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鯨の歌、君の色彩  作者: 四ノ明朔
第二部【変奏曲/流れゆくとき、波風とともに】
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偉大なる先人の教え

 それから、四時間後ほどだろうか。

 閉場時間である十五時が徐々に近付いているからか、客足は遠のいていた。

 

 売れたものは大体小さなもの。

 色紙は一枚を残して全て売れ、先輩たちが作った小物や写真集などに至っては完売である。

 服装や態度を見るに、身内が情けで買ったわけではなく、作品に一目惚れして買った者ばかりだった。


 対して、大型のキャンバスなどは基本売れ残っている。持ち帰る方法も無いし、他と比べて値段が高い。

 手を出しにくいのだろう。

 唯一、部長の絵を買った者が一人居たくらいだ。


 現在、共に働いていた少女は休憩を取っており、ここには居ない。

 だが、あと数分も経てば戻ってくるはずだ。

 変なトラブルに巻き込まれていなければ、だが。


 この後、スムーズに片付けられるよう帳簿の整理をしておくか。

 そして、代金の計算と、記録との差異を確認し始めた頃だった。

 


「まだ、やっているかね?」

「……はい、あと三十分くらいは」



 スーツを身に纏った中年の男性が、展覧会を訪れた。

 この時間に人が来るなんて思っていなかった僕は、少し吃りながら返事を返す。



「おお、良かった。間に合わなかったかと心配でね」



 立派な髭を擦り、彼はゆっくりと作品を眺め始めた。

 脚が悪いのか杖を付き、目を細める様はどこから見ても平凡な男性だ。

 しかし、僕は、彼の異様な雰囲気を感じ取っていた。


 会場の半分を回った頃だろうか。

 彼は、僕に声を掛けた。



「つかぬことを聞くが……この絵はきみが描いたのかい?」

「いえ、僕はただの手伝いなので、絵は描いていません」

「では、きみの友人かい?」

「……まあ、はい。そうですね」



 彼女を友人と称すのは違う気もしたが、言い換えられることが出来なかったので、素直に肯定する。

 すると、男性は顎髭を擦り、ぽつりと呟いた。



「……そうか、残念だ」

「残念、ですか?」



 彼の言葉が気になって、僕は追求してしまう。

 が、出しゃばりすぎたかと慌てて口を塞いだ。



「おや、良いんだよ。気になるのは当たり前だ」

「……すみません、ありがとうございます。

 それで、残念というのは……?」



 薄く笑って目を細めた男性は、側にあるあの少女の作品を見上げながらわけを話した。



「芸術家にはな、大なり小なり『才能』というものがあるんだよ」



 さいのう、才能。

 何故か上手く脳内変換されなかったその言葉を、噛みしめるように呟いた。



「そう、才能。

 それは生まれつきで決まるものでね。

 どう努力しても手に入れられないものなんだ。

 『神様の贈り物』なんて言う奴もいる」



 そうして、彼は深く息を吸い込み、吐き出すように言葉を紡ぐ。



「……けれど、酷いことに、才能ある人間というのは、『早死』するのものだ。

 芸術家として、ね」



 皺の目立つ指が、彼自身の右手を指し示す。

 それは、杖を握っていた。



「わたしの指はね、もうまともに動かないんだ。

 絵に夢中になっているうちに身体を壊して……治らなくなってしまったんだよ」

「それは……その、大変ですね」

「そうだね、大変だったとも。

 ものを握るだけでも精一杯、絵を描くなんて到底出来やしない」



 杖を左手に持ち変えると、僕の目の前で彼は右手を動かした。

 そのぎこちない動きは、彼の絶望の過去が示唆されていた。



「遠回りに自分に才能があると言っているようなものだが……わたしにはあったよ。

 多くの人から褒め称えられ、賞賛され、持ち上げられるくらい。

 夢みたいな心地だった」



 けれど、と言葉は続く。



「夢は長くは続かなかった。

 期待に応えるために、寝食忘れて取り組み続けて十数年。

 わたしは遂に倒れてしまったんだ」

「そのとき、ですか」

「ああ、『半身麻痺』というやつだ。

 階段から落ちてしまってね」



 語られた、男性の半生。

 ちょっとした失敗談。

 暗いその話題に、僕は無意識に俯いていた。


 しかし、彼は何故その話をしたのだろうか。

 僕は絵描きでなければ、芸術家を目指しているわけでもない。

 働き方として参考には出来ても、反面教師にはできないのだ。


 不思議に思っていれば、彼は眉を下げて、悲しげな顔をする。



「……そうだな、少し難しかったかもしれない。率直に言うとね」



 ──この絵を描いた子は、わたしと同類だということを伝えたかったんだ。


 何気なく、僕は顔を上げた。

 その作品を見ようと意識したわけではない。

 ただ、顔を上げただけなのだ。

 しかし、それを一目見るだけで、僕の視線はそれに釘付けになってしまった。


 綺麗だとか、美しいとか、そんな次元の話ではない。

 そのような生易しい言葉で形容していいものではない。

 けれど、敢えて例えるなら、それは──『畏れ』だった。


 巨大なキャンパスの上部。

 大きな翼のような鰭を持つ鯨、座頭鯨(ざとうくじら)が宙を飛んでいる。

 身体を大きく翻して、捻るように。


 それが飛び出したであろう海面は、激しい水飛沫が散り──いや、違う。

 これは海ではない。

 宇宙(そら)だ、この鯨は文字通り宇宙を飛んでいるのだ。


 水飛沫と泡だと思っていた粒は、一つ一つが星であった。

 中央下部に浮かぶ大きな星型八面体から、飛び散るように輝く幾千の星々。

 恒星自体の温度で変わる色は、まるで完璧かと思うようなバランスで配置されている。


 『神秘』という言葉を象徴したその絵画の煌めきは、僕の目を焼くには強すぎる光だった。


 これが、人の手で描けるものなのだろうか。

 ずっと見ていたはずだったのに、見れていなかった彼女の絵。

 それを正しく認識してしまった瞬間、僕の目は眩んでしまった。


 けれど、頭の中には彼が放った言葉が残っている。



「……同類って、どういうことですか」

「そのままの意味だよ。

 その子は、私とよく似ているんだ。

 生命を削って、作品に捧げる。

 恐らく、このまま行けば、わたしと同じ道を辿るだろう」



 絶句。今の僕を表すならば、その一言に尽きる。

 同類、同じ道を辿る。

 それはつまり、彼女は彼と同じように、芸術家として『死ぬ』ということか。


 理解するまでの時間は、さほど掛からなかった。

 しかし、受け止められるかは別だった。



「そんな、わけ……」

「冗談だと思うなら、それはそれでいい。

 運命は自ら選び取るものだからね。

 信じる、信じないはきみの自由さ」



 ぐっと、僕は身に付けたエプロンの裾を握る。

 そんなことがあり得るわけがない。

 そう否定したいが、目の前に実例がある以上、すべてを否定するなんてことは出来なかった。


 『死ぬ』。少女が、芸術家として死ぬ。

 経緯はどうであれ、彼女は絵を描く力を失う。

 それは、僕にとっても絶望であった。



「……どうすれば、死なずに済むんですか」

「方法があると思うかね?」

「無いなら、僕にこの話はしないでしょう」



 それもそうだと男性は笑う。

 彼が僕に話し掛けてきた時点で、彼の心づもりは決まっていたのだろう。



「簡単なことだよ。

 きみがずっと、その子を支えて、助けてあげればいいんだ」

「それだけですか? 他に何か特別なことは……」



 首を振った男性は、懐かしむように目を伏せた。



「わたしにはね、掛け替えの無い友が居たんだ。

 わたしが無茶をすれば止めて、頑張るときには応援してくれて。

 ずっと、一緒にいてくれるような男が。

 ……けれど、十年くらい前かな。

 ひょんなことで『疎遠』になってしまってね。

 そこから、わたしはおかしくなってしまったんだ。

 彼が居れば、わたしはずっと生きていられたはず……そう思うばかりだったよ」



 その『疎遠』という言葉に、普通とは違う意味が込められていることに気付く。

 予想が正しければ、彼の友人は──。

 

 野暮なことを言わないように、僕はずっと口を噤んでいた。



「……そろそろ、わたしは帰るよ。

 最後に、この色紙を貰えるかな」

「はい、三百円丁度お預かりしました。

 ……どうぞ、大切にしてあげてください」



 残っていた、最後の一枚。

 それは、あの少女が描いたものだ。


 揺蕩う海月、色は空色。

 端には、彼女の名が刻まれていた。



「……そうかい、その子によろしく頼むよ。

 くれぐれも、同じ轍を踏むなとね」

「ええ。勿論、伝えておきます」



 彼は、あの巨大なキャンバスの端に刻まれたサインと、色紙のサインが同じであると気付いただろうか。

 群青色のスーツに包まれた背に、そう問い掛ける気にはならなかった。

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