温度差
ようやく己の心を噛み砕き、飲み干したであろう少女が僕に問い掛ける。
「……ねえ、話通りなら、さ。
きみは、ずっとわたしの隣に居てくれるのかい?」
「……絶対、とは言えないな」
濡羽色が伏せられる。少し、答え方を間違ったかもしれない。
「それは、わたしと一緒に居ることが嫌だから?」
「いや、違う。
僕が先に……『遠く』に行ってしまう可能性を否定しきれないからだ」
ぱちり。そんな音が聞こえるほど、彼女の目は大きく見開かれた。
「……なら、そうならない限りは──」
「──一緒に居てやるよ。例え、どんなことがあったって」
未来はわからない。
どれだけ生にしがみつこうとも、死ぬときは死ぬ。
また、彼女が一人遺されてしまうこともあるだろう。
勿論、死ぬ気はない。彼女を死なせる気もない。
だからこれは、『もしも』の話でしかないのだ。
少女が、ずいと身体を乗り出した。
「本当に、本当かい? 命に誓って、約束するかい?」
「重すぎるだろ……まあ、同じものか。ああ、約束する」
息が当たるほど近い距離、僕らは小指を出し合った。
小指、約束。
これからすることは、古典的な契約方法だ。
「指切拳万、嘘吐いたら針千本飲ます。
指切った……って、今考えれば相当物騒だよね。
私はやるけど」
「今のは否定する流れだっただろ」
生涯を添い遂げるという、結婚によく似た契りを交わした後とは言えない軽さだ。
僕ららしいといえば、らしいのだが。
「約束を破らない限りは大丈夫なんだろう? 問題無いさ」
そう言って、僕の上で寛ぎ始める少女。
今までの不貞腐れ具合はどうした。
もう少しくらい、大人しくしてくれても良いんだが。
そんな不埒な考えをしていたせいか、忘れていてほしかった『罰ゲーム』を、彼女は思い出してしまった。
「そういえば……面白くなかったら、くすぐるって言ったよね?」
「……面白かっただろ」
「嬉しくはあったけれど、面白くはなかったかな。
ということで、覚悟しろ!」
「嘘だろ、おい!」
つうと、少女が僕の脇腹を指でなぞった。
夏服で薄着になっていたことで、なぞられた感覚が直に伝わる。
『くすぐり』というものを受けたことがない僕にとっては、それだけのことでも過剰に反応してしまうものだった。
自分でも聞いたことの無いような声を出した。
悲鳴と、笑い声が混じった声である。
その意味のわからなさに、ぞわぞわと肌が栗立つ。
感じたことのない感覚が腹の奥から湧き上がる。
このままじゃ、やばい。
身を捩って、そのおかしな感覚から逃げようとするが──。
「逃がすと思うかい?」
「……ですよね」
悲しいかな。
体勢と手の位置的に、僕は絶対彼女から逃げられないのである。
覆い被さるように捕らわれ、彼女の髪で視界が塞がれた。
今、僕が見えるのは、彼女の顔くらいだ。
そういえば、タカアシガニなどの一部の甲殻類のオスは、脚を檻のようにしてパートナーを閉じ込めるとか何とか言っていたな。
守るためだったか、独占するためだったか、理由は忘れてしまったが。
なんて、それた思考を引き戻すかのように、一際強くくすぐられる。
「他のこと考えている暇があるとでも?」
「……そろそろやめろよ、マジで。本当に、無理だから」
「あとちょっとだけ」
馬鹿か、君は。やめろって言ってるだろ。
そう言おうとしても、禄に呂律が回らなかった。
もしや、僕が知らないだけで、こういう拷問があるのかもしれない。
普通に苦しいし。
数分後、本当に意識が朦朧とするレベルでくすぐられた頃。
彼女は僕を解放した。
「ああ、楽しかった」
すっかり元気になった彼女は、にこにこ笑顔で乱れた髪を掻き上げる。
全く、あれほどめそめそしていた君はどこに行ったのだろう。
嬉しさと憎らしさと、あられもない姿を晒した羞恥心を隠すように、僕はまた彼女に軽口を叩く。
「満足したなら、ほら。さっさと降りろ。重いんだよ」
「失礼な、わたしは軽いんだよ?」
「それでも、重いものは重いんだ」
数か月前も同じやり取りをしたな。
歴史というのは繰り返すものらしいが、こうも短い期間で繰り返されていれば──。
「……何やってんだ、お前ら」
人間は愚かだ。本当に、本当に愚かだ。
過去に学ぶことが出来ずに、歴史を繰り返す。
わかりやすく言えば、『天丼ネタ』ということだ。
上から降ってきた声は、確かにあの時と同じ、低い男性の声。
ゆっくり顔を上げれば、そこに居たのは見覚えのある男性教師。
我らが美術部顧問、その人であった。
僕は大きく息を吸い込み、はっきりとその言葉を紡ぐ。
「……弁明を。先生、弁明をさせてください」
「……この状況で、弁明出来る言い訳があるのか?」
だが、彼の視線は僕らを哀れんでいた。
逡巡、天を仰ぐ。頭の中は真っ白であった。
「──僕は、身の潔白を訴えます」
「諦めんなよ……」
仕方ないだろう、何も考え付かなかったのだ。
これはもう、先生の良心を信じるしかない。
やましいことなんて、何一つとしてないわけであるし、未だに僕の上に乗り続けるこの馬鹿が、あの時のように余計なことを言わない限りは、先生だって僕のことを信じてくれるはずだ。
だから、余計なこと言うなよ、君。
僕は視線でそう訴えた。
「……なるほど。先生、わたしたちはお楽しみ中だったんです。邪魔しないで──」
僕は手刀を落とす、思いっ切り。
彼女の口を塞ぐために。
「『余計なこと言うな』って流れだったろうが!」
「何と。今のは『ボケろ』という流れではないのかい?」
そんなわけ無いだろ。
再三言うが馬鹿か、君は。
呆れるほど空気が読めない少女。
ある意味お約束の流れとするのは誠に遺憾ではあるが、彼女が空気を読むことを期待した僕も馬鹿だったのかもしれない。
馬鹿ばっか、というわけだ。
駄目だ、僕も彼女のボケの空気に呑まれている。
くだらないオヤジギャグが頭を過るくらいに。
混乱しっぱなしの脳味噌を落ち着けるため、僕は深く息を吸った。
「……まあ、大体事情は把握した。
どうせいつもの通りのおふざけの延長線なんだろ?」
「流石です。よく見てるね、先生」
「そりゃあな」
やっとのことで僕の上から退いた少女は、ソファに寄りかかりながら顧問と話し出した。
彼女が小柄で軽量だと言っても、やはり人間一人分は重い。
これでも、前よりは筋力が付いているはずなのだが。
曲げても力こぶ一つ出ない腕を眺めていると、騒がしい生徒諸君の声が聞こえてきた。
「……聞こえただろ。
皆が戻ってくる前に、お前は帰った方がいい。
見つかると面倒臭いからな」
「わかりました。……じゃあ、ここでお別れだな」
ぐっとソファを押した反動で立ち上がると、僕は少女に向き直る。
見上げた少女の目元は、少しだけ赤かった。
「寂しくて泣くなよ、あと体調には気を付けろ」
「泣かないよ、そこまで子どもじゃないさ。
……ご忠告ありがとう、善処するよ」
濁した答えを返す彼女に文句を言おうと思ったが、一層騒がしくなってきたため、喉元まで出かかったそれを押し留める。
パーテーションの裏に置いておいたリュックサックを肩に掛けると、僕は二人に振り返った。




