第17話 私たちの『ばいばい、ヒーロー』は、きっとこのアレンジが正しい
間奏に入ると、ギターソロが歌詞のない空白の時間を埋めていく。煌めく音が耳朶を打ち、私の体を心地よく震わせた。
背後で爆ぜるシンバルの音、そして激しく攻めるベースライン。すべてが融け合い、胸を灼く音楽が生まれる。
そして、曲はラストのサビへ。
「――――」
私は喉を震わせ、歌声を音楽室に響かせた。空を覆う闇を歌声で押し上げて、見えない星屑を捕まえるようなイメージ。排気ガスで汚れた、都会の空なんて。今にも泣きだしそうな、灰色の空なんて。ロックで歌姫な私は知らない。歌は、音楽は、分厚い雲さえ貫いて届く。どこにでも、だ。たとえ、それが目に見えない星であっても。
この曲――『ばいばい、ヒーロー』は別れの曲だ。自分の人生を変えてくれた大切な人との別れの曲。胸がきゅっと締めつけられるような歌詞がずらっと並んでいる。
でも私、辛気臭いのは嫌だから。
絶望の闇の中に、希望の光を混ぜて歌うよ。ここからでは見えない星に、私のファルセットが届くように。
これでいい。
私たちの『ばいばい、ヒーロー』は、きっとこのアレンジが正しい。
曲が終わり、額の汗を手で拭った。
「気合入ってるなぁ、綾ちゃん」
演奏を終えた大輔くんの第一声がそれだった。
私は振り返って胸を張る。
「ええ。だって、文化祭はもうすぐよ? 気合入って当然!」
「だな。静香も完璧だったぞ」
「あ、ありがと……えへへ」
照れくさそうに笑い、頬を指でかく静香ちゃん。可愛いなぁ、静香ちゃんは。許されるなら毎日ぎゅーってしたいくらい。
ここ最近、怖いくらいに充実している。
文化祭まで順調すぎるくらいにことは進んでいた。みんな、すごく調子いい。あとはもう本番で力いっぱい暴れるだけ。
だけど……抜群のコンディションとは裏腹に、永遠に時間が止まっちゃえばいいだなんて思っている自分がいる。
願うことなら、この楽しい時間が永遠に続けばいい……そんないけない妄想が脳裏をよぎる。
……だめだよ。
弱気になるな、ためらうな。
文化祭ライブは、絶対に成功させないといけないんだ。
「なぁ綾ちゃん。このまま文化祭ライブを迎えて本当にいいのか?」
私の気持ちを察したのか、大輔くんが遠慮がちに尋ねた。
「何を言っているの。いいに決まっているじゃない」
憂鬱をそっと心に隠して、笑顔で答えた。
「あ、綾ちゃん……」
「もう! 静香ちゃんまで泣きそうな顔しないの! ライブで手を抜いたりしたら承知しないから。貴志くんもそう思うでしょ?」
「綾の言うとおりだ。お前ら、全力で演奏しないと……お前らの黒歴史の数々を新聞部に売り飛ばすぜ?」
そう言って、貴志くんはクククと不気味な笑い声を漏らす。相変わらず、ふざけているときの彼は意味不明だ。ベースを弾いているときは、かっこいいんだけどなぁ。まぁ、その、ほんの少しだけだけどね。微々たるものってカンジ。本当よ?
私は呆れて肩をすくめてみせる。みんなはスベった貴志くんのほうなど見向きもせず、ただただ物悲しい笑みを浮かべていた。
そうだ。笑わなきゃ。
絶望の中に、希望を見出さなきゃ。
そうしないと、私たちがバラバラになっちゃいそうで。
私たちは今日も大げさに笑うことで、自分たちをなんとか繋ぎ止めていた。
練習後、四人で帰るいつもの通学路。
大輔くんと静香ちゃんと別れて、私の家の近くにある喫茶店に入った。レジカウンターに行き、注文しようとすると、
「俺、綾のおごりでアイスコーヒーがいい」
隣で貴志くんがとんでもないことを口にした。やりたい放題ね、この男は……というか君、コーヒー飲めなくない?
「まぁいいけど……すみません。アイスコーヒー二杯ください。サイズはレギュラーで」
「え? あの……二杯ですね。五〇〇円です」
店員さんは私をチラチラ見つつ、コーヒーを用意した。
コーヒーを受け取り、二人席に移動する。鞄は床に置いた。
「いよいよ来週だな、文化祭」
へらへらと笑う貴志くん。私が見る限り、緊張感はまるでない。
「お気楽ね。悲しくないの?」
「悲しいとか、そんなこと言っている場合か。待ちに待った文化祭ライブだぜ? 楽しまないでどうするんだよ」
「それはそうだけど……」
おもわず目を伏せた。
貴志くんは今、何を思うのだろう。
文化祭までの時間、何を考えて過ごしているのだろう。
もしかして、緊張している……わけないわよね。この人、プレッシャーとか感じなさそうだし。
でもきっと、怖くないわけじゃないと思う。
「綾。辛気臭い顔するなよ。当日は笑顔で頼むぜ?」
「私は……」
言葉が喉に詰まる。
今度の文化祭ライブは、私たち軽音楽部にとって特別なライブだ。悔いの残らないように全力でやるべき。
頭ではわかっていても、そう簡単に割り切れない。
「綾。辛い思いをさせてごめん。それと……俺の願いを聞いてくれてありがとな」
貴志くんは泣きそうな顔で笑った。私の心の内を察して、無理して笑ってくれたのかもしれない。普段はデリカシーないくせに、こういうときだけ優しくしないで。ばか。
あーあ……私もばかだ。大輔くんたちの前では強がってみせたけど、未だに迷っている。
本当はライブなんてやりたくない。
文化祭当日なんて、永遠に来なければいい。
ねぇ。どれだけ背伸びしてみても、希望なんて見えないよ。歌うときだって、無理して希望を探すように歌うけど、音楽が途切れた今、私は目の前の絶望に押し潰されそうだ。
目頭が熱い。気が緩んだら涙が零れ落ちそう。絶対に泣くものか。
「綾……泣いているのか?」
貴志くんは心配そうに私の顔を覗き込む。出会った頃の騒がしかった彼は艶のある顔をしていたのに、今では土気色だった。
私は乱暴に目元を拭い、無理して笑った。
「泣くわけないじゃない。涙なんてとっくに枯れたわよ」
私は一度、死ぬほど泣いた。今さら泣いたりなんてするものか。
コーヒーを一口啜る。ちょっぴり苦い味が口内に広がっていく。
……一年前のあの日に飲んだコーヒーは、もう少し甘かった気がする。
過去に挟んだしおりをそっと取り除き、ほろ苦いコーヒーを飲み干した。
あの日、貴志くんは私の目の前で――。
◆
結局、俺は綾にシフォンケーキとカフェラテをご馳走することになった。小遣いはもう底を尽きかけていると説明したのだが、綾は「すみません。シフォンケーキとカフェラテと水をください」と勝手に注文した。俺の財布事情を少しは気にしろ。というか、なんで俺は水なんだよ。俺が慌ててアイスコーヒーを追加注文したとき、綾は声を上げて笑っていた。
一時間近く駄弁り、俺たちは席を立った。
喫茶店を出ると、辺りは薄暗くなっていた。いつの間にか曇天になっている。
「雨、降りそうね。天気予報が的中したみたい」
綾が空を見上げてそうつぶやいた。
「マジかよ。傘持ってないんだけど……」
「折りたたみ傘あるわよ。雨降ったら、私の傘に入る?」
それってつまり、相合傘?
綾と肩が触れ合う距離まで接近する……そ、それはちょっとな。そんなのまるで、イチャイチャしているカップルみたいじゃないか。付き合っていると誤解されるだけでも恥ずかしいのに、イチャイチャはマズいだろ。学校で噂になったら、社会的に死ぬぞ。
「貴志くん、顔が赤い。照れているの?」
「は、はぁ!? 照れてないから!」
「ふふっ。今日の貴志くん、可愛い」
「お前なぁ。ロックな俺に可愛いはないだろ……」
綾は「貴志くん、全然ロックじゃないわよ?」と笑った。俺がロックじゃないわけないだろ。はっ倒すぞ。
ここから綾の家まで徒歩五分。途中まで帰り道が一緒なので、俺たちは並んで歩いた。
綾の家に続くこの通りは閑散としていた。車のエンジン音や、前方の建設現場から金属音が聞こえる。駅前の喧騒も嫌いじゃないけど、たまには静かな街を散歩するというのも悪くない。
ふと隣を見ると、綾がニヤニヤしている。
「気でも触れたか……かわいそうに」
「貴志くんほどじゃないわよ」
なんで俺までかわいそうな人扱いなんだ。意味がわからない。
「何が面白くてニヤニヤしているんだ?」
「……大好きな歌が歌えるようになったからかしら」
綾は空を見上げつつ、話を続けた。
「美由と本音をぶつけ合って、自分の道が開けてから、毎日が楽しいわ。歌うのも楽しいし、軽音楽部のみんなと入部前よりずっと仲良しに慣れて嬉しいの。それもこれも、君が私を誘ってくれたおかげね。ありがとう、貴志くん」
「感謝しているのなら、今度喫茶店に行ったときにコーヒー奢ってくれよ」
「覚えていたらね」
この切り返し、絶対奢ってくれないパターンだ。
抗議しようと思ったが、綾が嬉しそうに話すものだから、自然と俺の頬も緩む。
「文化祭ライブ、最高のステージにしような」
「ええ。盛り上がるといいわね……」
綾の瞳はキラキラと輝いていた。未来に期待するその表情は、やけにまぶしく映る。
見惚れていると、
「うん? どうかした?」
綾が笑顔で俺の顔を覗き込む。ち、近いって。無防備に顔を近づけるなっての。
「貴志くん?」
綾の温かい吐息が鼻先にかかった。瞬間、顔が熱くなる。
「て、照れてないし!」
「え? いや、べつに誰もそんなこと言ってな――ってなんで逃げるのよ!」
照れ隠しに歩道を走る。胸の鼓動が速いのは走ったせいだ。
後ろから綾の「ふふっ、待ちなさいよぉ!」と弾んだ声が追いかけてくる。なんで楽しそうなんだよ。笑って追いかけてくるとか狂気の沙汰だろ――。
「危なぁぁいッ!」
空から唐突に降り注いだのは男の野太い咆哮。
見上げた瞬間、落下してきた数本の鉄柱が視界を覆い尽くす。
なす術なく、鉄柱の雨を浴びてその場に倒れ込む。経験したことのない痛みが全身を襲う。同時に金属同士がぶつかり合う甲高い音が聞こえる。
アスファルトを濡らす赤黒い血と喉の閉塞感は、死を思わせるには十分すぎた。
「ぁっ……」
駄目だ。全然声が出ない。手も折れている。これじゃあ、本番でベース弾けない。
いや……本番どころか、これもう駄目なんじゃないか?
なんだよ。こんなクソみたいな死に方ってないだろ。せめてトラックに轢かれそうな子どもを助けて死ぬくらいにはクールに決めたかった。こんなの、全然ロックじゃない。
文化祭、参加できなくなっちまった。
夢だったのになぁ。ライブやるの。
あー……すげぇ悔しい。
もしも必ず死ななきゃいけない運命なら、せめて文化祭まで待ってくれよ。
ステージの上で浴びてみたいんだ……観客の歓声と拍手の爆音を。
段々と視界が霞み、意識が徐々に遠退いていく。
最後に聞こえたのは俺の名前を叫ぶ声。
俺が、一耳惚れした声だった。