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鯨の歌、君の色彩  作者: 四ノ明朔
第三部【海のノクターン/刹那の終わりへ】
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料理は必須スキル

 冬の寒さが堪える二月末。

 揺れる波が日光を反射して、まるで宝石のように輝いている。


 裏起毛の革手袋に包まれていてなお、かじかむ手。

 手に吹きかけるよう息を吐けば、空気が白く染まった。

 雪は未だ降っていないが、降ってもおかしくない気温だ。


 隣に座る少女が凍えていないか、横目で確認する。

 長い黒髪ごとマフラーに包み、手袋に耳当て、帽子、懐炉まで用意した完全装備の彼女は、僕と違って冬の海上でも温かいらしい。

 初めての乗船と海原で、興奮しているのもあるのかもしれない。



「凄いよ、きみ! 動いてる!」

「そりゃあ動くだろ、船だぞ」

「知っているのと見ているのじゃ大違いだ!

 『百聞は一見に如かず』と言うだろう?」



 一年ほど前も、同じようなことを言われた。

 遠い昔のように感じられる少女との出会い。

 彼女と出会わなければ、今頃僕はこんなところには居ないだろう。


 果てし無く広がる水平線。

 所々にある島々。

 薄い青色の空は、僅かに雲が掛かっている。


 ここは八丈島沖。

 国内有数の、鯨が見られる海域。


 そう、僕らは今──ホエールウォッチングなるものに参加していた。






 一月ほど前、冬休みが開けてすぐの頃だ。

 少女が秋口ほどから体調を崩しがちになったことで、美術室に来る頻度が減り、僕らが顔を合わせるのは、今は週に二回ほどになっていた。

 彼女が居なくても、家に帰りたくない僕はここで暇を潰すので、いつもより少し静かに過ごすだけ。


 しかも、受験真っ只中ということもあり、三年生も、顧問も、全くと言ってよいほどここに来ない。

 高文祭も終わってしまったので、特にやることもない。

 強いて言えば、来年の入部勧誘用のポスターやチラシを描くことくらい。


 美術部でもない僕が描けるわけが無いので、もっぱら参考書を読んだり、あちこちの風景を描いたり、最早美術部でも欠損ない行動をしていた。


 ここまで来たなら、来年になったら入部届でも出そうかな。

 来年、入部用の書類を見せたら、彼女は驚くだろうか。


 そう考えてしまうほどには、僕はここに馴染んでしまっている。

 初めの頃の反発具合なんて、忘れてしまっていた。


 ただ、頻度が下がっても、少女が鋭意的に作品を生み出すのは変わらない。

 現在は、小さなキャンバスでの連作だ。


 キャンバスが小さいのは、一つ一つの作品にかける時間を短くするためらしい。

 モチーフは星座のようだが、選んでいるのは海洋生物の星座ばかりであった。

 「いつもと同じだろ」、「いいや、違うよ」なんて応酬をしたのは記憶に新しい。



「連作にするほど、君が好む星座はあるのか?」



 僕がそう言うと、一切れのメモを渡された。

 書かれている星座の名は七つ。

 かに座、うお座、うみへび座、いるか座、かじき座、とびうお座、くじら座。

 『結構あるな』と自分の無知を恥じるとともに驚く。


 八十八もの星座があることは知っていたが、一般教養で

あろう、かに座とうお座を除いた五つは名前すらも聞いたことがなかった。

 星座に関する学びなんて、小学校以来得たことがない。

 自分で調べる気も早々起きないので、貴重な体験だ。

 

 スマートフォンで星自体の並びを調べる。

 こうして考えてみると、昔の人は想像力は豊かだ。

 僕が夜空を見上げたとて、星の並びからそれらを見出すことは出来ない。

 精々、綺麗だなと零すくらいである。


 娯楽がそれくらいしかなかったと言われてしまえば、それで終わりなのだが、それでも古代の感性は素晴らしい。

 今、彼らがそこに居れば、少女の絵を見てどう思うだろう。

 美しいと褒めるのか、それとも意味がわからないと放り投げるのか。

 それは、神のみぞ知るという締め括りをするしかない。



「……くじら座、ね」



 僕は一覧表のある一部分をなぞり、呟いた。



「くじら座、ギリシャ神話におけるケートスのことだね。

 アンドロメダという少女を襲い、偶然通り掛かった青年ペルセウスに退治されたという伝説がある。

 何でも、メドゥーサ──蛇の魔物というべきかな。

 その力を持つ盾によって、石に変えられてしまい、そのまま海に沈んだらしい」

「詳しいな」

「調べたからね」



 誇らしげに胸を張る少女。

 こうして神話などの知識は溜まっていく傍ら、日常生活はてんでポンコツなのはいただけない。

 そろそろ、茹で卵の作り方くらいは覚えてほしいものだ。

 突然、彼女が『料理を教えてほしい』と僕には泣きついてきた時のことを思い出した。


 それはクリスマスが近付いていた時期で、彼女は日頃の恩返しとして、保護者にケーキとクリスマスらしい食事を作りたかったらしい。

 しかし、料理の『りょ』の字も出来ない彼女に、手作りのケーキやフライドチキンは、かなり難易度が高く、レシピを見ても絶対に作れないほど。


 どうしてもそれらを作りたかった少女は、身の回りで料理が出来る者を思い浮かべ、白羽の矢が立ったのが僕。

 それから付きっきりで教え、手伝った結果、何とか作ることには成功したが、それ以降、彼女の料理スキルの上達は頭打ちである。


 野菜を包丁で切る力もなければ、火を止めるタイミングを逃して肉を焦がしかける。

 結局は慣れなのだが、慣れるほど料理をしようとしない。

 『自立できるのか』と疑問に思うレベルだ。


 「きみがわたしとずっと一緒にいてくれるなら、わたしが出来なくても問題はないだろう?」と開き直った少女の額には、デコピンを叩き付けておいた。

 それとこれとは話が別なのである。


 まあ、もっと時間はあるわけだし、これから学んでいけば良い。

 そう締め括った夜、僕は彼女から意外なプレゼントを受け取ることになる。

 それが今、僕が『くじら』という単語に反応したことにも繋がるのだ。


 僕は何でもないように、世間話の体を成して彼女に尋ねる。

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