夏の夜、満天の星
「先生、あとはよろしくお願いします。
では、また明日……じゃないか、来週」
「ああ、また来週」
手を振ってくる少女に、軽く振り返しつつ、僕は教室を出る。
少女とともに帰らないのは、彼女の保護者が迎えに来るからだ。
いつもそうなので、僕は特に言及しなかった。
体調不良の連絡も、とうの昔に済んでいるだろうし。
廊下を歩く音が響き渡った。
人気のない保健室前は暗く、ホラー映画の雰囲気を匂わせる。
時折聞こえる生徒の声がなければ、そんな世界に迷い込んでしまったのではないかと錯覚するほど。
廊下を進んで曲がり、昇降口に辿り着くと、そこには同学年、上級生も含めた生徒たちがたくさん居た。
静かであった先程の空間が嘘のように、喧騒が辺りを包んでいる。
億劫になりながらも人混みの隙間を通り抜けて、自分の下駄箱から靴を取り出した。
ありきたりな黒の運動靴は草臥れていて、両隣の立派なローファーと比べるとみすぼらしい。
中学校時代から変えていないのだから、当たり前だ。
そろそろ、変えるべきなのだろうか。
しかし、まだ使えるし、使えるのに変えるというのも勿体無い。
物持ちの良い靴を少しだけ恨みながら、僕は学校を出た。
夏真っ只中の夜は、夜だと思えないほどに熱く、湿度が高い。
全身がぬるい水に包まれているようだ。
不快感を隠さず、眉を顰める。
別に誰も僕のことを気にしないわけだし、多少感情を顕にしても良いだろう。
一刻も早く涼しい室内に辿り着きたい気持ちと、帰りたくないという気持ちを抱えて、僕は帰路に就く。
時刻は十八時四十二分。
宵の空には、少しずつ星が煌めきだしていた。
学校から歩いて三十分ほど。
十階建てのマンションの七階、その中央あたり。
リュックサックの上部、チャック付きの小さなポケットから、鯨のキーホルダーの付いた鍵を取り出した。
このキーホルダーは、夏休み中、あの少女と水族館に行った際に購入したものだ。
利便性を考え、キーホルダーを選んだのはいいものの、携帯に付けると操作時の邪魔になるし、リュックサックはストラップが千切れて失くしてしまうで怖い。
消去法で、名の通り、家の鍵につけることにしたのだ。
鍵を鍵穴に刺して回す──前に、一応扉が開くか試みる。
無論、きちんと鍵は掛かっていて、誰かが中に入った様子はない。
僕が家を出てから、誰も入っていないようだ。
安心するべきか、悲しむべきか。
普通ならば抱く感情の数々。
しかし、それらはもう、とうの昔に捨てている。
『無』の心、即ち無心で僕は家の鍵を開けた。
何もない玄関、何もない廊下、何もないリビング。
そして、何もない自室。
この家には、何もない。
生活感なんて、存在しなかった。
僕でさえも、この家ですることと言えば、寝食を取るだけ。
両親は、どうせ帰ってこないのだ。
必要最低限の食事と睡眠さえ取れれば、何でも良かった。
何でそんなことになっているなんて訊かれても、僕には答えようがない。
気付けばこうなっていた、としか。
そもそも、僕の両親は仮面夫婦である。
結婚をせがむ親からの重圧に耐え兼ねた二人は、都合が良い相手と番い、人前でだけ仲の良い夫婦を演じ、仕事が忙しい振りをしてほぼ別居状態。
僕の存在というのは、多分、偶然出来てしまった、望まない子どもだったのだと思う。
彼らのことだから、僕を授かったことで、もしかしたらと、何かしら愛情が湧くことを期待して生んでみたが、別にそんなことは無く、ただ邪魔になったから物だけ与えて放置した。
そんなあたりの話だろう。
あり得もしない希望に縋ってしまうのは、親子の血かもしれない。
僕だって、彼女に──。
そこまで考えて、僕は首を振った。
余計なことは、考えるな。
彼女が何者だとか、僕が彼女に何をして欲しいかとか、今はもう解決しただろう。
彼女は病院暮らしだったから、世間を知らなかった。
僕は彼女に絵を描き続けてほしいから、ずっと隣に居続ける。
それで、いいじゃないか。
詭弁とわかっていても、僕はそれを唱え続ける。
不穏に空いた暗闇から目を逸らし続ける。
まるで、自分自身に魔法を掛けるように。
醒めてはいけない夢を見るように。
独りぼっちの部屋。
静かで暗い、僕の部屋。
だからこそ、声は酷く反響した。
開けっ放しだったカーテンを閉める。
快晴の夜空に、眩しい星がぽつりぽつりと瞬いていた。




