お返しのプレゼント
「……そういえば、なんだけど。再来週の週末って暇か?」
「ああ。特に予定は入っていないけれど……」
第一関門突破、心の中で拳を握る。
まだ安心は出来ない。
予定は無くとも、同意してくれるとは限らないのだから。
顔を挙げずに、鉛筆を動かす少女。
まだ、彼女は何も気付いていない。
続けて、僕は訊く。
「今は冬だが……海に行きたいと思うか?」
「寒くても海は海だし、行けるなら行くけれど……話の要点が見えないな。
いったいどういう意味なんだい?」
第二関門突破、心の中で腕を引く。
ここまで来れば、あと少し。
彼女に『愛』があるなら、もう問題はない。
不審に思った少女は顔を上げ、僕を訝しんだ。
最後に、僕は問う。
「──鯨は好きか?」
「……勿論、大好きさ!」
一瞬目をぱちくりと瞬かせた少女は、にこりと笑う。
第三関門突破、腕を伸ばして勝鬨を上げた。
そうして、僕は彼女の目の前に二つの紙を見せる。
「……八丈島旅行、ペアチケット?
しかも、ホエールウォッチングツアー付きじゃないか。
どこでこんなものを?」
「商店街の福引。使わないのも勿体無いし……暇なら、どうかと思って」
「それなら、是非! 予定はきみに合わせよう!」
きらきらとした目でチケットを掲げた少女は、弾んだ声で返事をする。
彼女なら、予定さえ合えば断りはしないだろうと思っていたが、ここまで喜んでくれるとは思っていなかった。
プランとにらめっこをしながら、詳細な日程を立てていく。
日時は再来週末の三連休。
早朝に東京行きのバスに乗り、羽田空港を目指す。
十二時十五分に羽田空港から出る飛行機に乗り、十三時過ぎに八丈島空港に到着。
その日は観光に使い、一泊する。
次の日は、朝九時からホエールウォッチングツアーを行い、その日の午後の便で東京に帰る。
そして、夜行バスを使って街まで戻ってくる。
一泊二日の旅だ。
ある程度のゆとりがあるので、時間的な問題はないと思いたい。
不安なのは──。
「……相当冷えるらしいが、大丈夫か?」
「大丈夫、完全装備でいくよ」
蟹のように両手ピースで誇らしげにする少女。
詳しく聞けば、四重に厚着した上でダウンとマフラー、手袋に耳当て、帽子、懐炉まで装備するらしい。
病弱な彼女なら、過剰装備ということはないだろう。
風で折れてしまいそうな細腕を眺める。
「あとは、しっかり飯を食べるくらいか……好き嫌いするなよ?」
「ピーマンや人参がないなら!」
「子どもかよ」
『苦いのは嫌いだ』と野菜を嫌う彼女だが、入院していた頃はどうしていたのだろう。
病院食なんて野菜が殆どだろうに。
日々の弁当の野菜だって、僕が細かく刻んでわからないようにして、無理矢理食べさせているようなものである。
自分のおまけとして、彼女の弁当も作り続けて半年以上。
『保護者も自分も料理ができないから』と、コンビニ弁当や惣菜ばかりであった当初よりは、栄養バランスが改善していると思いたい。
だが、彼女が定期的に行う健康診断の結果を実際に見たことがないので、本当のことはわからなかった。
何故か、いつも見せてくれないのだ。
個人情報保護の視点から考えれば当たり前だが、少し不安になってしまう。
日常生活ができるほどなのだから、そう心配することもないのだろうが。
メモ帳に書き記した日程と必要な道具を、スマートフォンの機能でデータ化した。
こうすれば、そのまま少女にメールを送り付けるだけで済む。
送信ボタンを押すと、彼女のポケットから通知音が鳴った。
「気になることがあったら前日までに訊くように、いいな?」
「わかった、早めに用意をしておこう。
いやはや、楽しみだな。旅行なんて初めてだよ」
生まれてから高校生になるまで病院暮らしであった彼女は、遠出の経験が殆ど無い。
夏休み中に訪れた、市内の水族館ですら初めてだったという。
新鮮な反応が見れたのは喜ばしかったが、これまでそのような経験が無いというのは、少しだけ気の毒だった。
いや、自分だって初めての体験だったのだが、『行けなかった』と『行かなかった』では話が違う。
僕はいつでも行くことが出来た。
行きたくても行けなかった彼女とは違うのだ。
そんな彼女が健康になった今、『いろいろな場所に行きたい』と願うことは当然であり、それを叶えてあげたいと思うのもまた、当然のこと。
しかし、僕は彼女を哀れんでいるわけではない。
ただ、彼女の願いの果てに、僕が望むものがあるというだけ。
新しい景色を見た彼女が、美しい世界を描く。
そうすれば、僕はまた彼女の絵が見れる。
一石二鳥というわけだ。
言い訳がましい内心に、見て見ぬ振りをした。
「ちゃんと許可取ってこいよ。あの人なら二つ返事かもしれないけど」
「帰りの車内にでも言うさ。
……しかし、君はいいのかい?
私たちはまだ未成年だから、その……」
気まずそうに少女は手元に目を落とした。僕の両親について想像しているのだろう。
「そこは気にしなくていい。
うちの両親は僕に全く興味は無くても、書類関係だけはきちんと目を通すからな。
必要だと言えば、サインくらいは書く」
未成年が宿泊施設を利用するには、親権者の同意書がいる。
彼女が心配しているのはそこだ。
恐らく、知らないのだろうが、小中と学生生活を送っていれば、何度も親の同意が必要な書類は出てくる。
高校の入学手続きだって、親がいなければ出来ない。
書類関係を放ったらかすと、困るのはあっちの方だ。
自分の不利益を嫌う彼らなら、それなりの理由をでっち上げれば、すぐ書くだろう。
だから、問題はない。
寧ろ、それが解決していなければ、彼女を誘うはずがないのだ。
「……なら、いいのだけれど」
優しい保護者、優しかった家族しか知らない少女には、僕を不安に思ってしまうのも仕方がない。
もう割り切っているとは言っても、親子の縁とはそう簡単に切れないのだ。
いつか、僕が大人になったときには──とは思うけれども。
チェックリストに印を付けて、残りの項目に目を通す。
「今出来る話はこれくらいか。
こっちで予約は取っておくから、君は自分の準備をちゃんとしろよ。
あっちでぶっ倒れられても困る」
「それは重々承知の上さ。あと二週間で身体を鍛えておくよ」
二週間ぽっちで変わるかよ。
ツッコミを入れようと思ったが、彼女の意志を曲げるのが忍びなくて、声に出すのをやめた。
話し合いが終われば、少女は作業を再開する。
連作はもう六枚目に至っており、今年度中には最後まで持っていけそうなペースだ。
僕が気にしていなかっただけで、大分前から連作は始まっていたらしい。
幻想的な風景と海洋生物が彼女の作風であるので、他の作品との違いがよくわからなかったのだ。
そんなことを言えば、怒られてしまうけれど。
真剣な眼差しで線を引く少女の横顔を見て、思い返すのはとある男性。
そして、彼が見ていた大きな絵画。
思えば、あれも背景は宇宙──星であったか。
もしかしたら、あの作品の外側には、この連作が広がっているのかもしれない。
そんなことを考えていれば、時間は過ぎていく。
彼女が七枚目のラフに入った頃には、旅立ちの日は明日へと迫っていた。




