2話 新宿駅地下ダンジョン
「さーて、キリキリ吐いてもらおうかしらね」
そう笑顔で話すのは、人蜘蛛の女性。
絶世の、とそんな形容詞を付けても誰も文句をいわないであろう美貌。
年齢は姉さんと同じくらい……おそらく20代の半ばだろう。
艶やかな黒髪をポニーテールにまとめたその姿は、憎らしいくらいに美しかった。
「うるせーよ、つか、誰だよアンタ」
「おぅ、いいのかな?そんな生意気な口をきいて」
そんな言葉を言うが早いか、絡みついていた糸が意志を持つかのようにうねり、僕の体をさらに強く拘束する。
蜘蛛の糸は粘性のある横糸と粘性のない縦糸が存在すると聞いたが、僕の体を捉えているのは粘性のない縦糸だろう。
しかし、何本もの糸がより合わさり、縄のようになっている蜘蛛糸を切るのは容易ではない。
「ぐ……が、あ、くッ!」
肋骨の付近を圧迫され、満足な呼吸ができない。
無理に呼吸をしようとすれば、僕の体を拘束する糸が肋骨を砕くだろう。
『……殺せ』
心の奥からそんな意志が流れ込むが、ろくに身動きも取れない状況ではなにをすることも出来ない。
……いや、これは、意志が弱くなっているのか?
そんな風に戸惑う僕の姿を彼女はじっくりを観察しーー
「ふーむ、ってか君、なかなか可愛い顔をしてるじゃない……詳しい話を聞く前にちょっと味見をさせてもらおうかしら」
じゅるり、と舌なめずりをして、捕食者の目で僕を見る彼女。
その視線に思わず、
「名前は山岸庸次、十五歳!T大付属高校の一年で登山部に所属!住所は東京都S区○○町のーー」
と、個人情報から今までの経緯にいたるまで、洗いざらい話してしまっていたのだった。
「ほうほう、なるほどねー」
僕の話を聞き終わり、そんな緊張感のない声で感想を述べる彼女。
しかしその表情は固く、ずいぶんと想定外の事が起こっているのだろうと思われた。
そして、僕の中の意志が弱くなっている理由が判明した。
彼女は強い。それも桁違いに。
今まで絶え間なく現れていた巨大な動物や昆虫。
それらが彼女と話している時は一匹たりとて現れなかった。
最初は、あれらが脅えているのかと思った。
しかしあの謎の飲み物を飲み、鋭敏となった僕の耳には遥か彼方でなにか固いものが砕ける音が聞こえていたのである。
距離としては数百メートルから数キロ。いまの僕らがいる場所を中心に、半径数キロ範囲内ですべての化け物が彼女の糸に拘束され、全身の骨を砕かれて殺されているのだ。
そんな彼女の実力を意志は理解しているのだろう。
殺しに行ったとしても、一瞬で返り討ちにあう事が確実な相手に殺意を向けるような狂犬ではないという事だ。
「で、そっちの美少女はーー話せる状況じゃないか」
人蜘蛛の美女は、ちらりと僕の横で転がる少女に視線を向ける。
そちらの彼女は僕と違い、いまもなお暴れ続けている。
糸にくるまれたその姿は、もはや人間サイズの繭玉に近い。
「そうだね、じゃああたしらのベースキャンプで腰を落ち着けて話そうか。君たちを汚染してる瘴気を浄化するための薬もまだあるはずだし」
瘴気?この意思のことか?
わからない。いまのこの状況も、ここがどこなのかも、彼女がいったい誰なのかも。
ただ一つわかっているのは、僕の命は人蜘蛛の美女が握っているという事。
僕はその事実に恐怖と悔しさを覚えながら、彼女に抱えられて運ばれていくのであった。
「ただいまー!」
明るく元気で能天気な声がビルに響く。
無人の新宿、その西口は超高層ビルの一つに入っていった彼女の第一声である。
……空気が違う?
ビルの中に入って初めて気づく。今までの駅構内、地下通路、そして街中。これらではねっとりと肌にまとわりつくような悪意に満ちていたことに。
このビルの中にはそれがない。ほんのつい数時間前まで、僕が暮らしていた街と同じように、いやそれ以上に清浄な空気が流れていた。
「おかえりー、話は聞いたわよ。準備はできてる、早速始めるわね」
そして人蜘蛛の美女を出迎えたのは一人の女性。
白衣を身に纏い、波打った栗色の髪の美女であり、彼女もまた紫色の宝珠を中心とした七色の首飾りを付けていた。
人蜘蛛の彼女も絶世の美女であったが、白衣の彼女もそれに劣らぬ美女である。
が、僕が一番安堵したのは、その容姿が紛れもなく見慣れた日本人のものであったからだ。
新宿のようで新宿でない、人間のようでどこかが違う。
そんな光景ばかり見続けた僕にとって、彼女の姿はとても心休まるものであった。
「うわ……これは見事に染み付いちゃってるわね」
とは、僕の姿を一瞥した白衣の女性の言葉。
「とりあえず神酒を使うけど、完全には浄化しきれないわよ」
「え゛?まぢ?美卯っちの神酒でも?」
「まじに。つーか、どーなってるのよ、この男の子?瘴気が肉体・精神・存在と完全に同化してるじゃん。ちょっとでも瘴気に抵抗力があればこんなんならないわよ?」
などと不安になる会話をしながら、彼女たちは僕たち二人を寝台に寝かせ、寝台ごと縛り上げる。
「んー、女の子の方はまだマシかな?精神と存在に傷が入った状態で、傷口に瘴気がこびりついてる感じか。
瘴気が接着剤になって精神と存在の崩壊を防いでるっぽいね。これで完全に瘴気を浄化したら崩壊が始まるから、完全には浄化しないでおくわね」
「まかせるー」
どこまでも軽い二人の会話。
だが、その内容はまったく訳が分からない。
神酒?瘴気?浄化?
いったい、何の話をしているのだろうか?
いや……それを言ったら、この状況が僕の理解をはるかに超えている。
無人の新宿駅。
見たこともないメーカーの、謎の飲み物。
その飲み物を飲んだ後の僕の変化。
延々と続く地下通路に、無人の街を徘徊する巨大な動物。
そして極めつけが目の前の森妖精の少女と人蜘蛛の美女。
どれ一つとして、漫画の中の出来事としか思えない。
これらを悪夢と思えたらどけだけ楽だろう。
しかし目の前の光景から感じる圧倒的な存在感が、紛れもない現実だと叫んでいた。
「はい、神酒を持って来たわよ。そっちの男の子はお願いね、この小瓶を丸々一本飲ませればいいから」
「らじゃ」
二人の美女はそんな会話をしながら、人蜘蛛の美女が栄養ドリンク程の小瓶を手に近づいてくる。
「はぁい、ぷりてぃぼーい。お薬の時間ですよー」
どこか嗜虐的な愉悦に満ちた顔でそんな事を言う。
正直に言って、かなり怖い。
「貴方には、黙秘する権利も拒否する権利も弁護士を呼ぶ権利もありません。ただ黙って神酒を飲んで、さっさと質問に答えてくださいねー」
いや、質問って、僕の事情はさっき全部話したーーわぶッ!
上半身を寝台から無理やり引きはがされ、流れるような手つきで鼻を塞がれる。
そして、思わず口を開いた瞬間に小瓶を口に突っ込まれた。
「うーん、惜しいなー。これで小瓶がもうちょっとエロい形をしてたら良かったんだけど」
「ちょっとー、汐織ー?そんな事ばかり言ってると、今度こそ児ポ法違反で捕まるわよ?」
「こんな奈落の超深層で、誰が通報するのよ?だいたいダンジョン内は治外法権よ?ちょっとくらい性癖に正直に生きたっていいじゃない」
「一応ダンジョンダイバーには、『安全が確保された場所においては、日本国本土の法律を順守するよう努力せねばならない』って決まりがあるんだけどね……」
なにを言っているのか、さっぱりわからない。
それでも小瓶の中身である、とろりとした甘い液体が僕の喉を下りていきーー
「え……?」
それまで僕の体を蝕んでいたナニカが、きれいさっぱり消え去った。
いや、完全にというわけではないか。
だがそれでも、五臓六腑を焼き続けた黒い炎も、胸の奥で叫び続けていた昏い意志も、無視できるほどに弱まっている。
「どう?ダンジョンダイバーの最高位である、紫玉級ダンジョンダイバーの一角、『仁術の申し子』『人間にして医神たるもの』薬師寺美卯が直々に作った神酒の効き目は?」
「え、あ、ありがとうございます……」
「うん、素直でよろしい」
そう笑顔で話す彼女の後ろでは、白衣の美女ーーおそらくは彼女が薬師寺美卯なのだろうーーが、森妖精の少女の具合を見ながら慎重に神酒を飲ませている。
「さあ、改めて自己紹介といきましょうか。あたしはこの新宿駅地下ダンジョン『奈落』の超深層探索パーティの一人、紫玉級ダンジョンダイバー、『神糸の紡ぎ手』『人間にして蜘蛛神たるもの』東雲汐織」
豊満な胸を張り、太陽のような輝きの笑顔で自らの名を名乗る。
「性癖はロリショタね、君とか、そこの森妖精みたいな子はストライクど真ん中!今も君のキノコや後ろの穴を狙ってるから、よろしくぅ!!」
……うん、ぞわりときた。
そして、不覚にもさっきの太陽のような笑顔に見とれてしまった事は、記憶の奥底に封印しておくことにしよう。