二 カンムロウ
玄関はすりガラスの格子戸で、開けると、鈴の音がりんりんと鳴った。鍵なんて、最初からかかっていないのだ。
「ただいま。おかあさん、いるの?」
しめった土のにおいの中で、おかあさんの声が、がらんとひびいた。社会の時間に習った、土間というものだろうか。外の明るさに目が慣れていたため、ほとんど真っ暗。すみっこで、さびついたリヤカーや自転車なんかが、じっとうずくまっていた。
まもなく障子が開いて、ふっくらとしたおばあさんがあらわれた。紺色の着物をさっぱりと着て、顔じゅうでにこにこ、笑っていた。
でもどことなく、おかあさんと似ているかも。
「遠いところを大変だったねえ。ほんにもうユキエさんは、郵便局なんか後まわしでええと言うに、ぐずぐずなさるから。アユちゃんもおなかがすいたでしょう」
ユキエさんと呼ばれて、おかあさんは子どもみたいに頬をふくらませる。
「だって局員さんときたら、わたしのことをしっかり覚えとってさ。話は終わらないし、お茶まで出すし」
「まあ、そんなことはええから早うお上がんなさい。ごはんの用意ができとるよ」
上がりかまちは、アユの胸近くまである。階段もないから、とてもクラスの子には見せられないかっこうで、よじのぼるしかなかさそうだ。
「先におじいちゃんにごあいさつするから」
おかあさんにそう言われて、畳の部屋を二つ通りぬけると、お線香のにおいのするお座敷に入った。並んで仏壇に手を合わせたあと、なにげなく見上げると、額ぶちに入れられた、モノクロの大きな写真がかかっていた。
「あれがわたしのおとうさん。だから、アユちゃんのおじいさんね」
じっと見ていることに気づいたらしく、おかあさんがとなりでささやく。
「この人が……」
アユが目をまるくしたのもむりはない。それは「おじいさん」と呼ぶにはあまりにも若く、担任の先生ともそれほど変わらない。とてもやさしそうな、澄んだ瞳が、じっとこっちを見おろしている。飛行服を着ていることに気づいて、アユはテレビで覚えた言葉を、なにげなく口にした。
「特攻隊?」
「そうじゃないけど。でも、船に乗って南の島へ向かうとちゅう、行方不明になった。まだ二十七さいだったんだって」
がらんとしたお座敷の中で、おかあさんの声が少しさびしそうにひびいた。
居間にもどると、背の低いテーブルの上に、そうめんが用意されていた。別のお皿には、細く切った卵焼きとキュウリとトマト。庭の野菜畑からとれたてだという、みずみずしい赤や緑を眺めているうちに、忘れていたお腹の虫が、さわぎはじめるようだ。
よその家でごはんを食べたことなんてほとんどないせいか、とてもおいしい。むちゅうで食べ終えたとたん、気をうしないそうなほどの眠気がこみ上げてきた。
考えてみれば、朝もまだ暗いうちに起こされて、新幹線で六時間。そのあとバスで一時間半、揺られっぱなしだったから、むりもない。
「つかれたのね」
こっそりしたつもりの大あくびを、しっかりおばあちゃんに見られていた。目に涙をためているアユを笑いながら、となりの部屋に、ふかふかのざぶとんを並べてくれた。
防虫剤のにおいのするタオルケットを抱いて横になると、ちょうどお腹もいっぱいだし、たちまちゆめの中に引きこまれた。
*
「どなたさまですか」
姫さまがたずねると、若者らしい、すずしげな声が返ってきた。
「おゆるしください。あまりに月夜がおもしろくて、出あるいておりました。そうすると、とても美しい琴の音が聞こえてまいりましたので、つい」
話しぶりもやさしく品がよいので、姫さまは立って戸を開けられた。すると雨のように降りそそぐ月の光の中に、一人のほっそりとした若者が立っておった。馬も家来も連れておらず、身なりも質素だが、お公家さまのようにお美しい人であった。
部屋に琴をぽつんと残したまま、姫さまがいなくなったのは、その夜のことさァ。
それから、村じゅうが引っくりかえるほどの大さわぎになった。
若い衆が総出で山がりをして、昼も夜も休まずさがしまわったんじゃが、とうとう姫さまは見つからずじまいでナ。
それから四、五日もたったころであろうか。
ある漁師が、川の中にしかけておいた梁に、姫さまのぞうりが引っかかっておるのを見つけてナ。
「こうなっては、もはや姫さまの命はあるまい。きっと夜中に水べにおりてきて足をすべらせ、おぼれてしまわれたにちがいない」
村人たちはそうささやき合った。庄屋さまも泣く泣く、あきらめなさるほかに、どうしようもなかったのさァ。
お屋敷では形ばかりの葬式がとりおこなわれた。たった一人の姫さまがいなくなっただけで、広い屋敷の中は火が消えたようになり、祭の日でさえ、ぱたりと笑い声がとだえたまま、いつしか一年がすぎていた。
じつを言うと、その間も村ではときどき、みょうなうわさがささやかれてナ。
月のきれいな晩になると、川の近くで姫さまの姿を見かけるというのさァ。
一人が言い出すと、われもわれもと相づちをうつ者が出てきた。そのうちに、うわさは庄屋さまの耳にも入ってくる。
「もしかしたら、姫はまだどこかで元気に暮らしておるのじゃなかろうか。なにか帰るに帰れぬ事情があるのじゃなかろうか」
庄屋さまもだんだんそう考えるようになられてナ。
*
庭の木に大きなセミガ一匹止まって、わしゃわしゃと鳴きはじめた。都会では聞いたこともない大声におどろいて、アユは目を覚ましたらしい。
どれくらい眠ったのだろう。
ついさっきまで、誰かが近くでささやいていたような、かわいた声が、まだ耳に残っている。頭がはっきりしてくるにつれて、じっさいに、ぼそぼそと話す声が聞こえてくることに気づいた。
「フミヒコさんには伝えてあるんかね?」
そう言ったのは、おばあちゃんらしい。おかあさんの声がすぐにこたえた。
「置き手紙してきた。あの人、昨日から会社に泊まりこみだから、家を出るにはちょうどよかったんよ」
「ずっとここにいるわけにもいかんでしょうに」
「めいわく?」
「わたしはちっともかまわんさ。あんたにも孫にも久しぶりに会うて、とってもうれしかよ。でもねえ、ユキエ。アユちゃんだって不安でしょうに。もんくも言わず、よくついてきたよ」
「だからといって、あの人の所に置いてくるわけにもゆかんじゃないね。今の今まで電話一つよこさない父親が、どこの世界におるね?」
起きるに起きられないまま、アユは知らずに、ぎゅっとタオルケットをにぎりしめた。
おとうさんとおかあさんがけんかを始めて、もう半年くらいになる。ながい、ながいけんかだった。
アユにはかくそうとしているみたいだけど、ごはんの時もほとんど口をきかないし、ときどき、夜おそくまで言い争う声が聞こえてくる。そんなときは、ベッドの中でいっしょうけんめい、耳をふさいでいた。
何が原因なのかわからない。一週間ほど前からいよいよ雲行きがあやしくなり、アユもはらはらしていた。そうして小学校が夏休みに入ったとたん、おかあさんはとつぜんアユを連れて、キノハシのおばあちゃんの家をたずねたのだ。
「たしかにフミヒコさんにも、いたらない所はあろうけどさ。それを責めてばかりじゃ、あの人もつらかろうに……おや、アユちゃん。起きたのかい」
つい目を開けてしまったらしい。もう眠れそうにないし、ここにいてもばつがわるいので、
「散歩してきます」
帽子もかぶらずに、しょんぼりと外に出た。
時計を見なかったけど四時近くになっていたろうか。
大きなヒマワリが白茶けた垣根の間からのぞいている、せまい道。とぼとぼと、じぶんの影をひきずりながら歩くうちに、いきなり、前のほうからどやどやと話し声が聞こえてきた。
逃げるひまも、かくれる場所も見つからないうちに、角を曲がってきたのは、はだかんぼうの男の子たち。カチカチになっているアユに「なんだこいつ」と言いたげな視線を、じろじろとあびせながら通りすぎた。
「アユちゃんじゃなかね? 秋月のばあさんところのお孫さんじゃったな」
名前を呼ばれたのにおどろいて、顔を上げると、釣りざおを肩にかけた四角い顔のおじいさんが、目を細めてのぞきこんでいる。アユはあわてて頭を下げた。
「は、はい。こんにちは」
「やっぱりそうじゃったか。だいぶ大きゅうなったなあ」
麦わら帽子の下で、茹でたように赤い顔をうなずかせながら、その人は通りすぎた。
ふりかえると、ヒルガオのからみついた電柱のうしろから、男の子たちが、わっ! とさけんで逃げだした。
「カニゾウさんでしょう」
晩ごはんのときにそのことを話すと、おかあさんがそう教えてくれた。本当はヨシゾウという名前だけど、子どものころのおかあさんたちがそう呼んでいたのは、アユも考えたとおり、きっと顔がカニとそっくりだから。
「でも、わたしたちが前に帰ったのは、アユがまだ四つのころよ。よくわかったわね」
「村では、目新しいことが少なかもんでねえ。細かいところまで、いつまでも覚えてとるものさ」
おばあちゃんお手製のコロッケは、揚げたてでとてもおいしい。店に売っているものよりまるまるとして、頬の中でほっかりほころびる。
「ね、おばあちゃん。この村にはカンムロウというお化けがいるの?」
「アユちゃんは都会の子なのに、よく知っとるねえ」
感心したように、おばあちゃんは目を細めたけれど、アユの目は反対にまるくなった。
「あれ? わたしはてっきり、小さなころ、おばあちゃんが話してくれたものだとばかり思ってた。川遊びの好きなお姫さまが出てくる昔話」
「さあ、そんな話は知らんけどねえ。本で読んだんじゃなかね?」
そう言われると、アユにも「ちがう」と言いきれる自信はない。
バスの中でゆめを見るまではほとんど忘れていたくらいだし、だれに聞かされたのかとなると、まるで見当がつかないのだ。ただ、ささやき声に近い話し声だけが、はっきりと耳に残っているばかり。
おばあちゃんが言う。
「このあたりじゃあ、どこにでもカンムロウの言い伝えがあるとよ。人間の子どもくらいの、体じゅう真っ青な妖怪でね。とにかく水があるところなら、どこへだってあらわれる。川の中を自由に泳ぎまわっては、いろいろといたずらをするのさァ」
「足を引っぱったり、すもうをとったりするのね」
「そうして、おしりからタマシイを抜いてしまう」
「おしりから?」
アユは思わず箸を止めた。
「タマシイを抜かれたら、どうなるの」
「心がなくなってしまうんだね。まるで空気が抜けたようにぼんやりとなっちまって、何をたずねても、答えは見当ちがい。そのまま何日かたつと、ふらりと家を出たまま、いなくなってしまうんだよ。そんなときは、くつや帽子なんかが必ず川で見つかるから、とうとうカンムロウの国にとられたんだって、うわさされるんだね」
「そうそう、アユも一度、カンムロウにタマシイを抜かれたって、大さわぎになったじゃない」
麦茶のコップを盆にのせてもどってくるなり、おかあさんがそう言った。ごはんがのどにつまりかけたほど、もちろんアユはおどろいた。
「わたしが!?」
アユが前にキノハシに来たのは四つのころだ。おかあさんの話によると、そのとき、一度ふらりと家を出たまま行方がわからなくなったという。
おかあさんとおばあちゃんはもちろん、カニゾウさんや近所の人まで手伝ってさがしまわった。そうして日がかたむき始めるころ、アシの葉の陰にかくれるようにして、水辺に一人で眠りこんでいるところを見つけられた。
浅い水の中には、色とりどりのおはじきが散らばっていた。
けれども、そこはとても四さいの女の子が歩いて行けないほど、家から遠くはなれていたので、
「いやはや、あぶなかった。あとちょっとで、カンムロウにとられるところじゃった」
カニゾウさんが、こんなことを言い出すしまつ。
なんだかおしりがむずむずする思いで、アユ子はたずねた。
「おはじきで遊んでいたの?」
「わたしが子どものころ、集めていたのを見つけてね。よほど気に入ったらしく、ずっと手放さなかったなあ。持って帰りたいと言ってたけど、あれはけっきょく、どうなったののかしら」
コップを手にしたまま、おかあさんがそう言って、首をかしげた。
ちゃぷん。
波紋を広げる湯の上に、満月のようなはだか電球が映っていた。しっかり昼寝をしたはずなのに、またうとうと、湯船の中で眠ってしまいそうになる。
おかあさんの話を聞いても、そのときのことをほとんど何も思い出せなかった。
四つのとき、一人で遊んでいた水辺で、いったい何を落としたというのだろう。ほうんとうに、タマシイをカンムロウにぬすまれたのだろうか。
だから何か思い出そうとしても、ぽっかりと、むねに穴があいたような感じがするのか。
覚えていることといえば、たくさんの小人が緑色の手をふるような、光の中で揺れるアシの葉や、とうめいな流れの中できらめく様々な色ガラスなど。それがゆめなのか、じっさいに見たのかわからないまま、パズルのかけらのようにちりばめられてるばかり。
ちゃぷん。
*
ちょうどそのころ、リュウガに旅の坊さまがやって来た。
坊さまというても、その人はだいぶ様子が変わっておってナ。茶色の衣に縄のけさ。ヒゲがぼうぼうにのびた上に、おわんみたいな黒い頭巾をかぶったところは、話に聞くテングさまそっくりだ。
大きな四角い木の箱をせおい、鉄の輪のついた杖をしゃらんしゃらんと鳴らしながら、家々の門口に立ってナ。口の中で何やら呪文をとなえれば、寝込んでいた病人が、たちまちしゃんと起きたなんてことも、一度や二度じゃなかった。
そのうえ、一ぱいのおかゆのほかは一銭も受けとらぬから、
「えらい坊さまじゃ」
評判はやがて、庄屋さまの耳にも入った。
さっそくお座敷に招かれた坊さまは、庄屋さまの顔を見たとたん、こう言いだした。
「およそ一年前、この家から姫さまがいなくなりましたな」
「おっしゃるとおりございます」
庄屋さまはぎょっとされたが、もしかしたらうわさを聞いただけかもしれない。けれども、その夜が満月だったことや、姫さまが琴を弾いておられたことなど、その場に居合わせたように言い当てなさるから、庄屋さまもすっかり感心なさってナ、
「どうかお教えください。姫は無事、生きておりますでしょうか」
そう問われると、坊さまは大きくうなずかれた。
「ご無事でいらっしゃいます」
「なんと!? では姫はいったいどこに? 何者のしわざでいなくなったのでしょう」
あわただしくたずねる庄屋さまに向かって、坊さまは静かにこうこたえなさった。
「まちがいなくカンムロウのしわざでありましょう。姫さまは、そのものたちの王子に連れて行かれたのです」
「カンムロウの王子に? 姫をとりもどす方法はございますか」
「あるにはあるが……」
坊さまは口ごもると、するどい目つきを庄屋さまに向けた。
「たとえお会いできたとしても、もし姫さまが帰りたくないとおっしゃれば、もはや永久にとりもどすことはかないませんぞ」
庄屋さまは、思わず笑い出した。
「化け物なんぞにとらえられている姫が、そのようなことを申すはずがございません」
「わかりました。ならば、これからわたしの言うとおりのものを用意されよ」
やがて村の男たちによって、材木で河原にやぐらが組まれはじめた。女たちは五色の旗を大急ぎでいくつも縫い、子どもらは川を泳いで縄を張りわたすと、短く切った青竹をいくつも結びつけた。
坊さまはというと、その間何一つ口にせず、お屋敷の庭にあるお堂にこもって、ひたすらお経を読んでおられた。
ようやく坊さまが出てきたのは、一週間後の満月の夜さァ。