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鯨の歌、君の色彩  作者: 四ノ明朔
第三部【海のノクターン/刹那の終わりへ】
18/31

お返しのプレゼント

「……そういえば、なんだけど。再来週の週末って暇か?」

「ああ。特に予定は入っていないけれど……」



 第一関門突破、心の中で拳を握る。

 まだ安心は出来ない。

 予定は無くとも、同意してくれるとは限らないのだから。


 顔を挙げずに、鉛筆を動かす少女。

 まだ、彼女は何も気付いていない。


 続けて、僕は訊く。



「今は冬だが……海に行きたいと思うか?」

「寒くても海は海だし、行けるなら行くけれど……話の要点が見えないな。

 いったいどういう意味なんだい?」



 第二関門突破、心の中で腕を引く。

 ここまで来れば、あと少し。

 彼女に『愛』があるなら、もう問題はない。


 不審に思った少女は顔を上げ、僕を訝しんだ。


 最後に、僕は問う。



「──鯨は好きか?」

「……勿論、大好きさ!」



 一瞬目をぱちくりと瞬かせた少女は、にこりと笑う。


 第三関門突破、腕を伸ばして勝鬨を上げた。

 そうして、僕は彼女の目の前に二つの紙を見せる。



「……八丈島旅行、ペアチケット?

 しかも、ホエールウォッチングツアー付きじゃないか。

 どこでこんなものを?」

「商店街の福引。使わないのも勿体無いし……暇なら、どうかと思って」

「それなら、是非! 予定はきみに合わせよう!」



 きらきらとした目でチケットを掲げた少女は、弾んだ声で返事をする。

 彼女なら、予定さえ合えば断りはしないだろうと思っていたが、ここまで喜んでくれるとは思っていなかった。


 プランとにらめっこをしながら、詳細な日程を立てていく。

 日時は再来週末の三連休。

 早朝に東京行きのバスに乗り、羽田空港を目指す。

 十二時十五分に羽田空港から出る飛行機に乗り、十三時過ぎに八丈島空港に到着。

 その日は観光に使い、一泊する。

 次の日は、朝九時からホエールウォッチングツアーを行い、その日の午後の便で東京に帰る。

 そして、夜行バスを使って街まで戻ってくる。

 一泊二日の旅だ。


 ある程度のゆとりがあるので、時間的な問題はないと思いたい。

 不安なのは──。



「……相当冷えるらしいが、大丈夫か?」

「大丈夫、完全装備でいくよ」



 蟹のように両手ピースで誇らしげにする少女。

 詳しく聞けば、四重に厚着した上でダウンとマフラー、手袋に耳当て、帽子、懐炉まで装備するらしい。

 病弱な彼女なら、過剰装備ということはないだろう。

 風で折れてしまいそうな細腕を眺める。



「あとは、しっかり飯を食べるくらいか……好き嫌いするなよ?」

「ピーマンや人参がないなら!」

「子どもかよ」



 『苦いのは嫌いだ』と野菜を嫌う彼女だが、入院していた頃はどうしていたのだろう。

 病院食なんて野菜が殆どだろうに。


 日々の弁当の野菜だって、僕が細かく刻んでわからないようにして、無理矢理食べさせているようなものである。

 自分のおまけとして、彼女の弁当も作り続けて半年以上。

 『保護者も自分も料理ができないから』と、コンビニ弁当や惣菜ばかりであった当初よりは、栄養バランスが改善していると思いたい。


 だが、彼女が定期的に行う健康診断の結果を実際に見たことがないので、本当のことはわからなかった。

 何故か、いつも見せてくれないのだ。


 個人情報保護の視点から考えれば当たり前だが、少し不安になってしまう。

 日常生活ができるほどなのだから、そう心配することもないのだろうが。


 メモ帳に書き記した日程と必要な道具を、スマートフォンの機能でデータ化した。

 こうすれば、そのまま少女にメールを送り付けるだけで済む。

 送信ボタンを押すと、彼女のポケットから通知音が鳴った。



「気になることがあったら前日までに訊くように、いいな?」

「わかった、早めに用意をしておこう。

 いやはや、楽しみだな。旅行なんて初めてだよ」



 生まれてから高校生になるまで病院暮らしであった彼女は、遠出の経験が殆ど無い。

 夏休み中に訪れた、市内の水族館ですら初めてだったという。

 新鮮な反応が見れたのは喜ばしかったが、これまでそのような経験が無いというのは、少しだけ気の毒だった。


 いや、自分だって初めての体験だったのだが、『行けなかった』と『行かなかった』では話が違う。

 僕はいつでも行くことが出来た。

 行きたくても行けなかった彼女とは違うのだ。


 そんな彼女が健康になった今、『いろいろな場所に行きたい』と願うことは当然であり、それを叶えてあげたいと思うのもまた、当然のこと。

 しかし、僕は彼女を哀れんでいるわけではない。

 ただ、彼女の願いの果てに、僕が望むものがあるというだけ。

 

 新しい景色を見た彼女が、美しい世界を描く。

 そうすれば、僕はまた彼女の絵が見れる。

 一石二鳥というわけだ。

 言い訳がましい内心に、見て見ぬ振りをした。



「ちゃんと許可取ってこいよ。あの人なら二つ返事かもしれないけど」

「帰りの車内にでも言うさ。

 ……しかし、君はいいのかい?

 私たちはまだ未成年だから、その……」



 気まずそうに少女は手元に目を落とした。僕の両親について想像しているのだろう。



「そこは気にしなくていい。

 うちの両親は僕に全く興味は無くても、書類関係だけはきちんと目を通すからな。

 必要だと言えば、サインくらいは書く」



 未成年が宿泊施設を利用するには、親権者の同意書がいる。

 彼女が心配しているのはそこだ。


 恐らく、知らないのだろうが、小中と学生生活を送っていれば、何度も親の同意が必要な書類は出てくる。

 高校の入学手続きだって、親がいなければ出来ない。


 書類関係を放ったらかすと、困るのはあっちの方だ。

 自分の不利益を嫌う彼らなら、それなりの理由をでっち上げれば、すぐ書くだろう。

 だから、問題はない。

 寧ろ、それが解決していなければ、彼女を誘うはずがないのだ。



「……なら、いいのだけれど」



 優しい保護者、優しかった家族しか知らない少女には、僕を不安に思ってしまうのも仕方がない。

 もう割り切っているとは言っても、親子の縁とはそう簡単に切れないのだ。

 いつか、僕が大人になったときには──とは思うけれども。


 チェックリストに印を付けて、残りの項目に目を通す。



「今出来る話はこれくらいか。

 こっちで予約は取っておくから、君は自分の準備をちゃんとしろよ。

 あっちでぶっ倒れられても困る」

「それは重々承知の上さ。あと二週間で身体を鍛えておくよ」



 二週間ぽっちで変わるかよ。

 ツッコミを入れようと思ったが、彼女の意志を曲げるのが忍びなくて、声に出すのをやめた。


 話し合いが終われば、少女は作業を再開する。

 連作はもう六枚目に至っており、今年度中には最後まで持っていけそうなペースだ。


 僕が気にしていなかっただけで、大分前から連作は始まっていたらしい。

 幻想的な風景と海洋生物が彼女の作風であるので、他の作品との違いがよくわからなかったのだ。

 そんなことを言えば、怒られてしまうけれど。


 真剣な眼差しで線を引く少女の横顔を見て、思い返すのはとある男性。

 そして、彼が見ていた大きな絵画。


 思えば、あれも背景は宇宙──星であったか。

 もしかしたら、あの作品の外側には、この連作が広がっているのかもしれない。

 そんなことを考えていれば、時間は過ぎていく。


 彼女が七枚目のラフに入った頃には、旅立ちの日は明日へと迫っていた。

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