Just the past
『死』とは、何だろうか。
一般的には、『呼吸停止』、『心拍停止』、『瞳孔散大及び対光反射消失』という三徴候を医師が確認し、いずれも該当する場合に『死亡』と宣告される。
分かりやすく言えば、呼吸と血液循環が完全に停止し、加えて脳の全機能も停止。瞳孔が開き、どれだけ光刺激を与えても小さくならない。
即ち、蘇生不能な状態に陥り、かつその状態が持続したとき。
それこそが『死』ということだ。
しかし、わたしの『死』とは、肉体の終わりではない。
わたしにとっては、『忘れられること』こそが『死』なのだ。
芸術家は、何のためにものを作るのだろう。
欲を満たすためか、お金を稼ぐためか。
はたまた、何も考えずに作っているのか。
人によって、答え方は様々だと思う。
芸術家なんて個性があり過ぎる人しかいないのだから、尚更だ。
そう考えれば、わたしの答えはありふれたものだった。
『忘れられること』という、月並みな答え。
けれど、わたしの心は月並みではない。
そこに込められた意味は、恐らく、わたしだけのものなのだ。
以前、少しだけ話したことがあると思う。
わたしの家族の話だ。
子どもの頃、わたしは、父と母の三人で暮らしていた。
両親は少しだけ忙しく、わたしも身体が弱かったが、普通の日常を過ごす、ありふれた家族だった。
それが一変したのは、五歳のときだ。
きっかけは、家族で行った観光ツアー。
観光船で、沖の方まで旅をしていたのだ。
その日はとても体調が良く、何をしても身体が元気だった。
だから、目一杯楽しんだ。
豊かな自然、海面を跳ねる魚。
引き篭もりがちなわたしには、すべてが新鮮に映ったとも。
『魚だからか』、なんて思わないでほしい。
小ボケではないのだ。
始めてみた景色だったのだから、持って当然の感想だろう。
まあ、いい。余計な話だった。
しかし、ここで少し場が和んでいないと、後が辛くなる。
丁度良かったことにしよう。
『行きはよいよい、帰りは怖い』と言うのだろうか。
たっぷり観光した帰り道。
わたしたちが乗った船は──沈没した。
原因は、確か鯨と衝突したからだったと思う。
そう、今日みたいに。
群れから逸れたか、あぶれた個体らしく、一頭だけ。
かなり大型の座頭鯨で、十七メートルほど。
これらは、事故を調査した警察が、沖で鯨の死体を見つけたことで判明したことだ。
こうも他人行儀に語るのは、私自身、あまり記憶が定かではないのが原因である。
当時のことを思い出すと、少々気が滅入ってしまうからだろうか。
わたしの心が、わざと思い出せないようにしているようだった。
あの頃の新聞を調べると、何枚か記事が出てくる。
結構な大事だったから、記者はひっきりなしに来ていたはずだ。
例のごとく、わたしは覚えていないのだけれど。
その事故で亡くなったのは、三名。
運悪く船に巻き込まれて溺れてしまったわたしの両親と、二人を助けようとした善き心を持つ人だった。
偶然、船が沈没する前に陸と連絡が取れたらしく、救助自体はすぐに来たらしい。
その時にはもう、鯨の姿はどこにもなく、数名の証言によって真実に辿り着いたという。
記憶がはっきりするのは、事故から二ヶ月後辺りからだ。
幼いながら、父と母の死を理解していたわたしは、泣きもせず、ぼうっと空を眺めていた。
繰り返した入院生活で、一人は慣れていたはずだったが、何だか心にぽっかりと穴が空いてしまっていて、何をしようとも塞げない。
今思えば、ちょっとした鬱状態だったのだろう。
家族を喪い、心無い記者の言葉を浴びせられ、世界が怖くなって殻に閉じ篭もる。
至極当然のことかもしれないが、当時のわたしは自分一人だけおかしいのだと思いこんでいたのだ。
皆みんな、わたしを憐れむ。
わたしだけ、おかあさんもおとうさんもいないから。
頭も身体も、おかしくなっちゃったから。
そんなわたしを救ったのが、絵だった。
両親の死後、わたしの保護者となった叔父──母の弟である若い男──は美術に精通していて、分野違いであるが、多少なりとも絵画のノウハウがあった。
少しでも気が紛れればと思ったのだろう。
彼はわたしに一通りの画材を買い与えて、技術を教えた。
線を引くこと、円を描くことから始まり、陰影の付け方、色の選び方や調和、数え切れないほどのことを学ばせた。
いつしか、わたしにとって絵を描くことは『辛い現実からの逃避』から『楽しいこと』へと変わっていた。
それこそ、絵を描くために生きているように。
そうして、十年の月日が経った。
十五歳になったわたしは、叔父と医師に人生最大のお願いをしたのだ。
────どうか、お願いします。学校に通わせてください。
と。




