第五話「灼雷」
それは、「鬼」と呼ばれる存在に似ていた。
全身を鎧う外骨格、額の一対の角、指先から伸びる鉤爪、それら全てが夜の闇よりなお深い漆黒。
対照的に、背丈とほぼ等しく伸びた長い髪は、まばゆいばかりの白銀。腹部では禍々しい赫の珠がぼんやりとした輝きを放ち、立ち尽くすアトラッハを見つめる金の眼に、感情はない。
「フォルティスだとォ……冗談じゃねえぞォ、おい……ありえねェ……ありえねんだよォぉッ!」
叫びと共に糸の束を吐き出すアトラッハ。
何の変哲もない蜘蛛の糸でも、同じ太さの鋼線を凌ぐ強靭さを持つ。ましてアトラッハは等身大の蜘蛛である。もはやそれは、人の想像の及ばない切れ味を持っていた。
フォルティスの腹の珠が、わけもなく人を不安にさせる輝きを放つ。同時に振り抜かれた手から、炎の揺らめきを伴う赫い雷がほとばしり、糸の奔流をあっけなく蒸発させ、さらに、射線上にあったアトラッハの半身を焼き焦がす。
「っがあああァっ!」
苦鳴をあげてよろめくアトラッハとの間合いを詰め、拳を振りかぶるフォルティス。
「ちぃっ!」
アトラッハが、半身の炭化した姿からは想像もできない機敏さを発揮し、それを危ういところで避ける。
火傷とさえ表現できない傷の表面に、赤い肉がにじみ出し、瞬く間に広がる。もう再生を始めているのだ。
恐るべき生命力。人知を超えているのはうわべだけではないらしい。
轟音! アトラッハがほんの一瞬前までいたところに、フォルティスの拳を中心にした巨大なクレーターが穿たれた。
「ばっ……バケモ、がふぅっ!」
すぐさま体勢を立て直したフォルティスの裏拳が、戦慄するアトラッハの顔面にめり込み、吹き飛ばした。
「ぐぅはぁぁっ!」
猛烈な勢いで飛び石と化し、地面に途切れがちな深い溝を残して止まったアトラッハの視界に、イリスが入った。
「な……なんだァ!?」
小柄な体、その四肢が不自然に踊っている。体内では激烈な変化が起こっているらしく、骨や筋肉がきしみを上げ、それらによって手足が意思によらない異様な動きを見せているのだ。
どくん、どくん……という脈動。それはイリスの体内から、フォルティスの腹の珠から、重なって聞こえていた。
「ま……さか、共鳴してやがるのか!? 冗談じゃねェっ!」
アトラッハは逃走に転じた。自分とは桁違いの脅威に、さらに援軍などがあってはたまらない。
だが……彼が背を向けた時点で既に、フォルティスは先程放った赫い雷の発射準備を終えていた。
超高熱の顕現。アトラッハは断末魔の声を発することさえできぬまま地上から消滅させられた。
それは余計な予備動作を伴うだけあって、同じものではあっても、先程とは比べ物にもならない威力を持っていたのである。
戦いとも呼べぬ一方的な示威を終えると、フォルティスはイリスの元へと歩み寄り、彼女を抱き上げた。
イリスの目がふと開かれ、黒銀の鬼を捉える。
「ぎ……ん……?」
たどたどしく言葉をつむ紡ぎ、自分に触れている感触が現実のものだと確認し、安心したのか、イリスは表情を緩め、再び脱力した。
「……ん?」
目が覚めてみると、若い女の顔がすぐ目の前から離れていくところだった。
「おはよう、王子様」
はにかんだような表情で顔をほころばせる女。なぜか、その顔には見覚えがあるような気がした。
そうだ。ずっと夢に見続けていた『三日月の女』と全く同じ姿。
「オレ……まだ、夢見てんのか?」
身を起こし、きれいに片付いた自室を見回してぼんやり呟く銀。
考えてみれば記憶もひどくあいまいだ。蜘蛛男と対峙し、あっけなくやられたような気もするが、それにしては体に痛みがないし、いつベッドに戻っていたのかも判らない。
「そう、ね……まだ、寝ぼけているようだわ」
「おまえ誰だ?」
それは意外な問いだったらしく、女はバランスを崩してずっこけた。弾みで額と額がごちんと音を立ててぶつかる。
「いてて……」
「いたた……」
そろって痛そうに打った場所をさする二人。
「……私よ。イリス」
「嘘つけ。あのロリガキ……に似てないこともないか」
いかにも「女の子」なメゾソプラノと、しっとり柔らかなアルト。声を初め、身長も体型も、どう見たって別人だ……が、よく考えたら、髪は銀色、瞳の色は深い青。大ざっぱな輪郭は同じで、口調や態度には覚えがある。
「ろ……ロリガキ……」
「……! あのバカどこ行きやがった!」
あまりにも素直過ぎる表現に絶句する自称イリスを尻目に、銀は跳ね起きていた。寝起きで鈍っていた頭に、昨晩の出来事が鮮明に蘇る。
「勝手に人をかばって死ぬなんて許さねえぞ!」
「待って」
部屋を飛び出そうとする銀の腕を、女がとっさにつかむ。細腕に似合わぬ力で引き止められた結果、べしゃっと鈍い音を立てて、銀の顔面は床を直撃していた。
「…………。てめ何しやがんでえ!」
衝撃で呆けるのも束の間、すぐさま復活し、女にくってかかる銀。
「だから、大丈夫よ。さっきから言っているでしょう? 私が、その……バカなの」
「え……」
しばし、女の顔を凝視。にらめっこの末、銀は訊いた。
「いつの間に育ったんだよ……」
既に非常識なことばかり体験している身だ、もはや驚くなどという無意味なことはしても仕方がない。
「これが私の本来の姿なの」
「へ?」
「満月の前後三日間、私は力を失ってしまうわ。そしてあなたと会う前の晩、満月前夜に、あの蜘蛛男に腰から下を吹き飛ばされてしまったのよ。死にこそしなかったけれど、体が足りなかったから、あの姿になるしかなかったの。消耗が激しくて、周りの人たちにも随分迷惑をかけてしまったわね」
困ったようにうつむくイリス。
「……! 二つともおまえだったのか……」
猟奇殺人事件と集団貧血事件の真相を知り、銀は呆然とつぶやいた。言うことはいかにも痛そうだが、それから平然と生還してくるあたりがまた尋常ではない。さすがは吸血鬼。
「なぜ戻れたかは私にもよく解らないけれど、そうやって訊くということは……覚えていないの?」
「なんのこった?」
「そう……。なら、教えてあげるわ」
事情が飲み込めず、首をかしげることしかできずにいる銀に、イリスは説明を始めた。
「簡単に言うと、私の体の中には「リリト」と呼ばれる一種のウイルスがあるの」
「ウイルス? 体壊さないのか?」
「生まれつきのものよ。私自身の体には何の影響もないの。それは直接私の血に触れない限りは感染しないけれど、一旦感染すれば、感染者は強力な治癒能力を得る」
「すげえな。おまえの血はすごい薬なのか」
「いいえ。毒よ。その治癒能力の源は、本人の寿命。新陳代謝が急加速し、身体能力そのものも超人になるけれど、理性はなくなり、外見も怪物そのものになり、長くは持たない。けれど一つだけ、薬にする方法はある。仮説だけれどね。リリトは感染者の体を私自身と同調させる。つまり、リリトが定着しきる前に私が死ねば、その時点までで感染者から私の影響は消え、傷がふさがるという結果が残るはず。私はそれを試そうとした」
「あのときの……その、キスか」
「ええ」
「でも、オレもおまえもこうして無事だよな」
「あなたが、特別だったの」
なぜかそこで、イリスはうつむいた。
「特別?」
「銀の体はリリトに適応した。今のあなたは獣化原種、強きものと呼ばれる存在よ……たぶん、今までよりも身体能力は上がっているし、傷の治りもずっと早いはず。覚えていないかもしれないけれど、銀はフォルティスとしての姿に変身して、あのアトラッハを倒し、私を助けてくれた」
イリスの表情は暗い。が、銀にそれに気付かない。
「あの怪人たぁ違うのか?」
「ええ。同じウイルスが発端になっているけれど、違うわ。あれは、ウイルスを応用して異種の遺伝子を組み込まれた、猛きものと呼ばれる強化兵士」
「ふーん……」
よく解ったわけではないが、とりあえず頷く銀。だが、そんなのんきな様子を見て、イリスの表情がさらに翳った。
「……ごめんなさい、銀。生き延びてしまったせいで、あなたを人間以外のモノに変えてしまった……。今からでも遅くない。人間に戻りたいなら、私を殺して」
視線をそらし、腕を広げる。
「……ああ、あの時の言葉ってそういう意味だったのか」
イリスの行動に戸惑い、彼女の放った『殺されてもいい』という言葉を思い出した銀は納得してうなずいた。
(って……おいおいおい、マジか?)
ふとしたことに気付き、真っ赤になる。
半ばいやいやだったが、イリスとは今まで随分べたべたしてきた。まるで興味を持てなかった幼女の正体が、実はこんな美人だったとなると……困る。非常に、困る。
銀の葛藤など知るよしもなく、真面目に思いつめていたイリスは、反応の薄さが気になり、銀に視線を戻した。
「何とも……思わないの?」
「ん? ……あ、ああ、そうだな……どっちかってえと、嬉しいかな」
「うれ、しい……?」
わけが解らず、小首をかしげる。恨まれこそすれ、感謝される筋合いはない。
「自分じゃ覚えてねえけど、オレは変身した後、おまえを護ったんだろ? オレにとっちゃそれで充分だ」
「えっ……」
見る間にイリスの頬が桜色に染まってゆく。
「……オレ、なんか変なこと言ったか?」
当然といえば当然なイリスの反応に、怪訝な顔をする銀。
台詞だけなら愛の告白以外の何物でもないが、別に銀はイリスだけを護りたいと思っていたわけではなかった。
「ええと……その……朝御飯、できているから」
「変な奴……」
意識の差ゆえ、赤くなってそそくさと立ち去ったイリスを評した銀の感想はその程度だった。
「……よく考えたら、あっさりなじんでるな、オレら」
着替えを済まし、つぶやく。
成り行きのまま、気が付いたら同棲状態。それほど互いによく知り合っているというわけでもないのだが。
ウマが合う、というやつだろうか。
「ま、いいか。あいつのメシうまいし」
単純に割り切ると、銀はぽりぽり頭をかきながら階下へ降りて行った。