第三話「剣心」
堅い音を立て、木刀と木刀とがぶつかり合う。
「いいねえ」
呟いたのは、互いに飛び退き、間合いを取り直して対峙する、袴姿の剣士の一人。笑顔が地らしく、目の細い、なんとものどかな風貌の青年である。
「前よりも随分太刀筋に伸びが出てきてるよ。油断してると僕も危ないなぁ。あはは」
「そりゃ無傷で何発も入れといて言うせりふ台詞じゃねーだろ、篤郎さん……」
ぼやくもう一人の首には、相変わらずの真紅のマフラー。もちろん、銀である。
「いやあ、恥ずかしながら、一旦勝負に入ると、僕は性格変わっちゃうから。基礎体力と反射神経だけでついてくる銀くんの方が凄いよ」
青年の名は、和泉篤郎という。銀とは旧知の仲であり、この和泉一心流道場の主を務める剣術師範でもある。
「もう一丁ぉ!」
「うん、いいよ」
再び、木刀が唸りを上げてぶつかり合う、激しい剣戟が始まった。
「だぁりゃあぁぁぁっ!」
剣術と呼ぶには荒削りすぎる、まっすぐな銀の木刀さばき。それは、整った型を保っている篤郎のそれと、左右が対称姿勢も対照、と同音異義を体現し、レベルでもかなりの精度で迫っていた。
だが、やはり凌駕というまでには及ばないらしく、いま未だ有効打はなく、逆に篤郎の斬撃は防御の隙をくぐり抜けて銀に届いている。
「でぇい! ちくしょー!」
「うーん……やっぱり凄い」
猪突猛進、という言葉を体現する銀の勢いに素直に驚く篤郎。だが、その万年笑顔のせいで何を考えているか自体判らず、余裕を見せつけているようにしか見えない。
「そろそろ、終わろうか」
その言葉が放たれた時点で。外見からは想像もつかない鋭い一撃が銀を襲っていた。
「でっ! ち……っきしょーっ!」
格闘ゲームの決着よろしく、くやしがりつつ大きく後方に吹っ飛ぶ銀。
それでも、とんでもない速度で迫った横薙ぎに反応し、とっさにそれを受けたこと自体十分驚嘆に値する。普通なら、気付くことさえもできずに深手を負っているところだ。刃がついていないとはいえ、木刀の殺傷能力は決して低くない。
「ありゃぁ……大丈夫かい、銀くん?」
「大丈夫じゃねー……素人に本気出すなよ……」
力尽き、大の字になったままぼやく銀であった。
何となく暇な気がして、銀が放課後道場へ来てみると、門下生が少ないせいで、やっぱり暇そうな篤郎が、道場で一人ぼーっとしていた。
こうして二人の都合と気分とが互いに一致する時に「稽古」とは名ばかりのしごきが始まるのだ。
「お疲れ。はいこれ」
「お、ありがと」
投げ渡されたスポーツドリンクのペットボトルのふたを開けるなり、あらかた一気に流し込む。
「っはー、汗かいた後の水分補給ってないいもんだぜ!」
「あはは。そうだね」
篤郎はあくまでまともに、くいっと一口。だが、さっきまでの運動量を考えれば、こちらも普通とは言いがたい。
「あ、そういえば……」
「ん?」
「また喧嘩のうわさを聞いたよ」
「……信用ねえなあ。全部素手だよ。『鞘のない刀は持ち主も傷つける』だろ?」
かつて聴かされた、力に対する自制の心得をそらんじてみせる銀。
「疑ってごめんよ。それなら問題ない。むしろ完璧だ。あの頃とは見違えそうだよ」
「やめてくれよ、恥ずかしい」
端的な表現でも充分通じるのだろう、銀はす拗ねたようにそっぽを向いた。
「ところで、彼女でもできた?」
「!」
不意打ちに、思わずぶぅっ! と噴き出す。
「げぇほ、げほっ! い、いきなりなに言い出すんだよ!」
「あはは、ごめん。急に剣の質が変わって見えたからね。たとえて言えば、「剣豪」が「騎士」に、ってくらい」
「なんだそりゃ?」
「まあ、言ったって照れるだろうし、やめとくよ。あはは」
「そこまで言っといてそりゃねーだろ」
くってかかるものの、体力の消耗が激しいせいで力尽き、ばったりと途中で倒れ伏す。
「ちくしょー……疲れたぜ……」
「大丈夫? 雨も降り出したようだし……なんだったら、泊まっていくかい? 学校もあるだろうから、早起きしなくちゃいけないだろうけど」
屋根を叩く雨粒の音に天井を見上げ、篤郎が訊く。銀の一人暮らしは先刻承知だ。
「いや、帰る。用事があんだ。じゃ、ありがとうございましたっ」
「うん、ありがとうね。気を付けて」
「うっす」
重い体を引きずって銀は立ち上がった。
(……あのクソガキ……)
泊まるか、と訊かれた時に、結局今朝も自分のベッドの中で拝むことになってしまった面影が頭をよぎったのが、なんだかしゃくだった。
憮然とした顔で着替えを済まし、道場の玄関を開ける。
「……おいおい……」
土砂降りだった。
「……仕方ねえな」
いまさらになって、戻って「傘貸してください」などと言うのも格好悪く思え、銀は勢いよく足を踏み出し――
「銀」
「へ」
不意に聞こえた、覚えのあるメゾソプラノに気をとられ、体は勢いがついているのに、足は止まっている。必然、銀は目前の水たまりに上半身まるごと突撃する羽目になった。
「ぶわっはー!」
「……大丈夫?」
「大丈夫なわけ……って、なんでおまえがこんなとこにいるんだ?」
傍らで傘を差しかけているイリスの存在に気付き、銀はぶるぶると水を振り払いつつ、目を丸くした。
「あなたのマフラー、見た人は全員覚えていたわ」
こともなげに言うイリス。
銀の通った道筋を人づてに訊いてたどって来た、ということらしい。確かに、年中赤いマフラーをなびかせて走り回っているような人物はそうそういない。
「で、何の用だよ」
「こんな天気でしょう? ちょっと心配になって。でも、私の背丈ではあなたまで入れてあげられないから、あなたが持ってちょうだい」
そう言って、傘を手渡す。
「ああ、ありがとよ……って、あれ?なんで自分の分は持って来なかったんだ?」
「銀が入れてくれれば済むじゃない」
「……しょうがねえな」
そんなこんなで、二人は歩き出した。
話題もなく、しばらく無言で歩いているうちに、ふと、イリスは気付いた。
自分に接していない側の銀の半身が、傘からはみ出してびしょびしょに濡れている。そしてその分、イリスに割り当てられている面積には余裕がある。
(私……を?)
黙っていられず、イリスは銀の手を引き、腕をからめた。こうすれば、密着する分だけ各々に必要な面積そのものが小さくなる。
「これなら、あなたもあまり濡れないでしょう?」
訝しげに見下ろす銀に、言う。
「はあ?」
半ば呆れ顔で問い返す銀。自分の半身が濡れていることなど最初から意識にないらしく、反応はそれだけだった。
(……地、なのね……優しいのは)
イリスの口元から、笑みがこぼれた。
「気味の悪い奴だな……お、今夜は満月か」
薄くなり始めた雨雲を透かして見える金色の光を見、銀が呟く。
「……銀、浦島太郎のお話、知っている?」
ふと思い出したように、イリスが訊く。
「ああ。そういやおまえ、なんでそうやたらと日本のことに詳しいんだ? 作るのも味噌汁だし……」
しかもだしをとることから始める本格派。手馴れているだけでなく実際に美味い。
「それは、秘密。ねえ、地上に戻ってきたとき、浦島太郎は一体何を思ったのかしらね?」
「んー、時間だけが過ぎてた、って話だったよな。……知ってるやつがみんな老けるか死ぬかしてて、やっぱ寂しかったんじゃねーか?」
「でしょうね。自分の存在を知る者が残らず死んでしまえば、例え実際に生きていても、いないのと同じことになってしまう……」
どこか虚ろな表情で呟くイリス――と、銀の前に何かが降って来た。
「……なんじゃこりゃ」
それは、下半身がもぎ取られて失われた着せ替え人形。手にとった銀が首をかしげたのも無理はない。だが、逆にイリスの表情はそれを見て変わった。
「……銀。急にお腹がすいたから、行って来るわね」
「ああ。……夜は寒いんだから風邪ひくんじゃねーぞ。看病なんて面倒くせーことしたかねーからな」
銀はいやそうに言ったが、その時点で「風邪ひいたら看病する」という発想があるのが見てとれる。
多分、なんだかんだ言いつつ、いざとなれば何とかしてくれるのだろう。そう思うとイリスはなんだかおかしかった。
「ねえ、銀……私の名前、呼んでくれない?」
「ああ?」
「いいでしょう? 減るものでもないのだし」
「いきなり変な……いや、元から変か。……「イリス」。これでいいだろ」
「ええ、充分。ありがとう、銀。憶えていてくれて」
微笑むと、イリスは夜の闇の中へと消えていった。