第十九話「脅威」
チャイムが鳴ってほどなく、玄関のドアが開いた。
「どなた――」
顔を出したところで、黒猫を抱いたメイドの姿を認め、イリスは目を細めた。
「あなたは……確か、ベルン。ということは、その猫はさしずめヴァルターの端末というところかしら。普通の吸血鬼は自分の体組織を使って、手持ちの遺伝情報を再現できるのだものね」
「相違ない」
ベルンに抱かれている黒猫が、口を開き、肯定する。
「……一応訊かせてもらうけれど、何の用かしら」
「銀様はいらっしゃいますか?」
それを聞いたイリスの眉が、わずかに動いた。
「そう。道理であなたから銀の血の匂いがするわけだわ。昨日彼に深手を負わせたのは、あなただったのね」
ドアを開け、ベルンたちの前に進み出るイリス。彼女の放つ威圧感に、ベルンたちは彼女が一歩進むごとに一歩、後退させられてしまう。
「あなたに止めは刺させない」
その足元から、異界――牙城結界――が、現実を侵蝕し、瞬く間に広がってゆく。
完成したのは、六角形の透き通った巨大な結晶柱が乱立する、蒼白の凍原。
「な……待て! 話を聴――」
「御主人様。無駄です。彼女はもう――その気ですから」
ヴァルター猫を遮り、ベルンは構えた。その体躯が見る間に膨張し、人虎へと変じる。
「銀を傷つける者――余さず砕いてあげるわ」
不吉な宣言の下、ベルンの間近に迫るイリス――その姿が、不意に消えた。
「なっ……消えた!? どのような魔術――」
「あなた、体の性能に頼り過ぎよ」
「――!」
真後ろからの声に、凍りつくベルン。
「修行さえ積めば、このようなこと。雑作もないわ」
何のことはない、イリスは単にフットワークでベルンの背後に回り込んだだけなのだ。
「くっ!」
ベルンの足元から跳びかかるヴァルター猫――だがそれは一撃で粉砕され、肉片と化して氷の地表に飛び散った。
「御主人様……ありがとうございます」
ヴァルター猫のお陰で幸いにも窮地を免れ、ベルンは間合いを取り直した。
「ヒトをやめてしまえば、ヒトのやること成すこと、全て脆弱で無にも等しいものに見えてくる……違う?」
全くの自然体で、しかしベルン同様の、猫科の獣の気配をまとい、歩み寄るイリス。
「寿命は事実上消え、身体能力も、ヒトの到底及びえない高みにまで底上げされるものね」
「何が言いたいのですか……」
気圧され、図らずも後退させられるベルン。
「私はヒトが好き。だから、あなたたちのような裏切り者は嫌いなの。ヒトは、命に限りがあるからこそ前に進んでゆく。それを放棄した不死者に、その営みを踏みにじる権利など……あるわけがないでしょう」
まるで鬼火を宿したかのように蒼白く光る眼で、イリスはベルンをねめつけた。
「っ……!」
言葉に詰まるベルン。
イリスの放つ、圧倒的な威圧感からだけではない。否定できない。彼女が言ったような精神性は、確かに自分の中に根付いている。
「銀は、私のせいで停まってしまっても、進み続けている。私と進んでくれようとしている。それを……」
ぎしっ……と、握られたイリスの拳が、こもった力に軋みを上げる。
「私固有の『力』は使わないことにしましょう――教えてあげるわ。ヒトの力というものを」
一歩で。
イリスはベルンの懐に入り込んでいた。
「くっ!」
反射的に爪を突き出し、迎撃するが――届かない。
「言ったわね、頼り過ぎだと」
腕をつかまれる感触とほぼ同時に、声が一回転する。次の瞬間、ベルンの背中は地表に叩きつけられていた。
柔道の一本背負いの要領で投げ飛ばされたのだが、本人は何をされたのか、とっさに理解できず、ベルンは倒れたまま呆然とイリスの顔を見上げた。
「力で敵わない相手を倒す方法も、ヒトは生み出しているわ。もっとも、私はまともに組み合っても負けるつもりはないけれど」
「くっ……!」
即座に起き上がり爪の連撃を繰り出すベルン。当たればヒトならざる身にも相応のダメージは必至の攻撃だったが、イリスはそれらの軌道をことごとく見切り、最小限の動作でかわしてゆく。
「ヒトは、牙を持たない。爪を持たない。代わりに、自分の体を使いこなし、より効率よく標的を攻撃する術を生み出した。それが、格闘技」
淡々と告げるイリスの体が、不意に沈んだ。切れ味鋭い下段蹴りが、ベルンの体勢を大きく崩す。
打ち込まれる、拳。
「ぐふ……っ」
それは多大な衝撃を伴い、ベルンを大きく吹き飛ばした。
「あなたは所詮素人。元が騎士だったヴァルターなら、少しはましでしょうけれど」
「く……ぅ……っ!」
懸命にもがきつつ、立ち上がろうとするベルン。しかし、よろけるだけで、まともに立つことができない。
見ると、胸郭が大きく陥没している。今の衝撃と共に凄まじい破壊が加えられたらしい。
「発勁。接触の瞬間に全身の力を一点に打ち込む技術よ。人間以上の力でこの程度では……私もまだまだね。どれほどなまってしまったのかしら」
手を開閉し、呟く。
「そろそろ終わりにしましょう。あなたとの一件で校舎が壊れてしまったから、銀の学校はしばらく休みなの。帰ってくる頃合いだから、お昼の用意を始めなくてはね」
サメのような、無機的な獰猛さがよぎったのも束の間、イリスは幸せそうに微笑んだ。
「彼と一緒にいられる時間が増えたことに関しては、感謝しているわ――さようなら」
「く……御主人様……!」
ベルンが呟いた刹那――ぎしり、と結界が歪んだ。
二人の視線の先で、結界が外部から強引に捻じ曲げられ、開いてゆく。
「私を凌駕する結界能力者――まさか!」
呟くと、イリスは先程までの威圧感がまるで嘘のように、怯えた様子で息を呑んだ。
「ご明察。私だ」
歪みの中から現れ、結界内に踏み込んできたゴルドーが、イリスに向かいにやりと笑いかけた。
「!」
それだけで、イリスの体に震えが走り、彼女を呪縛する。
「く……ぁ……っ」
とたんに苦しげな表情を浮かべ、脇腹を押さえるイリス。その部分の布地が、見る間に血を含み、濡れてゆく。
「グランドマスター……」
「大丈夫かね、ベルン。……おやおや、随分な惨状だ。手ひどくやられたものだな」
軽々と人虎の体を担ぎ上げるゴルドー。
「なぜこんな場所で、こんなことをしているかは、不問としよう。せっかくの手駒を失うのは惜しいのでね」
「……ありがとう、ございます」
複雑な間を置き、礼を言うベルン。だが、やはり、受けたダメージが大きすぎたのだろう。彼女はほどなく意識を失い、脱力した。
「待、ちな……さい」
歩き去ろうとしたゴルドーの足を、呻くようなイリスの声が止めた。
「何かね?」
「……セレナを、返して」
「ははは、できない相談だ。今回は命を拾っただけで満足しておきたまえ」
「できるわけが……ないでしょう……!」
ざわり、とイリスの周囲から強烈な霊気が立ち昇った。瞬時に彼女の足元にわだかまる影が濃くなり、ゴルドーに向かい猛烈な速さで這い寄る。
「ほう……『黒き顎』か。……イリス君、君は聡明な女性だと思っていたのだが――」
ゴルドーの影も同様に伸び、イリスの影に殺到する。
「過去の失敗に学ぶことはなかったのかね?」
ゴルドーの影がイリスのそれを圧すると同時に、イリス自身の体が切り裂かれ、血をしぶかせた。
「あう、ッ! ま、まだよ……!」
よろめきつつなんとか踏みとどまったイリスの手元に、白く霞んだ霧が生まれ、ゴルドーに向かって流れ出す。
「今度は『白き翼』か。なぜそうも徒労を繰り返そうとするのか――」
かざされたゴルドーの手からも白い霧が生まれ、やはりイリスのそれを圧して彼女を通過した。
わずかな間を置いて、イリスの全身に無数の深い爪痕が現れる。
「くあ……ぁ……っ!」
「大いなる階たる『神の欠片』に選ばれた『竜』ともあろう者が、ヒトのような下等な生き物の真似事をして、一体何が楽しいのかね?」
「だ……黙りなさい……裏切り者……!」
見る間に再生を終え、ゴルドーをにらむと、イリスは、手近に生えていた水晶の欠片をもぎ取り、投じた。
「超越者と言って欲しいものだが――何っ!」
肩をすくめ、それを難なく叩き落とすゴルドーの手が、接触の瞬間切り裂かれた。
虚をつかれ一瞬動きを止めたゴルドーに、イリスが即座に襲いかかった。その手が、黒曜石を思わせる黒いきらめきを帯びる。
「なるほど。悪あがきではなく、陽動というわけか。水晶の影に『黒き顎』を潜ませるとは考えたな」
動じた様子もなく、感心したように頷いたゴルドーの胸ポケットから。取り出されたボールペンが、槍と化す。
ずん! と漆黒の衝撃が走り抜け、イリスの手刀は軌跡の延長上にある地表を深々と切り裂き、えぐった――が。
「『新月刀』まで……そんな」
ゴルドーは槍の柄で手刀を受け止め、衝撃さえものともせず平然と佇んでいた。
「まあ、何にせよ邪魔なことには変わりがない。しばらく動かないでいてくれたまえ」
声と共に槍が翻り、イリスの手を地表に縫い止める。
「っあああああああッ!!」
「心配することはない。王器というものは、発動者の手から離れれば長く形質を保てんのだ。何分かすれば解放されるよ。――ああ、そうそう。礼を忘れていた」
イリスの絶叫も涼しい風と聞き流し、一旦は背を向けたゴルドーだったが、思い出したように振り返った。
「十八年前に、君が臆することなく私の前に立ち塞がってくれたお陰で、このごろはまた新たな見地から研究ができ、あまり退屈せずに済んでいるよ。ありがとう。では、さらばだ。もはや会うこともあるまい」
満足げに笑い、慇懃な一礼を送ると、彼は現れた時同様イリスの結界を歪め、去っていった。
「それは……どういう……う……あ……っ……いた……痛い……助けて……銀、ぎんん……!」
悲痛な泣き声が、イリスしかいない、彼女の創った異界に空しく響いた。