二人の■■
反射だった。
病室の床を蹴って、僕はベッドに雪崩込むように縋り付く。
「気が付いたのか……!」
「……そこにいるの、かい……?」
僕の声に呼応するかの如く、目蓋が弱々しく開けば、長い睫毛の隙間から濡羽色の瞳が覗いた。
光のない目、恐らく彼女には僕の姿は見えていないのだろう。
手足もまともに感覚がなく、残っているのは聴覚くらいなのかもしれない。
か細い心電図の音が妙に耳に入った。
「……ああ、なるほど。もう、時間なんだ。
いる、よね。おじさん、お願いがあるんだけど」
「わかってる。……あとは、任せた」
途切れながらも、彼女は叔父に意志を伝える。
多分、ずっと前から覚悟していたのだ。
いつ、自分が倒れてもいいように。
二人きりになった部屋で、僕は少女の手を握った。
小さくて、細くて、冷たい手。
およそ人間とは思えないような、人形のような手だった。
「……ごめんね」
「馬鹿」
「……ごめんってば」
何を言えばいいのだろうか。
僕の頭は真っ白だ。
こいつが馬鹿なのは当然だし、僕が馬鹿なのも当然だからいいものの、それ以上の言葉は出て来ない。
他人の死に目に遭うなんて初めてなのだ。
気遣いも、励ましも、何一つ言えやしない。
そんなもの、彼女は端から期待していないだろうけれど。
黙り込んでいる間にも着実に時間は進んでいく。
彼女の魔法が解ける時間は、迫って来る。
「なあ」
「……どうしたんだい?」
切り出したのは、僕だった。
「……今言うのは、多分間違ってる。
もっと早く言うべきだっただろうし、寧ろ言わずに墓まで持ってくべきかもしれないとも思う。
でも、言わなきゃ後悔しそうだから」
力なく垂れ下がる手をぐっと握り、祈るように己の額に近付ける。
「……ありがとう。
僕と出会ってくれて、僕を救ってくれて、僕に生きる道を教えてくれて。
君が居なきゃ、今の僕は存在しなかった。
感謝しても、しきれない。
返そうにも、返しきれない恩だ。
だから、一生を掛けて君に返す。僕の人生を君に捧げる。
だから、だから──」
──お願いだ。もっと生きてくれ、唯。
「……やっと、名前、呼んでくれたね。結くん」
彼女の名は、一色唯。
僕の名は、千明結。
唯と結。
ただの一度も呼ぶことのなかった、『ゆい』という音。
初めて呼んだその名は、聞き慣れていなかった。
「……でも、ね。それは、難しいお願いだよ」
わかっている。
わかっている、けれど。
言わずにはいられなかったのだ。
突き付けられた無情に、どうしても大粒の涙が零れてしまう。
止めようにも止められなくて、拭おうにも拭い切れなくて。
息を吸う度に肺が痛い。
しかし、この痛みは、彼女が抱えてきたものの百分の一にも満たないだろう。
なんで、変わってあげられないのだ。
なんで、彼女が死ななければいけないのだ。
そんな馬鹿げた願いが思考を反芻する。
『たられば』なんて、意味が無いのに。
「……泣けるんだ、きみ」
「そりゃあそうだ、僕だって人間なんだから」
けれど、今は人間であることが憎い。
人間でなければ、彼女を救うことも、喪う哀しみに泣くこともないのだから。
「……そう、か。やっと、きみの人らしいところを見れたよ」
「ああ、そうかよ。
人らしくなくて、悪かったな」
『人らしくない』。
そう考えるのも、僕の核心に触れたことのある彼女にとっては、至極当然の答えだ。
彼女は、どこまで僕のことを察していたのだろうか。
具体的なことは、ほぼ話したことはないはず。
あんなもの、見せたくなかったからなのだが。
ぐちゃぐちゃに歪んだ羨望と嫉妬。
幸福も不幸も全部捨てて、透明な人生を歩き続けてきた僕の。
その、過去なんて。




