Q:『死』とは何か、自分の考えを述べよ。
『死』とは、何だろうか。
一般的には、『呼吸停止』、『心拍停止』、『瞳孔散大及び対光反射消失』という三徴候を医師が確認し、いずれも該当する場合に『死亡』と宣告される。
分かりやすく言えば、呼吸と血液循環が完全に停止し、加えて脳の全機能も停止。
瞳孔が開き、どれだけ光刺激を与えても小さくならない。即ち、蘇生不能な状態に陥り、かつその状態が持続したとき。
それこそが『死』ということだ。
尚、呼吸と血液循環は人工的に保たれているが、脳機能が停止している場合は『脳死』と見なされ、これもまた蘇生が見込めなければ『死亡』となる。
これらの状態となって初めて生体移植ではない、臓器提供が出来るようになるのだが──これは、余計な話だろう。
しかし、これらは法律上、もしくは医学上の『死』の定義に過ぎない。
道行く人に聞けば、また違った結果が得られるだろう。
『心臓が止まったとき』と言う人も居れば、『自分が自分でなくなったとき』と言う人も居て、更には『皆から忘れ去られたとき』、『物事が終わったとき』と言う人も居る。
彼ら、または彼女らは、『死』という概念を理解していないわけじゃない。
自分なりに理解し、出した結論がこれらというだけだ。
そもそも、法律上・医学上の『死』の定義なんて、お偉いさんたちが大多数の人間に当てはまるように、型を造っただけに過ぎない。
ある物事の判断をするための、ただの『ルール』なのだ。
社会として存続するために、明確にしておかなければならなかった基準。
そうしなければ、存在を保てないもの。だからこそ、人間は『死』を認識する。
ああ、いや。
別にそんじょそこらの犬や猫が死を認識しない、なんて言うつもりはない。
多少知性がある生き物ならば、相応に心は育つ。
そうすれば、死を認識することは造作もない。
けれど、それらが認識する死と、人間が認識する『死』は、本当に同一のものなのだろうか。
人間は少なからず、『死』に意味を見出す。
宗教関連であれば、神道では忌み嫌われるものであり、『穢れ』とするのに対し、キリスト教では『召天』とされ、神のもとへ召されて最後の審判を受け、復活の日まで天国で過ごすこととする。
表現として死を扱うのであれば、対象が『終わる』ことを表す。
そう考えれば、面白いだろう。
ただ命が終わるだけだというのに、そこに神や自然を想像し、敬い恐れるのだ。
ただ終わるだけだというのに、『死』なんて大仰な言葉を使うのだ。
獣やそれに準ずるものでは不可能な、『人間』であるからこそ生み出される営み。
それこそが、『死』の定義である。人間とは、『死』をもって存在が織り成されるものである。
つまり、『死』とは『人間』そのものなのだ。
──と、ぐだぐだと理論を並べたが、別にこれも一個人の思想に過ぎない。
『そうかもしれない』と肯定することも、『そんなわけない』と否定するのも構わないのだ。
思想というものは、経験によって左右される。
例えば、夫婦円満かつ経済も安定し、治安も良い家庭に生まれた子供──便宜上、Aとする──と、親も居なければ金も無く、治安の悪い貧民窟で過ごす子供──これもまた便宜上、Bとする──では、思考回路に差異が生じる。
Aは育て方にもよるだろうが、人の善性を信じ、勧善懲悪的な正義の人間となるだろう。
それに対し、Bは人の善性を信じられず、善も悪も嫌う非正義的な人間となるだろう。
ここでの要点は、Bは決して『悪』ではないということだ。
よく『正義の反対は悪』と言うだろうが、それは間違いだ。
正義の反対は正義であるし、悪の反対は善である。
言葉の意味を調べればわかることだが、正義とは『人間行為の正しさ』だ。
そこに善悪は存在しない。
善でも悪でも、己が正しいと思えばそれは正義なのだ。
そうすれば、AとBの違いも自ずとわかることだろう。
Aは『己も他人も信じられる者』で、Bは『己も他人も信じられない者』。
ここまで来れば、経験により思考回路に差異が生じるという点について、納得してくれるはずだ。
けれど、皆は納得しないだろう。
何故ならば、これも一個人の思想で──と、話が堂々巡りしてしまうだろうか。
だから、この話はここで終わりにしよう。どんなことに対しても理論を並べてしまうのは、僕の悪癖なのだ。
このまま突き進んだとて、聞きたくもない持論を永遠と聞かせてしまうだけである。
いや、全く申し訳ない。
根っからの文系ではあるのだが、こういうところは理系らしいかもしれない。
おっと、これもまた余計な話だった。
溜息を吐き、息を吸い、そしてまた吐き出すように言う。
「結局のところ、君が知りたいのは僕が今ここから飛び降りるか、否かということだろ。
随分回りくどい聞き方だな」