第四話「傷痕」
金色に燃える真円の下、人気のない暗がりを駆け抜けてゆく、小柄な影が一つ。
白いティーシャツに、スカート代わりの薄緑のシャツ、そして、長くくせのない白金の髪。イリスである。
広々とした公園の奥にある深い森の中で足を止め、前を見据える。
「つくづく呆れた生命力だぜェ」
イリスの視線を受け、スキンヘッドの男が物陰から現れる。
「体半分ちぎられても再生してやがる。ガキの姿なのは肉が足りないせいかァ?」
舐めまわすようにイリスの全身を観察しながらそう言った。
「随分とまたいやらしい呼び出し方をしてくれたものね、アトラッハ」
「いやらしい? 何がだァ?」
「わざわざ彼の鼻先に、私と同じ姿の人形を落としたこと。あれが脅し以外の何だというの?」
「やぁっぱりあんたの男だったか。に……してもよォ、その窮屈そうなナリでおとせる辺り、よっぽど「小せェ」んだなァ」
男――アトラッハはイリスの腰に視線を落とし、下卑た嗤いを浮かべた。
「……どうして、そっとしておいてくれないの」
イリスの表情は、ただ静かな哀しみに沈んでいる。
「この世にたった一体の貴重な実験材料をほっとくわけがねェーだろブヮーカ」
楽しげに、か細い問いを踏みにじるように、げらげらと嗤う。
「ってわけでェ、決めなァ。俺と戻って生き長らえるか、ここで死ぬかよォ。極論「入れ物」なんざ、いつどこで壊れたって関係ねえってお達しだからなァ」
「三番目……あなたを斃して行方をくらませる」
真顔になって向き直ったアトラッハに対して、イリスはきっぱり言い放った。アトラッハの嗤いが深くなる。
「ヒへはははははッ! そうかよォ! そうこないとなァ! 実を言うとなァァ、俺もその返事を待ってたんだぜェ」
腕を左右に広げた男の全身に力がこもり、大きく震えた。抑えきれない、獣じみたうな唸りが、噛み合った歯の隙間から漏れる。
内からの圧力に抗しきれず、男のまとっていたトレンチコートが音を立てて裂け、弾ける。
外気に触れたのは、人の肌ではなく。赤黒い鎧――否、外骨格。
「この体がどれだけ使えるか、知りたかったからなァァ。それとォ……」
八つの眼、六本の腕。阿修羅像に「蟲」の醜悪な誇張を加えたような、蜘蛛と人類の融合体と化したアトラッハが、口の触指をいやらしくうごめかせながら言った。
「俺の守備範囲はこう見えて結構広いんでなァ。好きに犯らせてもらうぜェ……」
おぞましい姿にもまして、元からのねちっこい口調が余計に嫌悪感をあおる。
「生憎ね。私は強いわよ」
「本来の姿なら、だろォ? さあァ……殺るかァ……」
思わせぶりにアトラッハが一歩踏み出し。
「勧・善・懲・悪ぅっ!」
「ぐっはあぁッ!」
突如横合いから乱入した何者かの靴底が、アトラッハの顔面を襲った。思わぬ伏兵にとっさに対処しきれず、直撃を食らってよろめくアトラッハ。
「悪の匂いがしたから来てみれば……悪の秘密結社って本当にあったらしいな」
「ぎっ……銀!?」
はためく赤マフラーを見て思わず声を上げるイリス。
いきなり現れて特撮ヒーローマニアじみた台詞を吐いたのは、影山銀その人だったのである。
「……あ!」
何でオレの名前を? と言いたげに声の主を振り返り、銀はようやくそれがイリスだったことに気付いた。
「ちょうどいいや。これおまえのだろ?」
言って、懐から取り出した漆塗りの古びたかんざしを放る。イリスの去っていった後に落ちていたものだ。
「あ、ええ、ありがとう……」
それはやはりイリスの、しかも大事なものだったらしく、彼女は受け取ると大切に胸に抱きしめた。
「さて!」
びしっ! とアトラッハを指差す銀。
「残念ながら、正義の味方って奴ぁ実在しねえんだよな。だから、てめえの相手はオレがする!」
「銀、やめて! 自殺行為だわ!」
イリスが必死に銀の腕を引き、止めようとするが、銀の方には全く構う様子がない。
「うっせえ。がきんちょをこんなのの前にほっとくのは、オレの心に燃えたぎる正義の炎が許さねえんだよ!」
「面白ェじゃねえかァ。度胸は認めてやるけどよォ、てめえも所詮はヒト。俺らウァリドゥスと戦おうとすることがどれだけ無謀かってこと、じぃっくり教えてやるぜェェ」
「顔にくっきり靴跡付けながら格好つけんなバカタレ!」
「……このクソがあァっ!」
見下している相手につっこまれ、逆上したアトラッハが咆哮を上げ銀に襲いかかる。
「来いやぁぁぁっ!」
咆哮で応え、銀も背中の竹刀袋から木刀を引き抜き突進した。
「凄い…………」
呆然と、イリスは呟いた。
実際、銀は六本もの腕を持つアトラッハ相手に、木刀と拳、蹴り足だけで、さすがに互角とまではいかないものの、打ち合って見せたのである。
だが――それも長くは続かなかった。ある時を境にして瞬く間に劣勢となり、連打を浴びる。
やはり、最終的な筋力や体力では圧倒的な差があったのである。
「ぐっ……」
血と汗を散らしながら数メートル先に吹き飛び、大の字に倒れ込む銀。少し離れたところに、跳ね飛ばされた木刀が突き刺さった。
「思い知ったかぁ、カスがァ!」
勝ち誇って言うアトラッハ。
「銀っ!」
「どぉこ見てんだよォ、イィリィスゥゥ」
銀の元へ駆け寄ろうとするイリスを、アトラッハが嗤いながら蹴り飛ばす。小さく華奢な体はあっけなく吹き飛び、叩きつけられた先の地面で弾み、激しく転がる。
「野っ郎ぉ……」
その様を見て、銀が傷だらけの体を起こす。足元をふらつかせながらも立ち上がり、拳を握る。
「頑丈なやつだなァ……壊し甲斐があるぜェ……」
喜々として歩み寄るアトラッハに、しかし銀は何もできない。殴られながらも、ただ立っているだけ。
「ちくしょう……」
「ぎゃははははは! なんだよォ、それはァよォ!」
のろのろと進む拳をわざと受け、哄笑を上げながら、更なる力で銀を打ちのめすアトラッハ。
「いい加減、寝ときなァ!」
とどめの一撃を受け、銀は再び吹き飛ばされた。痛覚ももはや麻痺してしまっているらしく、意識できたのは落下の衝撃だけだった。
かなりのダメージらしく、もう体が動かない。
どうやら偶然にも近くに飛ばされていたらしく、イリスの顔が薄暗い視界にひょこんと入ってきた。
ぼろぼろだ。泥にまみれ、切れた唇は血で濡れている。
「…………あなた、馬鹿だわ」
銀の顔を見下ろし、イリスは呟いた。
「けっ…………ほっとけ……」
「私の素性を……知って、体を、張ってくれた……あなたで……三人目。……あなたになら……殺されてもいい」
放たれた不穏な言葉が鈍った頭に認識されるより前に、イリスは銀の上に倒れ込んだ。
柔らかい感触だけが、やけにはっきりと感じられた。
鉄の味が……入って来る……。
その様を見、アトラッハが呆れたような声を発する。
「オイオイオイ、正気かイリスゥ? 人間がリリトに感染したら、あっさり寿命使い切って死ぬぞオイ? とどめでも刺す気かァ?」
「あなた、最初から……私、殺す気じゃない。自滅、前……私が死ねば、いい。せめて……彼……生き延び、られ、まで……私、が……時間、を……っ!」
背後のアトラッハに、頼りなくふらつく足を懸命に踏みしめ、歩み寄ろうとするイリス。
「やめ……こら……行くなよ……」
止めようとする銀だったが、かすれた声しか出なかった。
「……いいぜェ。思う存分に面白おかしくいたぶらせてもらおうじゃねえかァ。そぉだァ……とどめはァ、そのガキが自分の血のせいで死ぬのを見せてからにしてやるよォ……うひゃひゃひゃひゃァッ!」
アトラッハの哄笑を伴奏に、凄惨なダンスが始まった。そして、瀕死の銀はそれをただ見ていることしかできなかった。
目の前で傷つく少女。小さな体から、おびただしい量の真っ赤なしぶきが飛び散る。
――起こっていることを、自分には止められない。
目の前で傷ついた女。倒れた細い体の下から、真っ赤な水たまりがとめどなく広がる。
――起こったことを、自分には止められなかった。
いつしか、銀の視界には、別の、しかしよく似た映像が重なっていた。
「あ……あ、あ……あぁ……!」
体が動かず、目をそ逸らすことさえできないのに、なぜ涙だけは一人前に流せるのか。無力な自分がただ歯がゆく、呪わしかった。
どうして、また。
倒れ込むことすら許されず、暴力にさらされ続ける少女。それは、影山銀をかばってのものだ。
もう、見たくなかったのに。
力がほしい。何も見殺しにしない、速い足。届く手。強い力が、ほしい。
焼け付くような渇望を最後に、銀の視界は暗転した。
「そろそろ終わりにするかァ?」
もはや虫の息のイリスを、長い髪をつかんでぶら下げ、アトラッハはつぶやいた。
「さあァてェ……ガキの具合はどうだろうなァ……?」
銀の方を振り返ろうとした、その時。
どくん。脈動と共にイリスの体が揺れた。
「?」
動きを停め、イリスに目を向けるアトラッハ――その腕が消し飛んだ。
支えを失い、イリスが蜘蛛の腕ごと地面に投げ出される。
「があぁっ! て……てめェはっ!?」
苦鳴を上げて振り返った先には――