんて、意味が無いのに。



「……泣けるんだ、きみ」

「そりゃあそうだ、僕だって人間なんだから」



 けれど、今は人間であることが憎い。

 人間でなければ、彼女を救うことも、喪う哀しみに泣くこともないのだから。



「……そう、か。やっと、きみの人らしいところを見れたよ」

「ああ、そうかよ。

 人らしくなくて、悪かったな」



 『人らしくない』。

 そう考えるのも、僕の核心に触れたことのある彼女にとっては、至極当然の答えだ。


 彼女は、どこまで僕のことを察していたのだろうか。

 具体的なことは、ほぼ話したことはないはず。

 あんなもの、見せたくなかったからなのだが。


 ぐちゃぐちゃに歪んだ羨望と嫉妬。

 幸福も不幸も全部捨てて、透明な人生を歩き続けてきた僕の。

 その、過去なんて。

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