理想的な生活を過ごすためにはとにかくやるっきゃない!
上司から怒られない日はない。
なぜこうも俺はミスばかり繰り返すんだろうか。もっとこうした方がよかった、ああした方が効率が良かった、と反省点は無限に沸いてくる。
上司に怒られるのが嫌なのではない。いや、嫌だけど。それよりも、しっかりとした一人前の大人になれていないことが嫌なのだ。
俺にはもっと合った仕事があるんじゃないだろうか。もっと、毎日が刺激的な楽しい仕事が。
「ん?」
そんなことを考えていると、どうやら降り過ごしたようだ。
知らない駅に着いた。
というか何駅通ったんだ。こんな駅見たことないぞ。
窓の外には街が広がり、さらに向こうには海が広がっている。湖かもしれない。向こう岸が見えないからやっぱり海だろう。
「まもなく扉が閉まります」
アナウンスが流れた。
俺は慌てて電車から出た。これ以上先に進んだら終電を逃して帰れなくなってしまう。
ホームは綺麗だった。清掃が行き届いているとかではなくて、純粋に建造物としてだ。
こじんまりとしているホームだ。
白いレンガを積み合わせてできた床や壁。白い木材を使ってできた待合室や屋根。脇に生えた新緑の植物はいいアクセントになっている。あれも入念に手入れされているようだ。
俺は反対側のホームに向かうことにした。
階段を降りて、通路を歩いた。ちょうど線路の下にあたる場所だ。でも不思議なことにそこは吹き抜けになっていて、外の景色を一望できるようになっていた。
「やっべえな」
めちゃくちゃ綺麗だ。
建物が全体的に白い。ギリシャのサントリーニ島みたいだ。日本にこんな場所があったとは。全く知らなかった。可能ならこんな街に住んでみたい。
反対側のホームに上って、俺は時刻表を見た。
「一時間……!?」
どうやらつい二分前に行ってしまったようだ。電車がすれ違った記憶はないが。まあ何駅も降りるのを逃したくらいだし気づかないか。
そういうわけで、次の電車まで相当待たないといけない。
「まじかよ」
てか、この町明るくね。晴天じゃん。夜九時だぞ。今は。どうなってんだ。
まあいいや。
見た限り、駅員さんはここには駐在していないようだ。ホームにも誰一人いないし―――っているじゃん。
反対側だ。俺の気づかないうちに誰かいたらしい。
「おーい! そこのあんた!」
向こうも気が付いたようだ。
女だった。ショートカットだからわかりにくかったが、顔を見て確信した。白いシャツに、ロールアップされた青色のホットパンツを着用している。
彼女は手でちょいちょいとした。俺にこっちに来いと言っているようだ。遮る物もないしちょっと声を出してくれればいいんだが。
だが話を聞きたいのは俺の方だ。文句は言っていられない。時間はあるし。
俺は再び反対側のホームに向かった。
「よおあんた。ここってあんま電車こないのか?」
女は俺を一瞥した。どこかで見たことがある顔だと思った。
「まあな」
それだけかよ。
「つかここって何線? JR? 近鉄?」
俺が乗っていたのはJRだったが、こんな駅があるとは思えない。かなり間抜けな質問だが聞かずにはいられなかった。
「そういうのはない」
「え?」
「どっちでもいいだろ。それより、あんたこんなところじゃなくて街を見てきたらどうだ」
「街を?」
「ああ。どうせ時間はあるだろ。行ってこいよ」
「まあ、そうだな」
次の電車が来るまであと五十七分だ。たっぷりと時間がある。
「そんじゃ行ってくる」
「ああ、でも戻ってくるかはどっちでもいい。お前が決めろよ」
「そりゃ戻るだろ」
何言ってんだ。こいつは。美人だけど。口調はちょっと怖いし。さっさと行こう。
俺は彼女から離れてホームから出ることにした。
「ってあれ」
改札がない。
これはおかしい。駅員がいないのとはレベルが違う。改札がない駅など「無賃乗車で結構です」と言っているような物じゃないか。
……ま、いっか。そのまま出よう。
そうして俺は駅を出た。
「おお」
街は想像以上だった。
地面に立った瞬間からわかった。匂いが違う。この海辺特有の潮の香り。これに真夏のような太陽の日差しが混ざり、からっとした心地よさを感じさせる。
「あっはっはは!」
「こっちこっち!」
「待てって……絶対捕まえる!」
子供たちが半袖半ズボンにサンダルの姿で駆け回っている。
「よお今日は大量だぜ!」
「うちも大繁盛だったぜ!」
「それじゃあ今日は飲みまくろうぜ!」
漁師らしき男と料理屋らしき男が肩を組んでいる。
向こうでは少女がイヤホンを耳にはめて踊っている。あっちでは笑顔で畑を耕すおばちゃんがいる。
Orangestarの『快晴』みたいな街だ。こういう街、めちゃくちゃ好きなんだよなあ。
こんな街で毎日釣りでもしながら、仲間たちと暮らしたりできたら最高だろうな。
「おい、お前さん」
呼びかけられた。
振り返ると、サングラスをした若々しい爺さんが柵にもたれかかっていた。
「なんですか?」
「釣り、やってくかい」
爺さんはサングラスを親指で上げた。爺さんの目はギラリとしていて少し危なげな感じがしたが、二ッと笑った顔を見て不安な感情は消し飛んだ。
「はい。ぜひ!」
俺は爺さんについていった。案内されたのは桟橋だ。そこに二人分の釣りの道具一式が揃えてあった。
「いいか。釣りってのはひたすら待つんだ。魚と自分との忍耐勝負。先に根を上げた方の負けだ。ただそれだけだ。どうだ。簡単だろう?」
「任せてくださいよ! 忍耐力は誰よりも自信があります!」
「その意気だ!」
と盛り上がったはいいものの、釣りというのは本当に待つしかやることがない。ただひたすら、待つ。
カモメの鳴き声を聞きながら。海の波を眺めながら。風の匂いを感じながら。
「来たあ!」
待ってからどれぐらいたったっけ。
俺の竿に反応があった。
「やったな! 引け引け!」
「うおおおおおお!」
俺は全力で竿を引っ張った。リールなんて上等なものはない。竿と糸と針と餌だけのシンプルな竿だ。竿って二回言ったけど、気にしない。今は竿に集中だ。
「もう少しだ! 見えてるぞ!」
「おっりゃああああ!」
ザバアと水が跳ねる音を聞いた。
一気に腕が軽くなった。軽くなったと言っても釣れた魚の分は重量があるので結構重い。重いということは、魚も大きいということだ。
「やったなお前さん! 全長一メートルのアトランティックスターゲイザーだ!」
「あと……ってなんだそれ! まあいいや! 初めて釣れたぜひゃっほう!」
「さあどんどん釣るぞ!」
「行きましょう!」
◆ ◆ ◆
結局、俺は魚を一匹しか釣れなかった。最初のアトランティックスターゲイザーだけだ。俺はなんでこんなにうまくできないんだろう。
やりたかった釣りでもこんなもんなのか。まったく反吐が出る。
「お前さん、今日は最高だったぜ」
「何言ってるんですか。一匹しか釣れてないじゃないですか。爺さんは十匹も釣れてるのに……」
「馬鹿もん。だからそれはたまたまだと言っただろうが。試しに場所を交代してみたり、竿を交換したりもしただろう」
「そうですけどー。やっぱり俺には向いてないのかな」
仕事だってそうだ。毎日事務作業ばかりで頭がおかしくなりそうだ。もっと人と関わる仕事がしたい。もっと凄いと思えるようなことをしたい。
「そう気を落とすな。今日うまくいかなかったことは、明日できればいい。明日できなければ、明後日だ。それでもできなければそのうちできるまでやる。毎日の積み重ねが大事なんだ」
「積み重ね」
「そうだ。なんだったらすぐにでもやってみるか」
「え? それって―――」
◆ ◆ ◆
目が覚めたらベッドにいた。飛び上がって、外に出た。ああ、やっぱり空気感が違う。この海辺特有の照りつくような、それでいてあっさりとした暑さはとても心地がいい。
鬼ごっこをしている子供たちがいて、肩を組みあうおっさんたちがいて、イヤホンをして踊っている少女がいて、笑顔で畑を耕すおばさんがいる。
「今日も釣り、やるかい」
ナイスな爺さんもいる
「もちろんです!」
桟橋での釣りは最高だった。なんと、今日は二匹も釣れた。昨日よりも一歩前進だ。
◆ ◆ ◆
目が覚めると、桟橋で竿を握っていた。隣にはナイスな爺さんがいた。
今日は七匹も釣れた。爺さんは五匹だった。初めて爺さんに勝った。
「中々やるな」
「明日も勝ちますよ!」
今日は素晴らしい日だった。
◆ ◆ ◆
目が覚めたら街のど真ん中に立っていた。おかしな状況だけれど、そういうこともあるのだろう。
「あっはははは!」
「こっちだよー!」
「一人残らず捕まえてやる!」
鬼ごっこをしている子供たちが通り過ぎた。
「今日はちょっとしか獲れなかったぜ。やれやれ」
「俺の方は大繁盛だ! ま、気にすんな! 飲もうぜ!」
「おうよ!」
おっさん二人が店の中に入っていった。
少女はイヤホンじゃなくて、スピーカーで音楽を鳴らしていた。彼女の前には彼女と同い年くらいの少年がいた。彼にダンスを見せるのだろう。
畑では野菜を収穫しているおばちゃんがいた。満足そうに野菜を眺めている。
「よお」
ナイスな爺さんは柵にもたれかかっていた。
サングラスを親指で上げて、ニカッと笑顔で俺を見た。
「釣り、今日もしようぜ」
「はい! もちろんです―――」
駆けようとした俺の腕を誰かが掴んだ。驚いて振り返った。
「あんた……」
ホームであった女だ。
やたら汗をかいている。何をそんなに急いでいるのだろうか。
「お前―――」
彼女は大きく息継ぎをした。
「本当に、いいんだな」
ドクン、と心臓が鳴った。
彼女のそのたった一言で自分が置かれている状況がなんとなくわかった。
ここは現実じゃないんだろう。どういう力が働いているかは不明だ。たぶん、このままここにいれば永遠にここの住人になることができる。
それはまさに最高だ。理想的だ。楽しいことばかりで、気のいい仲間と交流し、可愛い女子なんかもいたりする。何も悩みなんてないし、不安になることもない。
いつの間にか景色は一変していた。
街は薄暗く、建物は無機質な灰色に。空は真っ暗だ。さっきまで目の前にいた爺さんも消えてしまった。
確かに存在しているのは、俺と彼女だけだった。
「早く決めろ。あと一分しかない」
彼女が早口で言った。
なぜ彼女は俺を引き留めるのだろうか。理由はわからない。彼女がここの住人なのかも、わからない。
それでもわかることはある。
俺にはまだやりたいことがあるということだ。
「帰るよ。俺にはここにいる資格はない」
「よし。なら目を瞑れ」
俺は言われた通り、目を瞑った。
その時、少しだけど彼女の笑った顔が見えた。同時に思い出した。初恋の女の子だ。彼女はその初恋の女の子に似ていたのだ。
頭が揺さぶられるような感覚に襲われた。全身がジェットコースターに乗った時みたいな浮遊感に襲われた。
やがめそれは収まった。
地面に立っている感覚がした。風が吹いた。外にいるようだ。
俺はゆっくりと目を開いた。
会社だ。
俺は俺の勤めている会社の目の前に立っていた。
「なんだそりゃ」
俺はなんだかバカバカしくて笑ってしまった。
なぜだか妙に頭がすっきりする。もやもやしたものが全部吹き飛んだかのような、麻薬を吸ったらこんな感じなんだろうか。もしかして、さっきのは薬物による反応か。
それにしてはトリップし過ぎだ。
俺は会社に入った。
自分のデスクに向かうと、パワハラ上司と目が合った。
「お、ようやく来たな。ならさっさと顧客全員に電話だ。さっさと始めろ。一時間で終わらせろよ」
「課長」
「なんだ。お前のスマホはお前のデスクにおいてあるだろうが」
「会社辞めます」
「……は?」
スマホが床に落ちた。
「明日から来ません。今日ももう帰ります。有給と公休で一か月分はあるでしょう。では」
「ま、待て! 辞めるにしてももう少し手順が……!」
俺は待たなかった。
自分の中に疑問もあった。果たしてこれは正解なのだろうかと。
だが正解なんてものは存在しない。誰にとっても、いつ何時でも、どんな状況においても普遍的な正解なんてない。人生にマニュアルはないのだ。
だから、自分の中から湧き出る何かを信じて突き進まなければならない。
俺は何も待たない。
さて、これから死ぬほど大変だ。
こんにちは。奈宮伊呂波です。
Orangestarさんの傑作曲は「快晴」です。異論は認めません。