後編
こうなってしまったものは仕方がない。
どうする?
逃げるか。
いや、あの状況から逃げ出す方法が思い浮かばない。
じゃあ逆ギレしてみるか。
くしゃみなんて生理現象だ。誰だってするだろう。
いや、あのレスラーは何も悪くない。
謝るか。
実際これ以外他に方法がないな。
しかし謝って許してもらえるものか。
いきなり見ず知らずの男に唾を吹きかけられてレスラーは激怒している。
俺は目を瞑りながら悩んだ。
こうしている間に何度か近くで落下音が聞こえた。
みんな苦労してるんだな・・・。
自分だけが辛いと思っていたが、みんなそれぞれに辛い思いをして生きている。
あのレスラーだって本当は人前で怒鳴りたくなんてなかっただろう。
俺は急に申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
そうだ。
恥ずかしい思いをした以前に俺は他人に迷惑をかけたのだ。
謝罪しなくてはいけない。
素直に謝ろう・・・。
許してもらえなかったらその時はその時だ。
自分が悪いのだから逃げてはいけない。
謝ろう。
そう思った瞬間俺の体はまたしても宙に浮いていた。
今度は間違いなく浮いていた。
霞ゆく視界の中で大仏のおっさんが微笑んでいるのが見えた。
今度は俺も微笑み返した。
頑張れよ、おっさん・・・。
急に視界が明るくなり目の前に悪役レスラーが現れた。
「てめぇ!!黙ってないで謝ったらどうなんだ!!」
大声でレスラーが怒鳴っている。
「この・・・。」
「すみませんでした!!!」
俺はレスラーの怒鳴り声をかき消す程の大声で謝罪した。
思わずレスラーが俺の胸から手を離す。
呆気にとられるレスラーと乗客をよそに俺は勢いよくその場に座り込んだ。
そして床に手をつき頭を下げる。
「本当にすみませんでした!!!!これ使ってください!!」
俺はポケットからハンカチを差し出す。
「わ、分かればいいんだよ!」
レスラーは俺のハンカチで頭を拭くと、次の駅で降りて行った。
「何か調子狂うぜ・・・。」
レスラーが降りて行った後、俺は他の乗客にも謝った。
「お騒がせしてすみませんでした!!」
深々と頭を下げてから俺は堂々と立ち上がり吊り革に掴まった。
もう羞恥心などない。
電車は何事もなかったかのように揺れる。
俺の胸は清々しい気持ちでいっぱいだった。