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鯨の歌、君の色彩  作者: 四ノ明朔
第二部【変奏曲/流れゆくとき、波風とともに】
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面倒臭い女の子は好きですか?

 建て付けの悪い引き戸を開き、僕は保健室に入る。

 油の臭いとは別の、つんとした臭いが鼻についた。

 消毒液の香りだ。


 怪我とも、病院とも縁のない僕には、それが何とも異様に感じられる。

 非日常感とも呼べるのだろう。

 別に、わくわくするとか、うきうきするとか、そういうことは全く無いのだが、心臓は少し早くなっていた。


 照明が点いていない室内は、慎重に歩かなければ、物に当たってしまいそうだ。

 ゆっくり、ゆっくりと歩を進める。


 パーテーションに隠れた奥部。

 出入り口に背を向けるように置かれたソファ。

 そこに腰掛けた少女は、僕の足音に肩を震わせた。



「何だよ。そんなに僕が怖いのか?」



 おどけながら、僕は彼女と目線を合わせる。

 今にも消えてしまいそうなほど縮こまった少女は、僕を見るなり顔をくしゃりと歪めた。



「……違う。

 きみがあんなにも楽しんでいた文化祭を壊してしまったことが、途轍もないほど悔しくてね」



 膝を抱え、それ以上僕に顔を見せようとしない。

 強情なところは、落ち込んでいても変わらないようだ。



「そんなことで悩んでるのか? くだらないな」

「くだらないとはなんだ、私だって悩んでいるんだぞ!」

「なら顔上げろよ」

「嫌だ。泣き顔晒して溜まるものか」



 『そういうとこだぞ』とは言わず、彼女の隣に腰を下ろす。

 見たところ、膝の絆創膏以外の傷は無かった。

 無事ではないが、怪我がなくて何よりだ。


 あの時、僕が間に合っていなければ。

 最悪の想定が、ずっと頭にこびりついている。

 老人の話を聞いたから、尚更だった。


 もし間に合わず、彼女が落ちて。

 そして、『死んで』しまったら。

 そう考えると、身が震えるどころではなかった。


 ああ、本当に間に合って良かった。

 彼女が死ななくて良かった。


 それを決して声には出さず、僕は彼女の理論を訂正する。



「僕は気にしてないからな。

 『君のせいで』なんて、一ミリたりとも思ってない」

「それでも、楽しかった思い出に影を差したのは変わらない。

 ……だから、本当にすまなかった」

「……そういうことは、顔を上げて言えっての」



 謝る少女の声は、掠れるほど震えていた。

 この調子では、しばらく泣き止みそうにない。


 静かに嗚咽する少女の背中を擦ろうと手を伸ばすが、思い止まる。

 よく共に過ごすとはいえ、こういうとき、軽々しく女性に触るのは、少々よろしくないのではないかという思考が頭を過ぎったのである。


 伸ばした手をゆっくりと引っ込め、下ろしたとき。

 少女が呟いた。



「……慰めてくれないのか」

「……ああ、もう。素直じゃないよな、君」



 『うるさい』と言葉では抵抗する彼女だが、身体は僕に寄り添っていた。

 そんな小動物じみた姿が、彼女の小柄さを引き立たせており、庇護欲を掻き立てられる。


 動物が好きだとか、子どもが好きだとか、特段そういったことはないのだが、人間の本能に訴えてくるような仕草だ。

 どうにかしてほしいと思う。

 父性も、母性も、僕にはないのだから。



「保健室の先生は?」

「後夜祭の方に行ったよ。

 キャンプファイヤーの監視らしい」

「……あのお祭り騒ぎじゃ、何やらかすかわからないからな」



 片付けの際に見た、騒ぎ具合。

 本祭が終わっても、未だ生徒たちの熱は留まりを知らない。

 寧ろ、達成感により上がっているようだった。


 抑える大人が居なければ、行くところまで行ってしまう。

 青春真っ盛りの高校生が、後夜祭というシチュエーションで、ブレーキを踏めるとは思わない。

 キャンプファイヤーもあるのだから、更に警戒を強めなければいけないのだろう。


 教師陣の苦労を偲び、心の中で合掌する。

 願わくば、何も事が起こりませんように。



「なら、しばらくは帰ってこないのか?」

「多分。芸もあるだろうからね」



 この学校の後夜祭は、有志がバンドやダンスで生徒たちを盛り上げるのが伝統になっている。

 校庭で行われるそれは、この保健室からは見ようがない。



「……行ってきなよ。

 今年の後夜祭は今年きり、次は無いんだから」

「言おうとした答えを先回りしやがって……」



 来年行けば良い。

 そう言おうとしたが、彼女は予測していたようだ。


 どうしたものかと悩んでいると、彼女は再び口を開く。



「わたしなんて放っておいてくれ。

 少し目眩がするだけなのだから、ここで休んでいればいい」



 吐き捨てるように言い放たれた言葉は、彼女が自棄になっていることを表していた。


 不貞腐れているな、こいつ。


 僕は困り果てた。

 人との交流を、ずっと蹴り飛ばして避けてきた僕には、慰め方というのがわからない。

 親しい者だって、全く居なかったせいか、慰められるという経験すらないのだ。


 そんな僕にこんな面倒臭い奴を慰めるなんて、到底出来やしない。

 出来ることと言えば、普段通りに接することくらいだ。



「いや、君。僕が人が多いところ嫌なの知ってるだろ」

「……そうだった。

 いやでも、きみは昨日『後夜祭で』と……ん?

 待ってくれ、そもそも何で昨日は一日中歩き回っていたんだ?

 人で溢れ返っているなんて、予想が付くはずだ。

 いつものきみなら、断固拒否するだろうに」



 気付きやがったか。

 僕は顔を逸し、無反応を貫く。

 それがどこかのツボを突いたのか、急に彼女は元気になって、僕に飛び掛かってきた。

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