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ぬくもり

作者: 物部

 電車を降りると熱風が圭佑の体を舐めまわした。幼いころからお世話になっている彼の祖母の家は片田舎にある。熱風は果たしてどこから体を舐めてきたのだろうか。今では涼風が彼を優しく包む。

 圭佑は近くに佇む自動販売機に近づいた。なんてことのない変哲もない自動販売機だが、彼にはそれが十年も同じものであることを克明に覚えている。

 買った水はどこにでもあるものだが、喉元を過ぎると何故だか様々な思い出が去来するのであった。

 ふと彼の眼から涙が溢れた。長旅でしわくちゃになりつつある背広に涙の染みが溢れないようにと、慌ててハンカチを取り出した。

 驚いたのは昨日の電話だった。

 いつもは温厚な祖父が冷たく凍てつくような声音で言った。

「圭佑、お前の母さんが死んだ。」

 圭佑の母は生まれつきは丈夫であり、ユーモアに溢れ、誰からも愛される人間であった。仕事も上手く、女には避けれない産休からも見事に返り咲いた。そんな母を尊敬しないわけがない。

 だが、ある日に母は倒れた。脱水症状であろうと本人は言い続けていたが、以来に言動に不審な点が見られるようになった。同じ朝食を二度作ったり、今が何曜日だかを諳んじることができなくなったり、レジで簡単な計算が出来ずに買い物に四苦八苦したり。

 脳が出血を起こしていたのだ。血栓が何時の間に生まれ、それは日々の多忙の中で増長していたのだ。気がついたときには手遅れであり、故郷で死なせてやろうというのが圭佑の親心であり、エゴイズムであった。反対する母親を無理やりに連れて行く。今生の別れに違いない、そんな理屈を考えながら親子の愛はそれを否定したがるばかりだった。

「分かりました。」

 機械的に吐き出た言葉に心底うんざりしながらも、圭佑は寝た。田舎にはその日の内に電車ではいけない。かと言って車を運転する勇気も冷静さもなかった。

 寝ろ寝ろ寝ろ……。無理に暗示をかけている圭佑はその内に睡眠薬の存在を思い出した。これも母の遺したものだ。

 そして今、圭佑は母の故郷の近くまで迫っていた。乗り換え時間は長く一時間も夏の暑さと対面しなければならなかった。

 ふと親子連れを彼の目が捉えた。小さい、五つか六つの子供が父親に甘えている。

「お父さんお父さん、汽車には乗れるの」

「うん。東京にはない。珍しい珍しいかっこいい汽車だよ」

「本当に、ぼく。楽しみ」

 キラキラと瞳を輝かせる少年は、彼自体が輝いているかのように錯覚させる。その恍惚たる光に魅せられたかのように父は笑っている。

 俺にもあんなことがあった。

  といってももっと些細なことだ。圭佑の体は強い方ではなかった。中学生までは毎年冬に大熱を出して寝込んでしまう。そんな時に、不器用な父親は彼の枕元に色んな食べ物を持ってくるのだった。ゲームや本は身体に毒だともって行きはしなかったが、父親は自分の身体に風邪が移るかもしれないことを一切鑑みずに付き添った。

 熱で朦朧とした圭佑の身体は辛さを忘れるほどであった。事実、四〇度を超える熱の前では苦しみなど自覚できない。ただただ全身が掛け布団になったかのように重く熱いだけだった。けれども、優しい父の励ましと美味しそうな食べ物の匂いがまるで死から遠ざけてくれるかのようだった。ありがとう、とガラガラの喉で言うと父は笑顔になった。

 俺は愛されることが好きなんだな。

 意識はグンと今に帰る。目の前の親子はベンチに座り、これからの旅の話をしていた。圭佑は鼻水も垂れてきたことに気づかなかった。



 暗い夜道だった。月さえ見えず街灯もない。道を照らすものはない。もう何キロメートルも歩いている気がする。七歳の圭佑にはあまりにも辛い道だった。一〇〇キロメートルも歩いてしまったのだ、とふと思った時に彼は谷崎潤一郎を思い出した。

「『母を恋る記』がこうだった」

 そうつぶやいた瞬間、圭佑の身体は元の二一歳に直った。道は暗いままで、彼は見慣れない道を歩いていた。

「それじゃこれは夢なんだなあ」

 脚を止めずに圭佑は淡々と歩く。彼には美なんてものは分からなかった。歩いているだけでいいかな、そうぼんやりと考えるだけでしかなかった。段々と腹が減ってきた。圭佑はそれでも段々と歩いた。

「からんころんからんころん。おぉい、母さん」

 歌うようなリズムで彼は口にする。からんころんからんころん。母親が作った不思議な子守唄だ。からんころんからんころんという変な音調で、母は圭佑の肩をそっと叩いた。そうすると温かい微睡みが彼の底から湧き上がり、ぐっすりと眠れるのだった。

 そのからんころんからんころんは今は歩くリズムに成り下がっていた。道は暗いままで、一〇〇〇キロメートルは歩いた。

やがて圭佑は母に会った。

 一〇〇〇〇キロメートルを歩いた所に家があった。祖母の家に見えるがどこか違う。ただ、祖母の家だと思った彼は勝手にドアを開けて中に入った。

「ただいま。」

「おかえり。」

 母は微笑んだ。

「ただいまぁ。」

 大きな甲高い声で小さな少年が母に飛びついた。誰だろうか。

 母は圭佑に目をくれずに小さな子供を抱きしめた。それだけで圭佑は回れ右をして闇世の中へと消えた。家には明りが付き、もはや闇になった圭佑は照らされない。むしろ光が強ければ強いほどに遠くにいかなければいけない。家の中を圭佑は凝視していた。ジッと、それはコウモリを彷彿させる。

「あ、ご飯だ」

 家の中で母は知らない少年と美味しそうなご飯を食べていた。

 そのまま三六四日も圭佑はジッとしていた。家は温かい光に包まれたまま、聖域としてそこに在り続けた。


「おはようございます。」

「おはよう。」

 先に食卓についていた祖父は努めて冷静だった。

「不思議な夢を見た。」

「俺も見ました。たくさん歩いたんですが、お袋に会っても構ってもらえないって夢です。」

「そうか。お前はしっかり者だからな。」

 別れが済んでるんだよ、と付け足した。

 祖母が運んできた食事は相変わらず美味しい。旅の疲れがまだ抜けない圭佑はがっつくように食べた。祖父はゆっくりと食べていた。

「どうでしたか。」

「どうって何がだい。」

「お袋は、最期まで。どうでしたか。いつも通りの、お袋で。」

 うーんと祖父は唸る。

「爺ちゃんもケイちゃんも考えすぎよ。」

 一回り小さくなったように見える祖母が横から入ってくる。

「立派だったよ。ケイちゃんの知っての通り。」

「良かった。」

 郷土料理を圭佑はがっつくように食べる。母の好きだった鮭を三口で食べる。ご飯を二合も掻き込んで食べた。食事の時間はうんっと長かった。

 食後に圭佑は母に会った。

 厳しそうな笑顔をしていて、別人かなあと思うのであった。


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