桜の美しさは儚さの中にある。
父親は、金銭を稼ぐ為に慣れない肉体労働をしていた筈だったのだが、何時からか帰宅する時には桜の香りを纏うようになっていた。きっと香水と石鹸の香りだったのだろう。
家では使ってはいない香水と石鹸の香り。
要するに父親は…。
帰宅する前に、何処かで身体を洗っていたと云う事になる。
母親も薄々、気付いていたのだろう。
ある日の事だ。
私が家に帰ると、両親の争う声が聞こえた。私は扉の隙間からその光景を眺めていた。両親の会話から察するに、どうやら父親が結婚指輪を無くしたのが原因のようだった。母親が問い詰め、父親は無言で聞いている。幾ばくかの時が流れると、黙り込んでいた父親の身体が、ブルブルと羽音を奏でる蟲の様に小刻みに震えていった。その震えが止まるのと同時に、それまでの温厚だった父親からは想像すらしたことのない言葉が吐かれた。
「五月蝿い。蛆虫が、人様に口答えをするな…。」
そういった父親の眼は蟲の眼の様に見えた。そうだ。昆虫の眼だ。何処を見ているのか分からず、そして全てを見ている様な、夜の闇を投影し艶の無い漆黒に染まった蟲の複眼の様な、そんな眼だったのだ。
あぁ。そうだ…。
現在、私の眼前にいる男性も同じだ。
生物なのに無機質に感じる蟲と同じなのだ。
それから父親は母親に暴言を吐きながら、暴力を振るったのだった。拳で殴り、足で蹴る。足で蹴っては、拳で殴った。顔を殴り倒れたところ腹を蹴飛ばす。抵抗しないと判断した父親は、馬乗りになり手の平で何度も何度も打った。右の頬を、左の頬を。
「家族の為に天国の場所を探してるのに…。何でだよ。何で邪魔するんだよ。」
母親が意識を失うと同時に…。
父親はポツリとそう言葉を漏らした。
蟲の複眼で何処か彼方を見つめながら、意味不明の言葉を呟いている。私はその光景を自分でも驚く程、冷静に眺めていた。母親に暴力を振るう父親が獲物を捕食する蟲に見えたのだ。私の内で父親は酷く穢れた存在になってしまった。
母親といえば…。
意識を失って、その身体をピクピクと痙攣させている。その姿は惨めで滑稽だった。そんな母親の姿でさえ、私の瞳には蠢く蟲にしか見えなかったのだ。そう。色白で綺麗な肌をしていた母親が、私には蛆虫に見えてしまったのだ。そう思えた時から…。私の内で、母親も酷く穢れた存在になった。
私は…。
【正論を語っても暴力の前には何の意味も成さない】のだとー。
その時、初めて理解した。