料理は必須スキル
冬の寒さが堪える二月末。
揺れる波が日光を反射して、まるで宝石のように輝いている。
裏起毛の革手袋に包まれていてなお、かじかむ手。
手に吹きかけるよう息を吐けば、空気が白く染まった。
雪は未だ降っていないが、降ってもおかしくない気温だ。
隣に座る少女が凍えていないか、横目で確認する。
長い黒髪ごとマフラーに包み、手袋に耳当て、帽子、懐炉まで用意した完全装備の彼女は、僕と違って冬の海上でも温かいらしい。
初めての乗船と海原で、興奮しているのもあるのかもしれない。
「凄いよ、きみ! 動いてる!」
「そりゃあ動くだろ、船だぞ」
「知っているのと見ているのじゃ大違いだ!
『百聞は一見に如かず』と言うだろう?」
一年ほど前も、同じようなことを言われた。
遠い昔のように感じられる少女との出会い。
彼女と出会わなければ、今頃僕はこんなところには居ないだろう。
果てし無く広がる水平線。
所々にある島々。
薄い青色の空は、僅かに雲が掛かっている。
ここは八丈島沖。
国内有数の、鯨が見られる海域。
そう、僕らは今──ホエールウォッチングなるものに参加していた。
一月ほど前、冬休みが開けてすぐの頃だ。
少女が秋口ほどから体調を崩しがちになったことで、美術室に来る頻度が減り、僕らが顔を合わせるのは、今は週に二回ほどになっていた。
彼女が居なくても、家に帰りたくない僕はここで暇を潰すので、いつもより少し静かに過ごすだけ。
しかも、受験真っ只中ということもあり、三年生も、顧問も、全くと言ってよいほどここに来ない。
高文祭も終わってしまったので、特にやることもない。
強いて言えば、来年の入部勧誘用のポスターやチラシを描くことくらい。
美術部でもない僕が描けるわけが無いので、もっぱら参考書を読んだり、あちこちの風景を描いたり、最早美術部でも欠損ない行動をしていた。
ここまで来たなら、来年になったら入部届でも出そうかな。
来年、入部用の書類を見せたら、彼女は驚くだろうか。
そう考えてしまうほどには、僕はここに馴染んでしまっている。
初めの頃の反発具合なんて、忘れてしまっていた。
ただ、頻度が下がっても、少女が鋭意的に作品を生み出すのは変わらない。
現在は、小さなキャンバスでの連作だ。
キャンバスが小さいのは、一つ一つの作品にかける時間を短くするためらしい。
モチーフは星座のようだが、選んでいるのは海洋生物の星座ばかりであった。
「いつもと同じだろ」、「いいや、違うよ」なんて応酬をしたのは記憶に新しい。
「連作にするほど、君が好む星座はあるのか?」
僕がそう言うと、一切れのメモを渡された。
書かれている星座の名は七つ。
かに座、うお座、うみへび座、いるか座、かじき座、とびうお座、くじら座。
『結構あるな』と自分の無知を恥じるとともに驚く。
八十八もの星座があることは知っていたが、一般教養で
あろう、かに座とうお座を除いた五つは名前すらも聞いたことがなかった。
星座に関する学びなんて、小学校以来得たことがない。
自分で調べる気も早々起きないので、貴重な体験だ。
スマートフォンで星自体の並びを調べる。
こうして考えてみると、昔の人は想像力は豊かだ。
僕が夜空を見上げたとて、星の並びからそれらを見出すことは出来ない。
精々、綺麗だなと零すくらいである。
娯楽がそれくらいしかなかったと言われてしまえば、それで終わりなのだが、それでも古代の感性は素晴らしい。
今、彼らがそこに居れば、少女の絵を見てどう思うだろう。
美しいと褒めるのか、それとも意味がわからないと放り投げるのか。
それは、神のみぞ知るという締め括りをするしかない。
「……くじら座、ね」
僕は一覧表のある一部分をなぞり、呟いた。
「くじら座、ギリシャ神話におけるケートスのことだね。
アンドロメダという少女を襲い、偶然通り掛かった青年ペルセウスに退治されたという伝説がある。
何でも、メドゥーサ──蛇の魔物というべきかな。
その力を持つ盾によって、石に変えられてしまい、そのまま海に沈んだらしい」
「詳しいな」
「調べたからね」
誇らしげに胸を張る少女。
こうして神話などの知識は溜まっていく傍ら、日常生活はてんでポンコツなのはいただけない。
そろそろ、茹で卵の作り方くらいは覚えてほしいものだ。
突然、彼女が『料理を教えてほしい』と僕には泣きついてきた時のことを思い出した。
それはクリスマスが近付いていた時期で、彼女は日頃の恩返しとして、保護者にケーキとクリスマスらしい食事を作りたかったらしい。
しかし、料理の『りょ』の字も出来ない彼女に、手作りのケーキやフライドチキンは、かなり難易度が高く、レシピを見ても絶対に作れないほど。
どうしてもそれらを作りたかった少女は、身の回りで料理が出来る者を思い浮かべ、白羽の矢が立ったのが僕。
それから付きっきりで教え、手伝った結果、何とか作ることには成功したが、それ以降、彼女の料理スキルの上達は頭打ちである。
野菜を包丁で切る力もなければ、火を止めるタイミングを逃して肉を焦がしかける。
結局は慣れなのだが、慣れるほど料理をしようとしない。
『自立できるのか』と疑問に思うレベルだ。
「きみがわたしとずっと一緒にいてくれるなら、わたしが出来なくても問題はないだろう?」と開き直った少女の額には、デコピンを叩き付けておいた。
それとこれとは話が別なのである。
まあ、もっと時間はあるわけだし、これから学んでいけば良い。
そう締め括った夜、僕は彼女から意外なプレゼントを受け取ることになる。
それが今、僕が『くじら』という単語に反応したことにも繋がるのだ。
僕は何でもないように、世間話の体を成して彼女に尋ねる。




