第十八話「衝動」
部屋の中は、いつしかカーテンの隙間から差し込む日光で明るくなってきていた。
「……明けた、か……」
呟いた銀の顔はすっかり憔悴していた。ただでさえ徹夜という行為に慣れていないのに、一晩中神経を張り詰め続けていたのだ。無理もない。
無駄口を叩く気力もなく、ただぼうっとイリスの寝顔を見つめる。
どれだけ凝視しても、今は何も感じない。
それが意味するのが、昨晩感じた正体不明の衝動の減衰なのか、あるいは単なる睡魔の来訪なのか、鈍りきった頭には判断がつかなかった。
「ん……ぁふ……ぅ」
思わずどきっとするような色っぽい声を上げ、身じろぎするイリス。
「ん……? あ……、おはよう、銀」
身を起こし、銀の姿を認めるなり、嫣然と微笑む。
「ああ、おはよう」
「……約束、守ってくれたのね」
「? 何のこった?」
「一晩中そばにいて、手を、離さないでいてくれたわ」
未だ離れぬ銀の手を、いとおしむように胸に抱くイリス。その柔らかな感触が、銀を赤面させた。
「は、放せよ!」
あわててその手を振り払う銀。
「ありがとう。私、本当に嬉しかった」
「れっ、礼なんか言わねーでいいんだよ。昨日の晩、少しでもおまえを不安がらせちまったのはオレなんだからな。一晩中そばにいてやるって言ったことを通しただけだ」
「『男に二言はない』?」
「人のセリフ取んな! う……」
立ち上がり、くってかかったとたん、銀はよろめいた。どうやら徹夜がこたえているらしい。
「銀?」
「何でもねーよ。昨日はちょっと血を流し過ぎたからな、多分貧血起こしてんだろ」
「そう? まあ、昨日の今日だものね。待っていて、今――」
「いい」
出ていこうとしたイリスを、銀は肩をつかんで遮った。
「え?」
「悪い……ちょっと出てくる。メシはいらねーや」
「そ、そう……」
「……悪いな」
どことなく不安そうなイリスに、もう一度言うと、銀は部屋を後にした。
「……効く……」
玄関を出たとたん、朝日の洗礼を受け、ふらつきながらぼやく。
本来ならば、さわやかなことこの上ない状況なのだろうが、睡魔の熱烈な抱擁を受けている身にとっては、苦痛以外の何物でもない。
(とりあえずここを離れるとして、……どっかの日陰で休むか……)
銀は重い体を引きずってふらふら歩き出した。
昨晩は意識がある状態でさえおかしくなってしまったのだから、少しその衝動が治まっているからといって油断して眠ることはできない。
最悪、イリスに襲いかかり、一切歯止めが利かないまま、取り返しのつかない事態さえ招きかねないのだ。
しかもイリスには、死さえ甘受しかねないところがある。それをもたらすのが自分だとすれば、恐らく何の抵抗もしないだろう。そんな事態は断じて起こしたくなかった。
傍にいてほしいし、自分もいたい。だから今は、いてはいけないのだ。
何気なく来てみた和泉一心流道場は、閉まっていた。
『急用のため、一週間ほど留守にします。師範 和泉篤郎』
――という張り紙を戸に残して。
「……マジかよ……」
頼れる人物の不在に、銀はがっくりと肩を落とした。
「……しょーがねえ、木陰でも探すか」
ぼんやり呟いた時だった。
「きゃあああっ!」
銀の耳に、どこからか悲鳴が飛び込んできた。
「悪の匂いなんか感じなかったぞ!?」
怪訝に思いつつ、銀は走り出していた。
「なんで?」
「私が知るわけないでしょ! 早く放しなさいよっ!」
顔を真っ赤にしながら、女が怒鳴った――興味しんしんといった風情で自分の胸をわしづかみにしている少女に。
しかし少女は無表情のまま首を振る。
「いや。手触りがいいから」
「あーもうっ! 何なのよこの子はっ!」
「どおうりゃぁーっ!」
離れないセクハラ少女に対する女の怒声と、急接近してきた気合いは、ほぼ同時に響いた。
ごっ! と鈍い音をさせて、横合いから飛んできた靴底が少女の頭を直撃する。
思いっきり吹っ飛ばされ、その勢いで回転する少女。しかし、彼女は即座に空中で体勢を立て直すと――自分を吹っ飛ばしたドロップキックを放った少年に引きずられ、去っていった。
「……何、今の……?」
あまりに突然の出来事に、女はただ呆然とその拉致劇を見送ることしかできなかった。
「ぬぁに考えてんだてめーっ!」
人気のない路地裏まで来て、足を止めるなり、銀は放り出した少女に怒鳴りつけた。
「あ、銀」
相も変わらず、その猫じみた無表情は見事なまでに崩れない――そう、鉄である。
「『あ、銀』じゃねえ! 朝っぱらから何セクハラかましてやがんだっ! うらや――もとい! けしからん!」
「せくはら?」
まるで理解していないのを見てとり、銀は手っ取り早く、ぱかん、と拳骨を一発、鉄の頭に見舞った。
「……痛い」
両手で頭を押さえ、銀を見上げる鉄。
「要はあんなことすんなってこった。解ったな?」
「ん……解った」
「よーし!」
鉄が頷くのを見、銀は満足げに彼女の短く柔らかな髪をくしゃくしゃっとかき乱した。眼を細めて、されるままに任せる鉄。その様、まさに猫。
「じゃ、あんまり人様に迷惑かけんじゃねーぞ」
そう言って、背を向け、歩き出そうとする銀を、彼女は黙って追い、その腕をつかんだ。
「? 何してーんだおまえ……」
「鉄も行く」
言うなり、銀の腕に自分の腕をからめる。
「どこに?」
「どこに?」
おうむ返しに訊かれ、銀はがくっと膝を脱力させた。
「……おい。オレがどこ行くかも知らねーくせについて来るつもりか?」
「ん」
案の定頷く鉄。
「男と女が一緒に歩いてるとき、腕をからめてる。それを真似したくなった」
「……ひょっとして、さっきやらかしてたのも、なんかの真似か?」
「違う。鉄には、あんなに大きなものが付いてないから、不思議だった。鉄のは、あんなにふかふかしてない。ほら」
「ぶうっ!!」
手をつかまれた上、何のためらいも恥じらいもなく胸に導かれ、銀は仰天して思わず噴き出した。
あっという間に頭に血が上ってゆく。
(確かに、イリスあいつほど大きくはねーけど、別に平面というわけでもねーな。単に小ぶりなだけだ……って、オイ! 何考えてんだオレはあぁっ!)
「?」
自分の胸をじっくり揉みしだいた挙げ句そばの壁に頭をぶつけ始めた銀を、鉄は怪訝そうに眺めた。
「何してるの、銀」
「――はっ!」
ようやく正気に返り、銀は動きを止めた。そして、鉄に視線を戻す。
「……てめー、ほんとに何考えてんだ?」
「何も」
「……うん、考えてなさそうだ」
寝不足以外の頭痛がして、銀は思わず眉間を押さえた。世間知らずなのか何なのか……この少女はどうにもわけが解らなさ過ぎる。
「行こ、銀」
小柄な体躯には意外なほどの力で止まったままの銀を引きずり、鉄は歩き出した。
「……放せよ」
「いや。放さない」
首を左右に振る。
「……噛むぞてめー……」
凄味を利かせて言う銀。少なくとも、この鉄という少女も嫌いな存在ではない。巻き添えにはしたくなかった。
「鉄も銀を食べたから、あいこ」
銀の考えなど露ほども知らず、鉄は、その脅しに対してあっけらかんと言ってのけた。
「……けっ、負けたよ。言っとくけど後でどうなっても知らねーからな」
「大丈夫。鉄は大抵のことじゃ死なない」
やはり淡々と言う、鉄。
「言ってろ」
もはや反論する気力も失せ、毒づく銀。
そんなこんなで、二人は歩き出した。
日傘が、揺れる。
何の変哲もない住宅地、その民家の間を、恐ろしくそこには不似合いな存在の姿があった。
メイド。少なくとも現代日本ではすた廃れているはずの存在。それが、日傘を差し、黒猫を抱き、肩から赤い剣を下げて歩いている。
「――ベルン」
「はい、何でございましょうか、御主人様」
不意のバリトンに名を呼ばれ、蜜色の髪をしたメイドは足を止め、胸に抱いている黒猫を見た。
果たして、その猫が口を開いた。
「お前は、あの旧き騎士と会って話したいことはあるか?」
「いえ……できれば、あまり会いたくは」
「なぜだ?」
「わたくしが深く知るべき殿方はヴァルター様だけでございます――ああ、ここですね」
絶句するヴァルター猫を放って、ベルンは『影山』の表札がかかった家のチャイムを鳴らした。