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アフリカの陽光

作者: 成田純一

「俺を殺してくれ」

 里美とベッドの上で世界の果てを旅した俺は荒い呼吸を整えながらうつ伏せになって言った。里美は横で肉体が落ち着くのを待っている。

 ややあって俺の発言を鼻で笑い里美は裸のままベッドから立ち上がり窓辺へ向かった。彼女は途中で手にしたガラステーブルに置いてある自作の紙巻きタバコをくわえ火をつける。

 里美は少し変わった女で、市販されている数種類のタバコの一本いっぽんをバラし、刻まれたそれらの葉をブレンドして自ら紙で巻いて喫煙する習慣があった。タバコを手巻きするための紙、フィルターや道具はネット通販で簡単に手に入るらしい。 

 全裸で窓際に立つ里美。季節は初夏、北海道の地方都市でのいつもの平日の昼間である。

 突然、青空を切り裂くような爆音とともにヘリコプターが超低空飛行で窓枠の中を横切っていった。驚く俺と里美。

「けっ、ただで裸見られた」

 里美はそう言って「がはは」と笑った。

 まだベッドで横になっている俺に吸いかけのタバコを預け里美はバスルームに消えた。

 おりしも遠いアフリカ大陸で初めてのオリンピックが開かれている今、世界、特に日本は毎日その話題で持ちきりだった。もちろんアスリートたちが作り出すドラマティックなストーリーは人目を惹いた。しかし一番の国民の関心ごとは日本人選手団が獲得するメダルの数である。幸い人類発祥の地で行われているオリンピックで日本人選手たちはすこぶる調子がよく、カジノのルーレットでバカ勝ちしたように大量のメダルを獲得していた。

 そして何より陸上競技が極東アジアの小国国民の話題をさらっていた。なぜなら日本の高校生の大会で100メートル走を9.98秒で走る選手がいたからだ。日本人陸上選手が100メートルの短距離走で10秒を切る記録を出したのは初めてのことだった。彼がオリンピックという大舞台でどんな走りを見せるか。果たしてメダルを取るのか。全ての日本国民の注目はその一点だったと言っても過言ではない。

 俺の職場のお年寄りたちも連日その話題で持ちきりだ。

 俺は北海道のとある地方都市で老人用のレンタルルームを運営する会社を経営している。自社で街中のいたる所にマンションの一室を借り、会員登録した年金生活者らの憩いの場所としてそこを提供するのだ。医療行為や介護を目的としていないため特別な国家資格もいらない。実は当初、若者がパーティーやイベントを催すときに安価なレンタル料金で空き部屋を貸し出すつもりで事業展開した。しかし結果的に年寄りのたまり場になってしまった。そう、プラン通りにことは運ばなかったが、日本社会の超高齢化を背景にこれはこれでなかなか繁盛するわけだ。

 里美はある老人の付き添いでわが社のレンタルルームをよく訪れた。それを切っ掛けに俺は彼女と顔見知りになり深い関係を結ぶに至った。

 地元の大学に通っている里美は生物科学の勉強をしており、今は太平洋戦争直後の乱れた日本の生態系について調べている。彼女によると海外から数百にのぼる外来植物が当時の日本国内に紛れ込んだという。ベッドの中で一戦交えたあと里美からそういう話をよく聴いた。彼女はオリンピックに興味がなかったようで「剣道が見られないから面白くない」と愚痴っていた。何やら子供のころ里美は剣道を習っていたそうでとても好きなスポーツなのだという。「世界規模で剣道の愛好家を鑑みるとオリンピック競技に採用されても不思議ではない」とも言っていた。

 俺は俺でオリンピックは悩みの種だった。なぜなら世間でオリンピックの話題が盛り上がれば盛り上がるほど俺は不安に駆られたからだ。不安の原因は……よく解らない。ただ普段から周囲の人々が爆笑するようなお祭り騒ぎになると一人取り残されたように俺のテンションはどん底に落ちるという傾向があるにはある。それは俺の心の癖のようなもので矯正のしようがない。

 もしかすると父の死に方が遠因にあるのかもしれない。父は俺が25のとき自ら命を絶った。彼が62のときだ。死に至った理由は全く解らない。遺書もなかった。経済的に困窮していたわけでも心の病というわけでもなかった。父は俺が算数のテストで0点を取ると「かっかっか」と声高らかに笑うような人だった。彼が天国に召されて6年経つが、なぜ首をくくったかは未だに謎である。そんな父の死を目の当たりにして「俺もやがてああいう末路を辿るのでは?」と漠然とした不安を抱くようになった。何か楽しいことがあっても「明日になれば未知の絶望に囚われ俺は自死するんじゃないか」と不吉な予感が俺の頭を占領する。

 そんなわけでアフリカ大陸で初めて開催されたオリンピックは大いに俺の気分を滅入らせた。

 俺はベッドの上で里美からもらった紙巻タバコを吸い、肺にため込んだ煙をため息といっしょに吐いた。

 バスルームからは里美のご機嫌な鼻歌が聴こえる。

 

 大音響と歓声、そして熱気。

 汗を流しながら踊り狂う観客らに上の二階席から勢いよく煙が吹きつけられた。フロアに密集している若者たちは白い炭酸ガスに煽られ興奮は最高潮に達する。ステージ上のブースではデジタル機器に囲まれ片耳にベッドホンを引っ掛けたDJがド派手な音楽を操っている。

 思い返せば、落ち込んだように夕食をとる俺を見かねて里美がデートに誘ってくれたのだ。もちろんそのときのテレビではオリンピック中継がオンエアされていた。俺と里美は深夜のクラブへ繰り出した。

 なんでもその有名クラブは正式に公安からの許可を得ておらず、経営者の逮捕も時間の問題ではないかとささやかれていた。周知の通り今の日本では風営法をクリアしててもクラブで深夜1時以降客を踊らせることは違法行為である。しかし、俺たちが行ったクラブは、捕まるならやりたいことやって捕まろう、ということでオールナイトでやんちゃな奴らを集め、踊らせようという魂胆のようだ。クラブの経営者は今夜で店じまいをするらしい。その手の情報は逐一スマホにラインで回ってきた。つまり俺と里美は地元の老舗クラブのラストナイトに来ていたのだ。

 俺の内臓を波動のようなビートが襲う。クラブ内は薄暗く寒色系のライトが俺に「覚醒しろ!」と叫ぶ。目の前で里美が恍惚とした表情でダンスをしている。周りのbadboys&badgirlsは明日になったら死ぬかもしれないという雰囲気で踊っていた。少し息苦しく、その湿った暑さとともに周囲の高揚感が十分伝わってくる。皆の盛り上がりは最大級だ。俺は流れる曲に合わせ軽く身体を揺らしていた。だが気分は最悪だった。周りの右肩上がりのボルテージに反比例するかのようにテンションは下がりっぱなしだ。とにかく身体が緊張した。とても音楽にノッてバカ騒ぎする心境じゃない。俺は絶望的な気分になった。一人になりたい。いつもの病気が出たのだ。

 そんなこと何も知らない里美は全身をクネクネさせて踊っている。

 俺は里美に気づかれないようにクラブから逃げ出した。フロアを出る前振り返ると再びスタッフが客に炭酸ガスを噴射していた。そのとき俺の目に映った誰もがいたずらに無垢に見えた。皆幼児のように踊っていた。

 建物を出てどん底な気分で自宅に向かって、一人、街路を歩いていると数台のパトカーとすれ違った。さっきまでいたクラブはこれからとんでもないことになるだろう。

 俺は里美を見捨てたのだ。


 俺が死者にイニシアティヴを握られているのは明らかだ。

 どういうわけか不幸な死に方をした父と同じ運命を辿ると、俺は思い込んでいる。なんと馬鹿げたことだろう。当の昔にこの世を去った父に今を生きる俺が悪影響を受けているのである。これでは幽霊を怖がる子供と同じではないか。

 俺は今一度自分の在りようを確認した。俺は死者のために生きるべきなのか? いや違う。俺はこの現実世界を身体中に血を巡らせて俺のために生きているのだ。そう父はもうこの世にはいない、存在しない。だから、決して父の呪いにかかってはいけない。父の悪い影響を受けるべきではないのだ。

 しかし、そのことに気づくには代償が大き過ぎた。俺は里美を失ってしまったからだ。あの老舗クラブが摘発された夜から里美との関係はバッツリとかき消えてしまった。


 いつしかアフリカのオリンピックも終わっていた。そんなある日、我が社で管理しているレンタルルームでトラブルがあった。お茶を飲みながらテレビゲームをしていた男性会員のお年寄り二人が殴り合いの喧嘩を始めたのだ。幸い彼らに深刻なケガはなかったが、事後処理に時間がかかった。バトルした二人の家族を呼び出し皆で話し合い仲直りさせた。さらにそこに居合わせた他の会員らへの事情説明で手間取った。スタッフらと今後の対策を練っていたら帰りが深夜になった。

 自宅マンションへ帰ると里美がいた。勝手にシャワーを浴びたらしくパンツとブラジャーしか身に着けていない。彼女はリビングの床にあぐらをかいてデリバリー寿司店の広告チラシを広げ、その上で三種類のタバコを一本いっぽんバラしていた。

「ゴメン」

 まず俺は一言謝って刻まれた葉タバコの山を挟んで里美の前に正座をした。

「爺ちゃん入院しちゃったよ」と、里美は寂しそうに言った。

 そう、確かに里美の祖父がレンタルルームに来なくなって久しい。

「この、タバコをブレンドして吸うやり方、爺ちゃんの直伝なんだ」

 里美が前にある両手いっぱいの葉タバコをかき混ぜながら言う。

「爺ちゃんがね、どんな人生歩もうと六十過ぎて周りの人たちを爆笑させるジョーク言えたらそいつの勝ちだって」

 励ましてくれている。里美は俺を励ましてくれている。本意は解らずとも俺の異変を確かに察知していたのだ。決して俺の救済ポイントを的確に突いていたわけではないけれど。それでも俺は十分元気になった。

 そして里美は葉タバコのかたまりを俺に投げつけた。顔が怒りで歪んでいる。コーヒー豆を挽いたとき出来る粉のようなタバコの葉は俺の顔にぶつけられ一部は汗で貼りついた。匂いが香ばしい。

「私を置いてきぼりにして逃げるな」

「ずっと一人だったんだぞ」

「クソが」

 里美が言い連ねた。

 里美によると老舗クラブのラストナイトはドタバタだったらしい。警察によるガサ入れの情報は直前にラインで回ってきて、それはそれは大騒ぎだったんだと。里美は蜂の巣を突っついたようなフロアを逃げ出し裏の物品庫の窓を蹴破って外に出たという。そして警察から逃れるため終わりなき激走をする羽目になった。それで里美は事なきを得たようだ。

「すまない」

 俺はため息をついて気分を切り替え、ホルストの『ジュピター』を口笛で吹きながら里美のとなりに回り込んだ。

「明日の朝、豚肉のしょうが焼き作ってやるよ」

「え、朝っぱらから?」

 俺がいきなり提案する。そして里美が素っ頓狂に答える。

 俺はそのまま里美をゆっくり押し倒し横になって抱き合い、そのままグルリと回転して彼女の下になった。その拍子で葉タバコがあちこちに散らばる。

「私はまだ許してないよ」

 なぜか里美は泣きそうに言った。

「うん」と俺。

 この女とは長いつき合いになるだろう。だからいつか亡父のことを里美に話すべきだ。そして俺が抱えている問題を正直に告白しよう。もしかすると希望が見いだせるかもしれない。何より俺のネガティブな性格をちゃんと里美に説明しないと誠実じゃないと思う。再び彼女が理由も解らず俺の悪い癖の被害に遭うのは避けなければならない。

 俺は、俺に重い身体を預ける里美をギュッと抱きしめた。

 

 いつしかまたベッドの中で里美に生態系の乱れについて教えてもらう日々が再開した。

 とても満たされた毎日、今、季節は秋に変わりつつある。

 

 最後に一つだけ書き記しておこう。アフリカのオリンピックで100メートルを走った日本人の高校生アスリートについてである。

 彼は予選準決勝を9秒89で走ったが決勝には進めなかった。それでもマスコミのインタビューに「オリンピック直前に亡くなった母のために走った、不本意な結果に終わったが悔いはない」と清々しい表情で語った。彼にはそういう逸話もあったのだ。そしてオリンピックは大盛況で幕を閉じた。。

 俺は世の中の妙を感じた。それでも里美に気づかされた亡き父についてのことは変わらない。

 誰もが100年くらいでこの世を去る。そして死者がこの世に残すものを考えると悩ましいものだ。いずれにせよ幽霊を敬うか恐れるかは生きている俺たちしだいだ。


 そしてある日、俺は亡父の幽霊を見るだろう。彼は暗い部屋の片隅でうなだれさめざめと泣いている。そんな父を抱きしめこう言うのだ。

「お疲れさま、大変だったな、あとは俺に任せてくれ」ってね。


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[一言] はじめまして、 楽しく拝見しました。 今後も良作の短編をお願いします。
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