初恋 【月夜譚No.6】
彼から貰ったハンカチは、一度も使わないまま箪笥の中に眠っている。時折その抽斗を見遣っては思いを馳せる。今頃彼はどうしているだろうかと。
あの日、放課後の教室で泣いていた私に声をかけてくれたのが彼だった。彼とはクラスが違い、顔を見たことくらいはあるが挨拶すら交わしたこともない関係だ。最初は怪訝に思ったものだ。だから私は彼を無視して泣き続けた。しかし彼は最初の一言以降は無言のまま、ただ私の傍に立っていた。
やがて彼の気配も空気に溶け込んで気にならなくなる頃になると、泣き疲れて涙も目元に留まる程度になった。それを待っていたかのように、彼は私の机の端にハンカチを置いた。
『返さなくていいから』
それだけ言って、彼は教室を出ていった。残された私は几帳面に折り畳んだハンカチを手に取って思わずぷっと噴き出した。どうせなら、もっと早く出してくれれば良いものを。しかし、お陰で涙はすっかり引っ込んだ。私は使う必要のなくなったハンカチを鞄に仕舞って家路についた。
あの日から彼は一度も私に声をかけないし、私からも声をかけることはなかった。しかし彼の姿を見かける度、私の心はざわついた。当時はそれが何なのか解らなかったが、今にして思うと初恋だったのだろうと思う。
あの頃から数年が経つが、卒業式以来彼の姿を見ることもなくなった。今は捨てられないハンカチと淡く残った想いだけが、宙に浮いたように存在し続けている。
それが恥ずかしくもあり、少しばかりくすぐったい。この感覚はきっと一生私の中に居座るのだろう。何とはなしにそんなことを思った。