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鯨の歌、君の色彩  作者: 四ノ明朔
第三部【海のノクターン/刹那の終わりへ】
21/31

遥か彼方まで響く、鯨の歌

 出港してから約十五分。

 かなり海岸線から離れたあたりで、不思議な音が聞こえてきた。


 低く、または高く響く音。

 近くではない、どこか遠くから聞こえているようだった。



「……何だこの音。サイレンか?」

「おっと。兄ちゃん、聞こえたか?

 なら、近くに居るかもな」



 船の操縦席に居た船員が、僕にそう言う。

 口振りからして、これは鯨が発している音なのだろうか。


 辺りを見回した僕と少女。

 しかし、その姿は見当たらない。

 水中に潜ってしまっているのかもしれない。


 絶え間なく聞こえてくる音。

 よく聞こえるよう、耳を澄ました。


 重なる音。一つではなく、二重も三重にも声は響く。

 静かな空間に反響して、ふわりと広がっていく。



「どの方向から聞こえてくるか、わかるかい?」

「……何となく、あっち」



 指し示したのは、十時の方向。

 丁度、進路とは逆の方向だった。


 僕らは目を凝らす。

 聞き間違いの可能性もあるが、本当にそこにいる可能性もある。

 これがチャンスなら、逃さない手はない。


 じっと、揺れる水面を眺めた。

 水平線で、空と海が繋がり合っている。

 その境界は酷く曖昧で、まるで一つの碧色のよう。


 だが、声の主は姿を表そうとしない。

 美しい景色なんてお構いなしに、彼らは優に泳ぎ続ける。


 当てが外れたか。

 太陽の明るさに眩んで、目を細めた。


 その瞬間、僅かに、水飛沫が上がる。



「──あ」



 声を漏らしたのは、果たしてどちらだったのか。


 遠い、遠い向こう側。

 最早、自身が空と海の境界線となるように、それは飛び上がった。


 黒と白の表皮。大きな体躯に、翼のように長い鰭。

 翻した身体は弧を描いて水面に沈む。

 二股の尾が消えるまで、僕らはそれから目を離せなかった。



「……居た、な」

「あれが、鯨……」



 それ以上の言葉は出なかった。

 五千万年前より海に棲み、怪物の名を冠する巨大な哺乳類。

 人の領域には捉えられない、『神秘』を宿す生物。

 それこそが、鯨。

 中でも、ザトウクジラは、その極めて長い胸鰭から、古代ギリシア語にて『大きな翼』の名を持つ。


 こうしてみると、その名が相応しいことがよくわかる。

 現に、それは飛んだ。

 長い鰭を使い、宙へと浮き上がった。

 あの絵は、ただの空想ではなかったのだ。


 唖然とそれが水中に消えた方向を眺めていると、同乗者たちが歓声を上げた。

 遠くにいた鯨に夢中になっていた僕らは、何のことかわからず、近くに居た男性に話を訊く。



「すみません、何かあったんですか?」

「うん? ああ、今のことか。

 さっき、鯨の群れが姿を現してね、大きく跳ねたんだ。

 こっちに向かってきてるよ。良かったら、前においで」

「良いんですか……?」

「良いの良いの。

 資料は集まったし、おれも十分楽しんだからね。

 あとは若い子たちが楽しみな」



 自分たちとそう年は変わらないはずだが、朗らかな笑顔で彼は言う。

 その善意に甘えて、前方を譲ってもらった僕らは、件の群れを見た。


 大勢の鯨が、列を成して船へと近付いて来ている。

 その距離は、目測十メートルもない。


 時々吹き上がる水飛沫は、潮吹き(ブロー)と言って、鯨にとっての息継ぎなのだという。

 海洋に棲んでいると言っても哺乳類であるし、肺呼吸であるのだから、息継ぎが必要なのは当然だ。


 因みに、ホエールウォッチングで鯨が見られるのは、この潮吹きのために海面に上がってきているからである。


 息継ぎを終えたらしい一頭の鯨が潜水する。

 裏側を見せつけるように上げられた尾鰭が水面を揺らし、僕らに掛かるほど水飛沫が跳ねた。



「近い……! 本当に大きいなあ!」



 先程とは違った衝撃だ。

 成体と幼体、合わせて十二頭。

 水に潜っているので、全体は見えないが、それでも大迫力だった。


 碧い海を覗けば、鯨の影が揺らめいている。

 速度はゆっくりであるが、巨体が目と鼻の先にあるのは、恐怖を煽る。



「衝突しないか、これ……」

「大丈夫、大丈夫。

 彼らもわかってるから、当たりはしないよ。

 ……基本は、ね」

「『基本は』って何だよ、『基本は』って。……無言になるな」



 僕の追求に、少女は乾いた笑いを零す。

 『基本は』というのは、鯨は自分から船や人を襲うことは無いが、魚を捕食しようとしたり、岩と勘違いしたりして、偶然ぶつかってしまうことがあるかららしい。

 十数メートルある生物が、勢い良くぶつかれば──その先の未来は、想像するに容易い。


 僕は身震いして、『もしも』があってもいいように、少女と手を繋いだ。



「そんなことしなくても、落ちたりしないよ。

 こうやって、ちゃんと柵を掴んでいるだろう?」

「……保険だよ、保険」

「その割には、結構強く掴んでくれてるみたいだけど」



 この真冬の中、海へ落ちれば、ただでは済まない。

 現在は鯨の群れもやって来ているのだ。

 小柄かつ細身の彼女がそれに呑み込まれれば、生きて帰って来れないだろう。

 それほどまでに、人間と鯨は差があるのだ。最悪の想定をして備えておくのは、当然のことだ。


 にやにやと笑う少女から顔を逸らして、眼下の鯨を観察する。

 いつの間にか船の進行は止まっていて、波が船体を揺らすだけ。

 鯨は頭部を船に擦り付けるように周りに集まっていた。


 目立つのは、頭部でも先の方。

 口や、顎の辺りに付いているフジツボだった。



「……あのフジツボって、邪魔じゃないのか?」

「邪魔らしいよ、痒みを感じることもあるみたいだ。

 一説によると、ブリーチング──あの背面跳びみたいなものね。

 あれは、フジツボや、クジラジラミっていう寄生虫を落とすためにしているとされているんだ。

 コミュニケーションとか、メスへのアピールっていう説もある。

 詳しいことは、まだわかっていないのだけどね」



 離れたところで海面から飛び上がった鯨。

 あれが、ブリーチング。

 ここに来る前に、一通り鯨の行動を調べてみたが、その理由まではわかっていなかった。



「君は何でも知ってるな。博士みたいだ」

「過大評価だよ。

 好きなことしか、わたしは知らないからね」



 『それもそうだ』と相槌を打つと、空いている方の手で、少女が鯨の背部を指した。



「……ほら、見て。

 あの背中の赤みがかった白いものが──」



 その時、船体が大きく揺れる。

 同時に、人々の悲鳴が織り混じった歓声。

 僕は、咄嗟に彼女を引き寄せた。



「……と。手、繋いでて良かっただろ」

「本当にその通りだね。いやはや、油断したよ。

 まさか、今のタイミングで揺れるとは……」



 腕の中の少女は、申し訳無さそうに頭を掻いた。

 笑って誤魔化していたが、握った手は少し震えていた。


 今、何が起こったのか。

 それを解き明かすため、僕らは歓声が上がった方に注意を向ける。


 騒ぐ同乗者。

 彼らは口々に『小型の鯨が体当たりした』と捲し立てやていた。

 危惧していた事態が起きたらしい。

 幸い、船に損傷はなく、ただ掠っただけのようだ。


 もしや、彼女の言ったように、フジツボやクジラジラミが痒く、擦り落としたかったのだろうか。

 まだ成体ではない、両手で数えられるほどの年齢であろう小型の鯨が、親らしき大型の鯨に寄り添うのを見ながら、そう考えた。


 自分の知らぬ間に他へと影響を与え、知らぬまま親の元に帰る。

 人間でないのに、あまりにも人間らしい挙動だ。


 まだ知識がない子どもは、因果を悟らない。

 因果を悟り、己の行動を省みることが出来たとき、始めて『大人』になる。

 それに、人間か鳥獣か、魚かなんて区分けは、関係のないことなのだろう。

 『親』なんていない僕の、確証のない戯言だけれども。


 やがて、鯨の群れは何事も無かったかのように、船の周囲から去っていく。

 胸鰭を、手を振るように上げて。


 気付けば、出港から凡そ二時間半が経過していた。

 鯨が見えなくなった頃、船は再び動き出す。


 家屋や岸壁、消波ブロックが並ぶ海岸線。

 空と海が、碧く一繋ぎになる水平線。


 あちらを振り返って、僕は海と鯨に別れを告げた。


 一時の出会い。ただ、一度だけの出会い。

 再び、彼らに会うことは出来ないだろう。


 本来、交わることのない二つ。

 科学という『神秘の否定者』により、交わってしまった二つ。

 しかし、両者ともに、生命であることには変わりなかった。


 海は広く、生命は短い。

 叶うはずのない再会の祈りなんて、無意味でしかない。

 だから、願うのは彼らの行く先の幸せだけ。


 広大な海で、刹那の時で。朽ち果てるまで。

 どうか、幸せでいられますように。

 そして、彼らが僕らに、同じように祈っていますように、と。


 願いは音に鳴らず、けれど心の中に響く。

 耳の奥で、鯨の歌が聞こえた気がした。


 波を掻き分けて、船は進む。

 碧から遠ざかっていく。

 僕らの、あるべき場所に帰るために。

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