どこまでも続く碧の世界
「そうして、わたしはきみと出会ったわけさ」
語られた少女の半生。
壮絶なそれは、彼女の苦労が伺いきれないほどだ。
「そう重く受け止めないでくれよ。
今、わたしはこうして生きている。
それだけで、結構楽しいんだよ?」
「……そう、かもしれないけど」
僕は言葉を濁した。
僕のくだらない悩みは、彼女の悩みの十分の一にも満たないだろう。
言外に吐露を促す少女は、僕の反応を見て困った顔をする。
「……続きだ。今までの話は、長い前置きだからね」
長い濡れ羽色の睫毛を伏せて、少女は再び語り始める。
これからが本題だ。
先程、わたしがきみに問いた言葉、『死』とは何か。
大多数の人間がとても哲学的な問いだと感じるだろう。
けれど、そう難しく考えなくていい。
つまりは、どう死ぬことが己にとっての終わりなのか。
どう生きるのが己にとっての正解なのかを答えるだけなのだ。
わたしの『死』とは、『忘れられること』。
即ち、わたしという存在が消失すること。
ならば、どうしたら消失すると思うだろうか。
ただ肉体的に死しただけでは、誰かが名を覚えている。
誰かが名を忘れても、どこかに記録があれば、それを見たものがわたしを知り、覚える。
そしてまた、その者が忘れたとしても、他の誰かがわたしを見つける。
わたしの名が残る限り、わたしは死なない。
わたしは生き続ける。
では、どうしたら生き続けることができるのだろうか。
ここまで言えば、きみはもう察しているはずだ。
そう、『絵を描くこと』。それがわたしの生きる意味であり、生き続ける方法なのだ。
そう締め括ると、少女は僕を置いて駆け出した。
向かう先は、十数メートル先にある開けた場所。
そこからは碧い海と空が一望出来た。
「ねえ、きみ。ここで耳を澄ましてみてよ。
何か聞こえないかい?」
やっと追い付いた僕は、何も考えずに彼女の指示に従う。
目を閉じて、両耳に手を当て、全神経を聴覚に集める。
風の音、木々の音、波の音。
それらに混じって聞こえる、車の音。
しかし、これらはどれも彼女が示すものではないのだろう。
もっと、別の何かのはずだ。
更に神経を研ぎ澄ます。
イメージは、黒く輝く日本刀。
一太刀で見つけられるよう、全力で探す。
水一滴落ちる音も聞き逃さないように。
また、様々な音が鳴る。
それは雑音だ。
だから、一度捨ててしまおう。
すると、何も聞こえなくなった。
深い水底。自分の心音すら聞こえない暗闇。
けれど、僕は知っている。
ここに差す、一筋の光を。
言葉に出来ない、不思議な声が聞こえた。
それは低く、しかし高く。
誰かを想って歌う、歌だった。
「……これは、鯨の……?」
「聞こえたかい? 良かった、賭けだったからね」
「聞こえてないのに、あんなこと言ったのかよ……」
一気に肩の力が抜けて、ふっと笑ってしまう。
「あ、馬鹿にしたね?」
「してない。間抜けだなと思っただけ」
「しっかりしているじゃないか!」
ぷんすこ起こる少女をなだめて、僕は水平線を見る。
鯨の姿は見えない。
もう、歌も聞こえなくなってしまった。
しかし、僕はその声を覚えている。
とても美しく、神秘的な歌声。
人間では出せない、彼らだけの特別なもの。
ああ、心底羨ましい。彼らには、己の色があるのだ。
自分だけの色が。
ぎりりと歯を噛み締め、そして深呼吸をした。
潮と磯の香りがむせ返るほど香ってくる。
肺を満たす空気を吐き出して、そして背伸びをした。
背筋をぴんと伸ばし、日を身体で受け止めるように。
腕を下ろす頃には、先程までの悪感情はどこかへ行ってしまっていた。
「……ごめん、迷惑掛けた」
「いや、いいよ。いつも迷惑かけてるからね」
「それもそうだ」
腹を小突かれたが気にしない。
真実を言ったまでだ。
開き直った僕は、後十分ほどで着くであろう空港に向かって、再び歩き出す。
「ほら、もたもたしてると置いてくぞ」
振り向けば、満足そうな笑顔の少女が海を背に立っていた。
ああ、こんなに明るい昼なのに、星が見えている。
そう錯覚してしまうほど、眩しい笑顔だった。
「……ああ、今行く!」
少女は水天一碧を背に歩き出す。遥か彼方から、鯨の歌が聞こえた気がした。
星が輝き始めた宵闇。
僕らが東京に帰ってきた時、少女は一つ、僕に贈り物をした。
それは、一つの色紙。
あの旅で見た鯨を描いたものだ。
僕が機内で寝ているうちに描いたのだという。
しかし、それには色が塗られていなかった。
僕は不思議に思って、彼女に問う。
文化祭のときと同じ形式なら、色を塗るはずだ。
画材を持っていかなかったわけではないのだろう、と。
返ってきた答えは、想像も付かないものだった。
「──これは、魔法使いからの餞別さ。
これの扱い方は、きみ次第だ。
煮るなり焼くなり、好きにするといい」
透明な鯨は、僕の目を見つめていた。
その五日後の夜。
雪の降る夜は酷く冷えて、星は見えず、明かりは心許ない街頭だけ。
けれど、僕は走る。
一心不乱に駆け続ける。
そうでなければ、間に合わない。
そうでなければ、彼女に会えない。
日付が変わる三時間前。シンデレラに魔法が解ける時間を宣告するように、彼は僕に告げた。
──■が、倒れた。
と。




