第一話 入り口
針は午前八時五十分を指している。前原郁也は、しきりに携帯電話を開き時刻を確認している。今はまだ日の高い平日の午前中。そんな時間に駅前のカフェにいるのは主婦や年配の人たちだけで郁也のような若者がいる時間ではない。
郁也の手には、小さなピンクの包みが握られている。綺麗にラッピングされたそれは、郁也が持っているには不釣合いなほどにかわいらしいものだ。だがその包みを見つめる郁也の瞳は陰り、浮かない表情をしている。
郁也の家庭環境は昔から悪かった。両親が離婚したのは、郁也がまだ小学校にあがる前だった。暴力的な母親と家庭をかえりみない父親。双子の妹とは仲が良かったが、恐ろしいほどに妹を溺愛する母親に引き取られていった。
今日は七月七日。七夕であり、郁也の十六回目の誕生日でもあった。そして、大好きな妹の誕生日でもある。郁也が手にしているのは妹への誕生日プレゼントだ。
「郁!」
一年ぶりに聞く優しい声が、郁也の耳に届く。走りよってくるのはピンクのワンピースに身を包んだ茶髪の少女。毛先がくるりと巻き、風によってふわふわとなびく。周囲にいる人々は少女を見て感嘆のため息をつくほどに、妹の姿は美しい。
「久しぶり……」
妹は名前を笹野静姫という。郁也は昔から、妹をシズという愛称で呼んでいた。
「本当に、郁はまた背が伸びた。去年はおんなじくらいだったのにね……」
優しい笑みを浮べて、静姫は郁也と背比べをするように背伸びをする。つま先いっぱいでたつ静姫だが、それでも郁也の背丈には及ばない。
「僕だって成長期なんだから、いつまでもシズと同じではいられないよ」
郁也の言葉に、静姫は表情を曇らせる。
「いろんなことが変わっていってしまうのね」
どうして人は変わらずにいられないのか。
それは幼い二人の心にずっと燻っていた想いだ。
ずっと昔、まだ二人が一緒にくらしていた、ずっとずっと昔だ。
父と母が、大恋愛の末の結婚であったことを聞いたことがあった。それなのに、どうしてその心は変わってしまったのだろう。あんなにも冷え切った家族に触れて、郁也は人を信じられなくなった。
穏やかに笑って見せる静姫の心にも、深い深い傷がある。
「……お父さんは、元気?」
静姫かな声だった。答えがわかっているような、諦めの色をたたえた音。
「ずっと仕事、忙しいみたい……もう一ヶ月くらい、会話なんてしてない」
「……そう」
「うん」
「ねぇ、郁……うちに来る?」
「え?」
「だって、このままじゃ、郁の心が死んじゃうわ」
今にも泣き出しそうな声で、静姫は叫ぶ。会うたびに表情をなくしていく兄を、静姫はずっと見てきた。どうしたら、昔のようにこの兄は笑ってくれるのだろうか。
「僕は、大丈夫だよ」
まるで自分に言い聞かせるように言う郁也に、静姫は何も言わなかった。否、いえなかった。
「それに、あの人は僕のことが嫌いだから……」
郁也の言うあの人とは、母の事だ。静姫にとっては優しい母親だが、なぜか郁也に暴力を振るう。郁也に会うとヒステリックになって静姫の大切な兄を殴るのだ。静姫には優しい顔しか見せないから、失念していた。
「ごめんなさい……」
「いいんだよ、いまさら何も望まないさ……」