六 雨
夜中に雨が降りはじめたのを覚えている。
明るくなってもやまないどころか、ますますはげしくなる一方。なのに、おかあさんは朝ごはんも食べず、四十分もかけてお化粧すると、クラクションの音を聞いて、飛び上がるように玄関を出た。
家の前にカウボーイのジープが止まっていて、おかあさんをとなりに乗せると、ぴしゃりと泥水をはね上げて行ってしまった。
「ユキさんは、だいぶおそくなる言うとったね。わたしもこれから寄り合いに行くけど、夕方前にはもどれるさァ。昼ごはんは台所に用意しといたからね」
ぼんやりと見送りに出たアユに、おばあちゃんは玄関の戸を開けながらふりむいて、
「るす番は、さぞたいくつだろうけど、がまんしとってね。たしか、屋根うらにユキさんのおもちゃがまだあったが。みんながらくたで、都会に慣れたアユちゃんには、つまらないものばかりさァ」
大きなかさに体をすっぽりとつつまれると、どしゃぶりの中を出ていった。
雨の音がどーっとひびく中に、カツカツという雨だれが混じり、ひとしお心細さが胸にしみるようだ。気ばらしにテレビをつけても、NHKしか映らないからすぐに消した。
手もちぶさたなままお座敷に入り、飛行服を着た若いおじいちゃんの写真を、ぼんやりと見上げた。モノクロの古い写真からも、目のきれいなことがわかる。きっとアユと同じように、すこし茶色がかった、すきとおった瞳をしていたのだろう。
(だれかに似ているみたいだけど)
そう考えたとき、電話の音がひびいた。
びっくりしている間にも、五、六回は鳴った。もしかして、おとうさんかしら? そう気がついて、廊下に飛び出したとたん、アユはぱたりと足を止めた。
(ユカルくんだったらどうしよう)
それっきり音はとぎれ、後悔の中で静けさと入れかわる。しばらくつっ立っていたけれど、黒い電話はだまりこくったまま。
耳をそばだてていると、家が古いせいか、ミシリとかコトリという音が、あっちこっちからひびいてくる。
水があるところなら、カンムロウはどこにでもあらわれる……
おばあちゃんが言っていたように、こんなどしゃぶりの日には、道でばったり出くわしてもふしぎじゃない。天井のミシミシと鳴るのも、誰かがあるき回っている音のように思えてくる。
怖い気もちとうらはらに、アユは廊下を奥まで進み、階段を見上げずにはいられなかった。そういえば、ここへ来てからまだ一度も二階へのぼったことがない。
階段の上から、大きなラジオみたいな機械が、じっとこちらを見下ろしている。木でできていて、受話器がついている。有線放送とかいう機械で、今は使われていないと、おばあちゃんは言っていたっけ。ダイヤルもないのに、どうやって電話をかけるのだろう。
首をかしげながら、階段に足をかけた。板が割れたのかと思ったくらい、大きな音が鳴った。みしみしと急な段をのぼり、おどり場に出ると、左手に閉じたままのドアがひとつ。右側のかべには木のはしごがかかり、先が暗がりの中にとけこんでいるから、あれが屋根うらへ続くのだろう。
おそるおそるはじごをのぼり、天井に開いた四角い穴にのみこまれると、うす暗い部屋に出た。奥に小窓があるらしく、青白い光がななめにさしこんで、ちらちらとほこりをおどらせている。天井は小窓へ向かってかたむき、その下に、たんすや机やブリキの箱なんかが積んである。
ちょうど光が当たっているところに、小さめの鏡台が見える。こん色の布が鏡にかけられ、甘ずっぱいような化粧品のにおいがたちのぼっている。
鏡台の前のまるいイスに腰をおろすと、手もとで何かがするどい光を放つ。見れば、おはじきが三つか四つ、ついさっきまで誰かが遊んでいたように散らばっているのだ。ふと思いついて、一番上の細長い引き出しをあけてみたとたん、アユは目をかがやかせた。口紅や香水のびんがあるとばかり考えていたのに、引き出しいっぱいに数えくれないくらいのおはじきが入っていたから。
「きれい」
そっと両手ですくって、鏡台の上に置いてみる。かすかな光の中で、様々な色のおはじきたちが、おとぎ話に出てくる宝物のように並んでいる。
小さなころ、じぶんもこれで遊んだのだろう。中に一つだけ、とくに赤くかがやいているおはじきに目がとまる。ほかのものより大きくて、ひんやりとした重みが手のひらにつたわる。
光にかざすと、ガラスの中で炎がおどるようだ。
小さなころ気に入っていたおはじき……ゆめの中で、赤い魚になったのも、これにまちがいない。
(だとすると、もう一つ、同じ大きさの青いおはじきが混じっているはずだわ)
けれども、何度かき回しても、小さなものしか見つからなかった。ほかの引き出しには古い化粧品が入っているばかりだし、まわりに落ちている様子もない。もう一度、かがみの前にすわったとき、
ふわふわと、絹をゆらすような笑い声を聞いた。
どきりとした理由はほかにもあった。その声は、たしかにかがみの中から聞こえたのだ。今すぐ逃げ出したいけれど、体がかたまったように動けない。こん色の布をじっと見つめるうちに、それはたちまちうしろのほうへ、ひとりでにすべり落ちた。
もちろん、かがみに映っているのはアユの顔だ。けれども、それはずっとおとなびていて、黒い水の流れのように長い髪が、見たこともないきれいな着物の上にかかっていた。
「お姫さま……川遊びの好きな?」
アユがつぶやくと、またさっきの笑い声がこぼれ、野いちごのような赤い唇がささやいた。
「今すぐ表に出てごらんなさい」
どーっという雨の音。かがみに映っているのは、びっくりしたようなじぶんの顔。
赤いおはじきをぎゅっとにぎりしめたまま、はしごも階段もひと息に駆けおり、土間へ飛びおりた。靴をはくのももどかしい思いで、玄関の戸にしがみついた。どしゃぶりの中、表の通りにたたずんでいる、緑色のかさが見えた。
かさは大きくて、色あせていて、すこし骨が曲がっていた。
「ユカルくん!」
その声は雨の音にほとんどかき消されたけれど、ちょうど帰ろうとしていた白い背中が、くるりとふりむいた。飛びこんできたアユの上に、ユカルはあわてて、かさをさしかけた。
「朝からずっといたの?」
「あやまろうと思って。でもどんな顔をしてたずねたらいいかわからなかった……きのうは置いて帰ったりして、本当にごめん」
肩や背がどんどんぬれるのもかまわず、しんけんな表情で見つめている。顔にばんそうこうが二つはってある。ユカルのまなざしは、飛行服のおじいちゃんとそっくりだった。
「もういいよ。だってわたしたち、友だちじゃない」
いっしょにかさに入るために、ぎゅっと肩をおし当てた。ぱらぱらと鳴る雨の音を聞きながら、しばらく並んで立っていた。
「タケノリだってね、本当はおもしろいやつなんだ。でも、ぼくもそうだけど、いなかの子はみんな意地っぱりだから。きっとアユちゃんを見て、照れていたんじゃないかな」
今までは、ただゆううつだった雨の日も、これからはちょっとだけ、好きになれそうな気がした。
夜になっても、おかあさんはなかなか帰らなかった。おばあちゃんと二人でごはんを食べて、お風呂に入り、寝る時間になったけれど、玄関にはぽつんと明かりがついたまま。
なかなか寝つかれずに、ふとんの中で赤いおはじきをさわってみると、いくらか気もちが落ちつくようだ。だいぶ小ぶりになったものの、雨だれがトタンを打つ音がずっと聞こえていた。
少しうとうとしかけたころへ、ヘッドライトの明かりが窓からさした。家の前に車が止まったらしい。まもなく玄関の戸がらんぼうに開けられ、ばたばたと何かが倒れる音。おどろいて、パジャマのまま飛び出したところで、おばあちゃんとぶつかりそうになる。
二人で玄関に出てみると、上がりかまちにおかあさんが、ぺたんとすわりこんでいた。
「ケンサクさんといっしょじゃなかったのかい」
「知らないわ、そんな人。タクシーで帰ったの。アユ、お水をちょうだい」
コップを手わたすとき、ぷんとお酒のにおいがした。ろくに着がえもせずに、ふとんにもぐりこんだあとも、おかあさんは独り言をつぶやいていた。やがて寝息をたてはじめたので、あきれながら電灯を消そうとしたアユは、こんな寝言を耳にした。
「どうして迎えに来てくれないの。……さん……」
おとうさんの名前だった。