一 キノハシ
水の中のおはじきはきれい。
まるいガラスにとじこめられた、赤や緑や青や黄色やオレンジが、水の中でたちまち命をふきこまれたように、かがやいてみえる。
とうめいな流れとたわむれながら、おはじきたちは楽しそうにおどる。やがて一つ一つが身をくねらせて、ガラスの中からぬけだし、見たこともない、色とりどりの魚になって、自由に泳ぎはじめる。
なかでも青い魚と赤い魚が、ひときわ大きく、あざやかな色をしている。
川の流れはおだやかだけれど、向こう岸までけっこう遠い。
そこには森がせまっていて、うっそうと茂る枝の影を水の上にうつしている。あたりは緑色によどみ、深い淵を作っている。白くかわいた枯木が半分、水につかっている様子は、恐竜の骨のよう。
やわらかな風がふく。
耳もとで、アシの葉がかさこそとささやき声をかわす。
そのかわいた声は、しだいに人間の言葉となって、こんな話を語りはじめるのだった。
*
むァかし、むかし。
波のようにいくつもかさなった山の中に、リュウガという小さな村があったのさァ。
その村は、たいそう美しい所で、まん中をひとすじの川がきらきらと流れておった。
また、東のふもとには庄屋さまのお屋敷があってナ。その広さときたら、庭の中に田んぼがあり、その田んぼを耕す農家があり、田んぼの神さまをまつるお宮さんまであるくらいさァ。
庄屋さまはりっぱなおかたで、村の者にもたいそう親切であった。それに川がきれいなせいか、作物も毎年たくさん実ったものじゃから、リュウガでは、けんかする者なんか一人もおらず、みんなが楽しく暮らしておった。
ただナ。
ひとつだけなやみの種があってナ。
それというのも、川にはカンムロウという妖怪がいくらでもすんでおって、こいつが、とんでもないいたずら者ときている。
すがた形は人間の子どもくらい。でも体じゅうが青黒い怪物でナ。気もちよく泳いでいる村人の足を引っぱったり、力もちとみれば、すもうをとって淵に投げこんだり。馬のたてがみを引っこ抜いて大あばれさせたり、田んぼの水を抜いたり……と、それはもう、わるさばかりしておった。
さて、庄屋さまにはたった一人の姫さまがおられた。
それはおしとやかで愛らしいお子であったが、どういうわけか川遊びが好きで好きでたまらない性分ときている。
家の中におられるときは、歌もよまれるし、琴がじょうずで、ししゅうもおできになる。けれども、川を見たらさいご、たちまち村一番のおてんば娘になって、いつまでも水の中から出ようとなさらん。庄屋さまもたいそう頭をなやまされてナ。宝物や着物を見せて、なだめようとなさるのだが、
「川の中で日の光をあびた小石や水草は、宝石よりもきれいです。よい着物は水に入るときじゃまになります」
ぴしゃりと、はねつけなさるのさァ。
やがて姫さまは十五さいになり、かぐや姫のように美しく成長なされた。うわさを聞いて、あちこちのお金もちが嫁にほしいと申しこまれたが、姫さまはことわってばかり。
なんでもナ、
「よそへとつぐのはいやでございます。リュウガを流れる川より美しい川はほかにございませんもの」
と、こんなちょうしでナ。これでは嫁に行きそびれてしまうというて、庄屋さまも頭をかかえておられた。
ある月のきれいな夜のことさァ。
何となく寝つかれぬまま、姫さまが琴をひいているところへ、しずかに戸をたたく音がする。
*
ふわり。
体が大きく揺れて、ふしぎな夢の中から、アユはバスの座席へと引きもどされた。
「起きたのね」
となりからおかあさんがのぞきこみ、前髪をかきわけて、ひたいの汗をハンカチでふいてくれた。ちらちらと、窓からは木もれ日が入りこみ、木の生い茂る山道をバスは走っている様子。
左に右に、蛇の背中をたどるように曲がりながら、ときどき腰が浮くくらい、上下に揺れる。キイ、と、何かが窓ガラスを引っかく音におどろいて、見れば、道の幅ぎりぎりまで森がせまり、木の枝が開いた窓から入りこんでくる。
森のトンネルだ。
「すぐにキノハシだから、もう起きちゃいなさい」
天井では、いくつもの扇風機が、しきりに首をかしげている。えんじ色のシートが、日の光をあびて白っぽく見える。
アユは、バスの中を見まわした。自分たち二人のほかに、だれも乗っていないのかと思えば、運転席のすぐうしろに一人だけ、小さなおばあさんがすわっていた。折りたたむように腰を曲げ、頭にかぶった手ぬぐいから、ピンととがった黒い耳や、ぼさぼさの白髪がのぞいている。
なんだか怖い。そう考えたとたん、銀色に光る目に、じろりとにらまれた。
森のトンネルをぬけると下り坂にさしかかる。木立の間から、深い谷間のような山あいの景色がながめられた。
窓から身をのり出したとたん、このあいだ思いきって短くした髪を、風がばらばらとなぶる。かさなりあう緑の山の間に、いくつもの小さな家の屋根が身を寄せあっている。
段々になった田んぼや畑。まるい丘。所々にこんもりと茂る竹やぶや森。その中を、細長い銀色のじゅうたんをわたしたように、ひとすじの川が流れている。
(きれい)
山をおりてしまったところでバスは停車した。
おかあさんが、あみ棚から荷物をおろしている間に、黒い顔のおばあさんは、危なっかしい足どりでバスを降りていった。手すりにつかまる指は、ぶるぶるふるえ、がい骨のように細いのだ。
もくもくと、黒い煙を吐きながらバスが行ってしまうと、二人のほかに立っているのは、草のつるがからみついたバス停ばかり。ざっ、と羽根の音を鳴らして、大きなトンボのむれが通りすぎた。アユはびっくりしたように、あたりを見まわした。
「ね、今降りたおばあさん、どこへ行ったのかな」
近くに家は一けんもない。遠くまで続いている田んぼの中に大きなニレの木が一本だけ立っていて、木の下には小さな木のほこらが、ぴったりと扉を閉ざしている。
「まだ寝ぼけてるの? ずっとわたしたちしか、乗ってなかったでしょう」
「えっ」
ぞくりと、アユは肩をふるわせた。
なっとくいかないまま、帽子をかぶって歩き始めると、じぶんよりも背の高い草のうしろから、水の音が聞こえてくる。やがて小さな石橋があらわれ、わたりながら下をのぞくと、石がきの間を流れるきれいな水が。
「わあ、カニがいる」
とてもすきとおっていて、雲の動く様子まで映し出しているのだ。となりでおかあさんが、なつかしそうに、目を細めた。
「変わってないなあ、ここも」
「小川なの?」
「水路よ。田んぼに水を引くためのものね。あちこち修理されてるけど、もとは何百年もむかしに作られたんだって」
ふぅーん、と感心しながら、アユはまた、橋の下をのぞいた。
とたん、空の色をぎゅっとかためたような影が、水の中をすばやくよぎった。魚だろうか。大きくまばたきしたときにはもう、その青い影は消えていたけれど……
見上げると、都会では見たこともない、ふしぎな色の空が、所々に白い雲を浮かべながら、どこまでも続いているのだった。
赤いポストは、アユの背たけより、頭ひとつぶん高かった。
ノウゼンカズラの帽子をかぶった郵便局。開けっぱなしのとびらの向こうでは、やっぱりいくつもの扇風機が、しきりに首をかしげていた。
「ごめんね、アユ。もうちょっと、時間かかりそう」
カウンターに肘をついて、しきりに話しこんでいたおかあさんが、振り向いた。
「散歩でもしてくれば?」
あまり気がすすまなかったけれど、帽子をぎゅっとかぶりなおした。
竹の塀にはさまれたせまい通り歩くと、どの庭でも赤いオシロイバナが、こぼれるように咲いていた。道の先には大きな橋。その下を、バスの中から見た川が、流れているのだろう。
橋をわたりかけて、びくりと立ち止まったのは、真下から子どもたちの騒ぐ声が聞こえたから。おそるおそる、のぞきこむと、川の中でいくつものまっ黒い背中が、むくむくと動いていた。
妖怪?
どきりとしたけれど、どうやら小学生の男の子たちらしい。ゴムのついた銛で魚をねらっている上級生もいれば、水中めがねに水をためて、ぶんぶん振り回している、小さな子もいる。
(川で遊んだりして、先生に叱られないのかしら)
首をかしげたところで、ひときわ大きく、男の子の声がひびいた。
「おーい、ユカル! 泳がんのか?」
手にした銛を、しきりに振り回している。目立って大きな体が、黒く光って見えるほど日焼けしていた。
向こう岸に目をうつすと、ほっそりした男の子が一人だけ、ぽつんと立っているのがわかった。はだかではなく、白いシャツをきちんと着ているせいか、ほかの子とはだいぶ様子がちがって見えた。
柄の長い網をちょっと持ち上げて、にっこりとほほえんだ様子。
「ああ、タケノリか。ちょっと魚をさがしてくるよ」
大声を出したわけでもない。なのにその子の声は川をわたって、アユの耳にもはっきりと聞こえた。たちまち、タケノリと呼ばれた子は、ゴリラみたいな変てこなポーズでさけぶのだ。
「青い魚なんか、だあれも見たことなかぞお!」
それを聞いて、近くにいた男の子たちが、いっせいに笑いだした。向こう岸の少年は、けれどべつに気にしたふうもなく、また川上のほうへ歩きはじめた。
白いシャツの背中が、光をいっぱい浴びていた。ぼんやりと見おくったあと、アユはあわてたように、郵便局のほうへ駆けだした。