第九話「炎爪」
決闘の方法はごく極簡素。殺し合いに使うのは、ただ自分の体だけだ。
対峙する吸血鬼と魔人が、間合いを詰め、拳を交わす。
ぐしゃ、ぐしゃ。ナァクの両の拳が、フォルティスの拳がもたらした、限界を超えた衝撃によって、それぞれ肩ごと破壊された音。
ぐしゃ。がら空きになったナァクの胴に、蹴りが突き刺さり、腹腔を粉砕した音。
「が……っは、ァァァ……ッ!」
与えられた強烈な慣性によって、ナァクは大きく後方に吹き飛んだ。ずざざ、としばし地面を引きずられ、こみ上げる血の塊を吐き出す。
「こ……の……ッ!」
ただ自分を映すだけの金の眼に、憎悪の結晶した眼差しを叩きつける、ナァク。その体が、早くも再生を始めた。ぼろ布が、雑巾に、そしてやがては、肌まで修復され、シルクに。
しかし彼女は完全な再生を待たず、佇むフォルティスに跳びかかる。もはやその姿は手負いの獣と変わらない。
ぶつっ。腹の皮膚を裂き、筋繊維を引きちぎって、黒い貫手がナァクの体内に潜り込み、通過して背から生えた。
――イリスの身に起こったことの、寸分違わぬ再現。
「っが……ァ…………ッ!」
激痛に悶える暇もなく振り飛ばされ、地面に激突する。しばしごろごろと転がり、止まった彼女は動かない。人間の尺度で考えれば致命傷だが――
「ち……く……しょ…………!」
ナァクは動き出した。
だが、受けた深手に再生の追いつかないその姿は、まさに満身創痍。瀕死の人間と何ら変わらない。
もう仇敵に対する執念だけが彼女を衝き動かしているのかも知れない。
「ちく……しょ……っく、しょオ……ッ!」
ぎりぎりと歯の削れる音をさせながら、憎悪に満ちた目をフォルティスに向け、這い寄っていく。無造作に蹴られ、再び後退させられるが、それでもなお近付こうとする。
「ころして……やる……殺してやる……っ!」
憑かれたように呪詛を続けるナァクを蹴り転がして仰向けにし、肩を踏みつけるフォルティス。
「く……っそぉ……!」
彼我の力の差は絶望的だった。だが……それでも。
「ただじゃ……終わらないよ……ッ!」
駄目で元々。直後自分が絶命することは解りきっていたが、ナァクはできうる限り硬く鋭い糸を、フォルティスに向けて撃ち出した。
無論、当たらなかった。蓄積されたダメージのせいだろう、最初から軌道は大きくずれており、フォルティスもそれを見越してか、よけようとさえしなかった。
フォルティスが、冷徹に鉤爪を振り下ろす。
「なんて……弱いんだい」
視界いっぱいに広がる爪を見ながらの、ナァクの自嘲。それが彼女の遺言に――ならなかった。
ナァクの頭をただの挽き肉に変え、周囲に撒き散らすはずの爪が、なぜか的を逸れ、脇のアスファルトをえぐるにとどまったのである。
「……え?」
飛び散った破片でいくつかの傷を受けつつ、思わず間の抜けた声を漏らすナァク。
自分に覆いかぶさるような格好で、フォルティスが凍りついている。
「これ……は……」
フォルティスが、初めて言葉を発した。その金の眼には、今まで全く見られなかった情動が宿っている。
「オレ……は……そう、か……思い出した……ぞ」
「……余裕かい?フォルティス。余裕こき過ぎると足元すくわれるよっ!」
隙だらけのフォルティスに向けて、ナァクは幾重にも重なり合った切れ味鋭い網を放った。外しようのない至近距離からの攻撃だったが、まだやはりナァクが万全ではないこともあってか、フォルティスはそれすらもかわして跳躍し、いくらか間合いをとって着地した。
「……一応訊いとこうか。どうしてそこまでしてオレを殺そうとするんだ? 捨て身だろ?」
「あんたにゃ……解らないだろうさ。あいつが……、アトラッハがいないんなら、これ以上生きてる意味なんてないんだよ」
「知らねえな、そんなくっだらねえ理屈。覚えとけ。てめえの仇はフォルティスなんて名前じゃねえ。「影山銀」だ」
「必要ないね! 決着はここでづ――!」
跳びかかったそばから腕の一振りで跳ね飛ばされ、ナァクは再び地面に激突した。それを成した銀は、最初から半歩たりとも動いていない。もはや攻防でさえなかった。
「焦んじゃねえよ。せっかく見逃してやるって言ってんだから」
「……なん、だって……!?」
「へえ、怒ったのか? ならどうする? どうせ今のままじゃ何やってもムダだけどな」
「くっ……!」
「せいぜい強くなるんだな。その時はちゃんと殺してやるから安心しろ。……ただし、こいつには手を出すんじゃねえぞ。もし出せば――」
イリスを振り返ってこちらへ戻ってきた、銀の眼差しをまともに受けたナァクの全身を、ぞくっ、と寒気が蝕み、呪縛した。
震えが止まらない。
(なっ……このアタシが……怯えてる!?)
「腹の肉をちぎって剥き出した内臓を引っかき回した後、すり潰した脳みそと混ぜ合わせて道路に擦り込んでやる」
おぞましい行為を語る平静そのものの口調が、ナァクの確信を導いた。
こいつは、やる。
「……覚えておいで! 必ず! 必ずだ! お前は殺してやる!」
吐き捨てて、ナァクは夜の闇の中に消えていった。
「……あー気分悪い。さーて具合は……っと」
後姿を見送り、今までの凶猛な気配を一瞬で消し去って呟くと、銀はイリスの傍らで膝を折った――が、不意に異様な感覚を覚え、とっさに彼女を抱え横に跳ぶ。
直後、白い炎が彼らの一瞬前までいた場所を薙ぎ払い、そこに刀剣同然に大きく鋭い霜柱を生み出して氷の剣山へと変える。
「なんだ!?」
炎の飛来した先。民家の屋根には、全身を甲殻で鎧い、頭部に長い銀髪と金の眼を持つ異形があった。
黒い鬼である銀に似ているが、銀髪はやや薄青がかり、外殻は対照的な純白。腹部には青い珠が輝き、背からは天女の羽衣を思わせるヴェールが、幾重にも重なり合って一対の翼状に広がっている。
全体的に、銀より線が細い。銀を「鬼」と呼ぶならば、それは「精霊」だろうか。
「……オレ以外の、フォルティス……?」
「フォルティス=エンキ」
銀の前に降り立ち、白いフォルティスはそう名乗った。
後に中東の伝承に取り込まれ旧約聖書に記されることとなる、古代シュメールの洪水伝説。その中で洪水の到来を告げた、知恵を司る有翼神。一説に「天使」という形態の原型ともされる存在。それが「エンキ」だ。
名乗った白いフォルティスの周囲に、ゆらめく白い鬼火がいくつも現れた。
(い、た……痛い……?)
激しい感覚が、ぼやけていた意識を呼び覚ます。
自分はまだ、現世にいるらしい。
(また……生き延びてしまったの……)
ゆっくりと、目を開く。
既に傷は跡形もなかった。全ての能力が落ち込む時期であっても、この肉体が苦痛を感じなくなる――生命活動を止める――ことは、ない。自分の命は、自分自身の体調には一切関係ない、ある楔によって、現世に繋ぎ留められている。
「……え?」
傷一つない肌を正視できず背けた目に飛び込んで来たのは、赫く灼けつく雷の黒と、白く凍てつく炎の白と……二人の魔人の戦いだった。
片方は……銀だろう。ほんの一瞬でしかないが、闇色の面影を覚えている。
しかし、ならばあの白い存在は?
アトラッハの「蜘蛛」のような、特定の生物の属性が、ない。自分の知っている限り、そんな存在はフォルティスだけのはずだ。
「そんな? フォルティスが、そう簡単に発現するはずは……。一体……どういうこと?」
極低温の白い炎――言うなれば『凍炎』――に追い詰められ、銀は態勢を立て直すべく大きく後方に跳んだ。そこに生まれた隙を逃さず、迫った『エンキ』が、甲殻をものともせずに鉤爪で銀の胸をえぐる。
「っぐ……ぬああぁっ!」
反撃として放たれた赫い雷――言わば『灼雷』――をも難なくかわし、エンキは間合いをとり直した。
「くっ……」
月の光を浴びたこの身に力がみなぎっているのが解る。再生力もまたしか然り。既にその傷は塞がり、ダメージとしては計上できないが、向こうも自分と同じフォルティスだ、こちらが一撃を加えたとしても、同様にほぼ無意味だろう。
あるいは『灼雷』や『凍炎』ならばその恐るべき再生速度を凌駕しうるのかも知れないが。
エンキが両腕を広げた。その周囲に、白い鬼火の群れが瞬時に生まれ、襲い来る。
銀も『灼雷』の矢を連続で撃ち出した。
ナァクとの顛末で自我を取り戻した際、アトラッハやナァクと対峙した記憶が戻ってきていたが、実質的にはこれが初陣だ。複数を一度に生み出す技術はまだない。
『灼雷』と『凍炎』のただ中を突っ込んでくるエンキ。その右腕を覆うように、ぱきぱきと音を立てて、白い冷気をまとう水晶の槍が生まれた。
見る者が見れば、それは「突撃槍」と呼ばれる、中世の騎士が馬上で扱う武器に似ていることに気付いただろう。
「ちいぃっ……!」
そんなもんで串刺しにされるなんて冗談じゃねえぞ、と銀は『灼雷』を乱射したが、それらの全てが『槍』には一方的に打ち消され霧散してしまう。
反撃そのものを隙として迫った『槍』の切っ先はすぐ銀の鼻先に来ていた。
(……死ぬ?)
記憶と、空想と。忌まわしい映像が、脳裡をちらつく。そして最後に浮かんだのは……儚く小さな背中。
(……死ねない――死ねるか! ここでオレが死んだら、あいつは……!)
真紅が、燃え上がる。
かりん、と。透き通った音を立てて『槍』は『鉤爪』によって受け止められていた。
もっとも「受け止める」という表現は必ずしも正確ではない。『槍』と『爪』の間には若干の空隙がある。
それは、銀自身の爪を延長し、左腕全体を覆う形で発現した超常の腕甲。
「……よくわかんねえけど、これで、土俵は同じだ……!」
優美な音を立てて真紅の爪が水晶の槍を弾き――それきりだった。エンキがそれ以上の戦いを放棄したのである。
降り注ぐ月光に溶け消える、白い有翼の後姿。
「なっ……」
あっけにとられはしたものの、これ以上戦わないで済んだのは僥倖だろう。もはやその時点で銀に余力は残っておらず、変身は緊張と同時に解けてしまっていた。
――意識が、闇に沈む。
疲れきって力なく倒れ込む銀の体を、横合いから差し出された腕がそっと抱き留めた。