性別における自由
うーん、言いたい事を言うだけなのは簡単だけど、やっぱりまとめるのって難しい。
どうも宇佐見レーです。
最近はどうにも性別における自由が、女尊男卑的に扱われつつありますね。
もちろん男尊女卑を行うような人物というのは、さっさと自分の行いを悔いろ、と言いたいところでありますが。その逆もまた然り。
ただ、男女における能力の差はこの先も無くならないでしょう。
例えば「一般的な身体能力の男女」で五十キロの荷物をどこまで運べるか……答えは決して覆る事はありません、男性の方が女性よりも運べます。
では「男性が一般的な身体能力」で「女性が鍛える事による身体能力の向上」の場合は一体どうなるのか。
答えは覆るか、または同等の距離まで運ぶ事が可能になります。
さて多少違いはありますが、話を我々創作者風に変えてみましょう。
一年でデビューできる「才能」を持った方がいたとします。
けれど逆に十年かかってデビューできる方もいます。
この様に否応なく誰かとの差ができる。
「才能」に関しては一人一人の「個人の差」である訳ですが、これを「人間の種」という少々壮大な話に置き換えると「男女の性能別」になります。
これは変えられない事実であり、何も恥じることではありません。
努力さえすれば女性は男性との差を埋める事だってできます。
少し前の社会、女性は働かなくて良い、子育てさえすればいい……そう言われてきましたが、それはその言葉のみは別に男尊女卑ではありません。
性別による性能の違いにおける「役割分担」なのです。
男性のその恵まれた体躯は働く、または女性や子供を守る為にあるのです。
男性が女性には家を守ってほしいと思うこと、それは決して男尊女卑から来てる言葉ではなく「守りたい」が為に本能的にそう思うのです。
石器時代からそれが変わっていないのが、何よりの証拠でしょう。
女性はどうか、力は弱くともその身に子供を宿し、自身が子供が、決して命を落とさない様に脂肪を蓄え、子供を健やかに育て守る。
言わば男性が妻子を外敵から守る「壁」ならば、女性は子供を内で守り慈しむ最後の「砦」となる訳です。
もちろん、この考え方自体は時代錯誤も良いところですし、他にもっと良い考え方というのはあるでしょう。
今の時代、男性だって女性だってその役割をクロスで行う。
だというのに全く一つも変わらぬ同じ仕事で、女性の方が給料が少ない、なんてのもおかしいとは私自身も思います。
ですが女性と男性、その性別における差というものを、ジェンダーフリーという言葉を使い「公正」に扱われつつあった世の中を「平等」にしようとする輩が出てきました。
本当に必要なものは、平等ではなく公正であるにも関わらず、その上で「平等を大義名分に人に押し付けてくる」様にすらなった。
女性が得るべきものは、男性と同じ待遇では無い。
女性が得るべきものは、男性に追いつける待遇である。
しかもそれは、本人が欲しいかどうかという「意思」で決定するべきであって、周囲が決めるべきものでは一切ありません。
自身の努力で追いつけるのであれば、得る、という選択をわざわざ取る必要も無いかと思われますし。
今の世の中は「平等と公正」を履き違えてる方があまりにも多すぎる。
剰え、男性を卑下し始める方々もいるのですから。
真の平等を願うならば、女性だけの商品の値引きというのはおかしな話だとは思いませんか?
男性の方が給料が多い……段々と是正される中で、それでも女性のみ値引きなど「女尊男卑」以外の何者でもないじゃないですか?
男尊女卑、これを正当にきちんと公正さを訴える方もいます。それに納得が出来ないのは当たり前の話です。
けれど時間が経てば「女尊男卑」のような「男尊女卑」を掲げ、弱者になりすまし自分の意見を押し通そうとする輩がいるのです。
ただ、それらの意見をどこでどう言おうが自由です。
我々は自由の下で生まれ、自由な思想を掲げる事が出来る世界に生まれました。
自由です。
だがどんな思想思考に同意を示そうとも、それもまた自由であることには変わらない。
それは男女関係なく、公正さを選ぶことが出来る、性の自由でもある事を決して忘れないようにしましょう。
今回の題材は「性別における自由」でした。
これだけごちゃごちゃ書いておきながらまとめますと。
・男女における性能の差異は致し方無い。
・男尊女卑も女尊男卑も決して行ってはいけない事。
・我々には選択肢と選択する自由がある事。
大体こんなところでしょう。
ネットとかを見てますと平等と公正、男尊女卑と女尊男卑、自由を自分の意見を通す事でしか理解出来ていない方なんかが見えるもので、思った事を書きました。
まあ私の思考自体間違えてる、なんてこともありますし文章滅茶苦茶ですが、個人としての意見なんで適当に流してください。
最後に――――平等である事は、正義ではありません。