三 ザンババ
おかあさんと二人でお墓まいりに出かけたのが、昼ごはんのあと。段々畑の中の坂道をのぼるうちに、竹やぶが両側からせまり、古い石の墓が見えかくれしはじめた。
「もしテレビなら、ぜったいお化けが出てくるところだね」
おかあさんの服の裾を、アユはぎゅっとつまんだ。
「このへんではよく遊んだものよ。かくれんぼするにはもってこいの所だし」
「お墓があるのに?」
「平気でよじのぼったわ。それでも何も怖いことはなかった。きっと子どもが遊ぶくらい、大目に見てくれるんじゃないかしら」
「お化けが?」
くすりと、おかあさんは肩をすくめた。
「さあ。でも一度だけね、おかしなことがあった。わたしより一つ上のいとこが、古い墓石のてっぺんを、小石でバッテンの形に傷つけちゃったの。たちまち、ケンちゃん……というのがいとこの名前ね。いやというほど向こうずねを、そのお墓にぶつけて、ぴょんぴょん飛びはねた。バチが当たったあ、って、さけびながらね」
竹やぶがとぎれた。四、五頭の牛が草を食べている空き地の向こうに、墓地が見えた。おかあさんにかくれながら、おそるおそる通りぬけると、牛たちは大きな顔を持ち上げ、うるんだ目を、いっせいに向けた。
お墓にはまだ新しい花がそなえてある。海に沈んだのだから、おじいちゃんの骨はここにはないけれど、おばあちゃんがいつも花をとりかえにくるという。手をあわせながら、アユは心の中でつぶやいた。
(おとうさんが早く迎えに来ますように)
帰りかけたところで、ぶるぶるとエンジンの音が聞こえた。砂ぼこりをたてながら一台のジープが、坂道を登ってくる。牛のいる空地に乗り入れると、ドアが開いて、とても背の高い男の人が降りた。色あせたジーンズとシャツ。両はしがピンとはねた帽子までかぶったところは、漫画のカウボーイみたい。
おかあさんが、はずむような声を上げた。
「ケンちゃんじゃない!」
カウボーイは帽子のひさしを指でちょっと持ち上げ、じろりとこっちをながめた。
「なあんだ、どこぞの若奥さんかと思うたら、ユキエじゃなかか。いつ帰った? ええっと……」
「アユよ」
「そうだったなあ。前に来たときは、こーんなちび助だったのに、大きゅうなったなあ」
ダブルのバックルをかちゃかちゃ鳴らしながら近づいてきたかと思うと、髪をくしゃくしゃにされた。おかあさんが言う。
「まだ牛、飼ってたんだ。あはは。ケンちゃんもあきらめきれない人ねえ」
「笑うやつがおっか。村一番の牛乳メーカーだぞ。次にユキエが帰ったときは、キノハシが大牧場になっとると思うとけ」
「お互い、じいさんばあさんになってなきゃいいけど」
けんかみたいなやりとりだけど、おかあさんはなんだか楽しそう。こんなにたくさん笑うところを見るのは、久しぶりだ。
「先に帰ってるから」
長話がおわりそうにないので、そう声をかけたけれど、二人ともふり向きもしない。坂道を駆けおりながら、ぷりぷり怒っているじぶんに、アユはおどろいた。
(あれ?)
小道の両がわに生い茂る草は、アユの背たけを超えていた。こんなところ、たしか来たときは通らなかった。そう考えると、急に汗がふき出した。どうやら、道に迷ったらしい。
どこからか、糸みたいに尻尾の細いトンボが舞い上がり、黒い羽をふるわせた。せせらぎに気づいて、アユは目を向けた。たった今トンボが吸いこまれていった草の間から、銀色に光る水面がのぞいた。
いつのまに、川辺に出ていたのだろう。
草をかき分けると、岸へ降りる小さな階段がある。段のおしまいが、ひたひたと水につかっている。小石をふみながら降りてゆくと、アユの影におどろいたのか、小魚の群れがぱっと散らばった。
澄んだ水は、いかにも涼しそうで、サンダルのまま、川に入ってみることにした。浅く見えても、いざためしてみると、ひざまでざぶりとつかってしまう。思ったより、ずっと水が冷たい。
裾のぬれたスカートを持ち上げながら、岸づたいに少しあるいた。手ごろな岩がひとつ突き出ているのを見つけて、腰をおろした。
黒い羽根のトンボが、またひらひらと横ぎる。……と、急に日がかげって、冷たい風が頬に、ひやりと触れた。思わず腕をさすったのは、かさこそと鳴るアシの音が、みょうに大きく聞こえたから。まるでだれかが茂みにかくれて、うわさ話をしているように。
銀色の光が水面から消えると、あれほど澄んでいた川の中が、青いインクを流したように暗く感じられた。何か大きな生き物が、底で泳いでいるような気がして、あわてて足を引っこめた。
(ちがう。気のせいじゃない)
岩のまわりをぐるぐる泳ぎ回っているのは、たしかに人間の子どもくらいの大きさで……
「がおおおおうっ!」
いきなり飛び出してきたお化けは、水中メガネをかけていた。
自分じゃないだれかが、ひめいを上げているようだった。服がずぶ濡れになるのもかまわず、逃げてゆく背中に、男の子たちの笑い声が浴びせられた。
「都会の子は弱っちかあ、弱っちかあ」
「そっちにはザンババがおるぞお。ザンババに食わるっぞお」
一度も振り返らなかったけれど、ひときわ大きな笑い声は、きのう橋の下から聞こえたのと同じ。タケノリという男の子に違いなかった。
やっとの思いで川をわたり、河原に上がった。ぬれた服のしずくが、白くかわいた石の上に、ぽたぽたとこぼれた。ぞうりを片方、なくしていた。
男の子たちの声は、もう聞こえない。それどころか、みょうに静まり返っていて、人里から遠くはなれたところに、一人だけぽつんと取り残されたようだ。
からから、から。
顔を上げると、河原いちめんに、小石をいくつも積み上げた塔ができていた。上に積んだ小石が、ときどきくずれるたびに、からからと音をたてるのだ。
いったいだれのいたずらだろう。驚いたひょうしに、足もとの塔がまるごとくずれた。同時に、しわがれた声が、すぐうしろからひびいた。
「積んでおやり」
ふり返ると、ものすごくやせたおばあさんがそこにしゃがんでいた。ぼさぼさに乱れた白髪。よれよれの着物からのぞく顔も手足も、まっ黒でしわくちゃ。
がいこつのような細い指は、ひどくふるえるので、石を積むそばから、ぽろぽろとくずれた。かすれた、けれどどこか聞き覚えのある声が、歌うようなちょうしで、こう続けた。
「ダムなんぞ作るから、こうなっちまうのさァ。以前はこの河原も深い、深い水の底でナ。魚であろうと、化けものであろうと、それはもう、豊かに暮らしておったのにナ」
顔を上げたおばあさんの目は、銀色に光っていた。
(ザンババに食わるっぞお)
小石の塔の間を駆けぬけて、それからは、どうやって逃げたのか覚えていない。深く、青い木の陰につつまれて、樹液のにおいが、甘くただよっていた。
素足でふむ土が、ひんやりと湿っている。とても高いところで、鳥が鳴いている。ぽつぽつと木もれ日を浮かべた小道は、どこへ続くのだろう。
黒い羽のトンボがアユを追いぬいて、やぶの中に消えた。
もうすっかりつかれてしまい、何を考えるのもめんどうだった。そのままごつごつとした根の上に座りこむと、幹に背中をあずけているうちに、だんだんとまぶたが閉じ合わされた。
*
河原では坊さまの言うたとおりの用意が、すっかりととのっておった。
りっぱなやぐらが組まれ、そのまわりには五色の旗が何十本も立てられた。そうして殿さまをはじめ、村じゅうの者たちが河原に集まってナ、坊さまが出て来るのを、今やおそしと待ちかまえておったのさァ。
やがて村の者が手綱を引く馬に乗って、おごそかに坊さまがあらわれた。その姿の変わりように、おどろかない者はおらなんだ。ぼうぼうのヒゲをさっぱりそった上に、りっぱな袈裟を着たところは、都のえらい坊さまと見ちがえるほどさァ。
誰もが息をのんで見守る中、坊さまは馬からおりて、はしごをのぼると、やぐらの上でよい香りのする木をどんどん燃やしはじめた。
赤々と燃える火が、夜空を焦がしはじめたと思いなせえ。
坊さまは一心に呪文をとなえながら、きりきりとじゅずをもみ、ときどきかん高くさけんでは、まんまるい大きな月の下に、黒い影をおどり上がらせた。
およそ二時間も祈りが続いたであろうか。夜もしんしんと更けるころ、今まで少しも動かなんだ五色の旗が揺れはじめた。
じっさいは風なんか少しもないのに、まるで川のほうから大風が吹いてくるように、ばたばたとなびくのさァ。皆がたまげているところへ、
からからからから!
川の中で青竹が鳴った。
庄屋さまも村人たちも、一度に川へ顔を向けた。
ちょうど満月が映っているあたりが、ぼうっと青く光っておってナ、幻を見るように、川の中からいくつもの人影があらわれた。それはきれいな赤い着物を着た男の子たちで、前でかしこまったり、うしろで刀を持ったりしたところは、お城のお小姓のようさァ。
そんな家来たちにかしずかれながら、世にも美しい二つの人影が、しっかりと手をとってあらわれた。
「姫さまだ……!」
「姫さまがあらわれなさった!」
村の者たちが口々にそう叫んだ。
川遊びの好きな姫さまは、みごとな絹の着物を着ておられた。もともときれいなお方じゃったが、さらに肌はすきとおるように白くなり、庄屋さまでさえ、
「ほぅ」
と、ため息をつかれたほどさァ。
そのとなりに立っていたのは、白い狩衣を着た、これもまたきれいな若者でナ。澄んだ瞳に少し悲しげな表情を浮かべ、いたわるように姫さまの手をとる姿にも気品があり、とても化けものの王子とは思えなんだ。
*
「きみはどこの子? 迷子にでもなったの?」
涙とはちがう。頬の上にしたたった冷たいしずくにおどろいて、アユは目をひらいた。
澄んだ瞳が上からのぞきこんでいる。網を片手に、白いシャツの上で首をかしげている男の子は、きのう、橋の上から見たときと同じように、白い歯をきれいに並べた。
「ユカルくん?」
「きみはふしぎな子だなあ。はじめて会ったのに、ぼくの名前を知ってるなんて」
赤くなって立ち上がりかけたアユの頬に、ぽつぽつと大つぶの雨がふりかかった。アマガエルがケタケタと鳴きはじめ、青い光がこずえをつらぬく。男の子は手のひらで雨つぶを受けながら、
「夕立ちが来そうだね。こんなところで寝ているとたいへんなことになるよ」
おだやかにそう言うあいだにも、雨つぶはどんどん増えてゆく。少年は肩をすくめ、むぞうさにアユの手をつかんだ。
「おいで。ぬれない場所、知ってるから」
また稲光りがして、葉っぱの一まい一まいまで青白く照らしだした。つづいて、ずん! とおなかにひびく音。
アユをぐんぐん引っ張りながら、男の子は走りだした。一本道をさらに森の奥へ入りこみ、濃い緑色のシダがたくさん生えている崖に出た。草に半分かくれた木の階段を降りてしまったところに、畳一まいぶんくらいの空き地がかくれていた。
目の前に緑色の淵が横たわり、底の知れない水が数えきれない波紋を浮かべていた。うしろから崖が張り出しているおかげで、なるほどここまでは雨もとどかない。シダの葉のクッションの上に、二人は並んで腰をおろした。
雨は見る間にはげしくなり、ざーっという音が、うつろに反響している。雨だれをさけながら肩をぴったり寄せあっているうちに、シャツの袖をとおして伝わるぬくもりが、なんだか気はずかしく思えてくる。
心ぞうの音まで男の子に聞かれてしまいそうで、少し体をはなそうと考えたとたん、あたりがまっ白になるほど、ものすごい光が走った。まるで百回ぶんの運動会の爆竹を一度に鳴らしたような音が、そこいらじゅうに鳴りひびく。
こんなにびっくりしたのは、生まれて初めてかもしれない。じぶんのひめいさえかき消されながら、かたく目をつぶり、耳をふさいでうずくまるほかになかった。
「だいじょうぶ、だいじょうぶだから、ね。ここに落ちたりはしない。すぐに通りすぎるよ」
子守唄をうたう調子で、ぽん、ぽんと、肩がたたかれた。雨はまだ止みそうにないけれど、まもなく雷は遠ざかり、ごろごろという音もしだいに小さくなってゆく。
水に映った雲がすごい速さで通りすぎながら、少しずつ明るさを増してゆく。ずっとむかし、こんなふうに水辺でだれかにやさしく肩を抱かれていたような、なつかしい気もちがこみ上げてきた。