第十五話「休息」
紅……朱……赫……丹……緋……赤……。――あか。それは、夕焼けの色、炎の色、……血の色。
あかが広がっている。
里の全てがあかに包まれている。
動くのは、風に揺られる炎と、髪――無数の骸たちと、自分の。
それともう一つ。
立つ人影。
あかい翼。
二つの顔。
笑う男。
泣く娘。
笑いがやむ。
泣き声が高まる。
男が近付いてくる。
男が手を伸ばす。
その手は――こちらに。
「イヤああぁぁああぁああああッ!」
自分の悲鳴で目が覚めた。不確かな意識のまま、自分に触れていた手を全力ではねのける。
「いってえええっ!」
ごしゃっ、という鈍い音と共に、そんな悲鳴が聞こえた。
「え……あ」
それは――銀だった。振り払ったお陰で、壁にめり込んでいた。
「珍しくオレの方が先に目が覚めたかと思えば、これかよ。ったく……」
「ごめんなさい……」
ご機嫌ななめでベッドに横たわる銀の手をその傍らで診つつ、イリスは詫びた。
「昔あったことを、夢に見てしまったの」
「昔のこと、か。まあ……そりゃ仕方ねえ。オレの運が悪かったってことだな」
「いえ、非があるのは私の方よ。……うん、骨に異常はないわね。よかった」
ほっと息を吐いて、イリスは銀の手を離した。
「……医者の修行もしたのか? ずいぶん随分てな手馴れてるみたいだけど」
ふと、銀が丁寧に包帯の巻かれた胸を見下ろし訊く。
「惜しいわね。看護婦をしていたの。基本的な医療技術も見様見真似で覚えたわ。いずれ必要になると思って」
「……すげえ」
文字通りの生涯学習だ。恐らく、機会さえあれば、彼女は手当たり次第に技能を修得しているのだろう。こうして見ていると、彼女にはできないことなど何もないような気さえしてくる。
「胸の傷は、とりあえずお裁縫用の針と私の髪で縫合しておいたわ。フォルティスであるあなたなら、化膿や感染症の心配もないでしょう」
ちなみに、実際手術で縫合に使われる糸は、絹、またはキチン繊維など、拒絶反応を誘発しづらい、または人体に吸収されやすい、生体由来の材質でできている。応急処置に使用する場合も、木綿糸と毛髪とでは後者を選択する方がより正しい。
「聴いてる限りじゃめちゃくちゃ痛そうだな。麻酔なんか当然なしだろ?」
「ええ。あなたが気を失っていてくれて本当によかった。それより――」
イリスは不意にじっと銀の目を見つめた。
「な、なんだよ」
「何をしてきたの? この傷は、どう見ても爪痕よ」
「鋭いな……そりゃあ動物園行ってきたなんて冗談言うつもりはなかったけどよ」
「茶化さないで」
ぴしゃりと一喝。これが真剣になったイリスなのだろう、今まで見たことのない、しかし重ねた年季相応の凄味に、銀はしぶしぶ口を開いた。
「……怪人と一戦交えてきた」
「何ですって?」
「安心しろよ。ちゃんとぶっ飛ばしてきたから、おまえが危ない目に遭うこたね……いてて」
痛みに顔をしかめつつ胸を張って言う銀。
ベルンは最初から銀を標的に襲ってきているのだから、イリスが危険にさらされることはない。
嘘はついていない――真実全てを伝えていないだけだ。
「……あなたが危ない目に遭っては意味がないわ」
呟きは小声で、しかも早口だったため、銀の耳には聞き取れなかった。
「え――!」
訊き返したとたん、銀はイリスの手で両頬をはさまれ、真正面から彼女と向き直らされていた。
(うわ……なんてこった。まともに顔が見られねえ)
押し寄せるどうしようもない後ろめたさに、銀は自分がどれだけイリスのことを気にかけていたかを思い知った。
「いい、銀。私ももう戦える。だから、危ないと少しでも思ったのなら、意地を張ったり、無理をしたりせず、私を頼って。私もそうするから」
この状況は、今朝の出来事を、ひいては昼の鉄との一件を、より克明に思い出させる。
勝負は最初から決まっていた。イリスの眼差しを正視できない銀に、逆らう手段などあろうはずもない。
「わ……分かったよ」
それでも精一杯の虚勢を張って、しぶしぶといった風情を演出してみせる。
「うん、それならいいの。待っていて、何か精のつくものを作ってきてあげるわ」
上機嫌で部屋を後にするイリスの背中に、銀は黙って手を合わせた。
(悪いな……。もうしばらくだけ、意地張らせろ)
せめて……ベルンやその相方の吸血鬼との決着がつくまでの間は。
余計な心配はかけたくなかった。
「……ごちそうさん」
「相変わらず、いい食べぶりだこと。作り甲斐があるわ」
銀から受け取った皿を盆に移して、イリスは嬉しそうに微笑んだ。
「んなこたいいから、ベッドから出せよ」
「駄目よ」
への字口でぼやく銀にイリスの即答。
この問答、実はこの数時間で何十回も続けられている。
イリスがずっと『あなたは普通のヒトなら面会謝絶級の重傷なのよ。黙って看護されなさい』の一点張りで、銀をベッドから一歩たりとも出してくれていないのだ。
既に日は暮れ、決着をつけるべき約束の時は来ているというのに。
「トイレはどうすんだよ」
焦りを抑えつつ訊いてみる。案外これはいい突破口かも知れない。
「そう……ね、そういえば、一般家庭に尿瓶など置いてあるわけもない……」
「……マジ?」
本気で考え込むイリスの様子を見て、銀は真っ赤になり、次いで蒼くなった。
胸に深い傷を負ったとはいえ、他の部分は全く問題なく動く。それにもかかわらず無理矢理寝たきりにされ、さらにそんな、とびっきりの恥さらしなど……。
「じょっ、冗談じゃねーぞ!」
「銀! もう、おとなしくしていて!」
「だああ! 離しやがれ!」
自分を押さえつけようとするイリスともつれ合い――気が付いた時には、銀が逆に、イリスをベッドに押し倒す格好になっていた。
白いシーツに、月明かりを受け輝く白金がこぼれている。
「あ……わ、悪い……?」
招いてしまった状況に戸惑い、詫びて離れようとした銀の服の裾を、イリスはとっさにつかんでいた。
「?」
「あ……一緒に、寝てくれない?」
「は?」
「さっき見た夢が、まだ尾を引いていて……怖いの」
「おい……こら。オレは男だし、おまえももうロリじゃねーんだぞ? 寝てるおまえ見てその気になっちまっても知らねーからな」
「……銀、なら。銀に――触れていたい」
そう言って、イリスは頬を赤らめ、目をそらした。
「!」
「――少しくらい乱暴でも、私は壊れたりしないから」
続いたその言葉が、銀の熱を一気に冷ました。
「おまえ……」
「……どうか、した?」
イリスは訝しげに、突如として沈黙した銀を見つめた。そこには何の気負いもない。
彼女はただ、銀を気遣っただけ。自分は頑丈な「物」で、本来気遣う必要などないのだと、そう言ったのだ。
違う、絶対に違う、と銀は思った。
悲しい眼をする存在が、頑丈だろうと何だろうと、雑に扱われていいはずがない。そこには絶対に、心があるのだから。
永い時は、それと意識させないうちに、彼女の心に深い傷を刻み込んでいたのだ。痛々しいイリスの姿をそれ以上見ていられず、銀は彼女をきつく抱きしめていた。
「ぎ……銀?」
「知ってるよ。確かに、おまえはデタラメに頑丈だ。象が踏んだって壊れやしねえだろーよ。でも、でもよ。中身はどうなんだよ……。オレ、おまえのつらくなることなんか、したくねえよ……」
首筋にこぼれる雫の感触に、イリスが眉をひそめる。
「銀……泣いているの?」
「うっせーな、男が、んな女々しいことするわけねーだろ」
そう言う銀の声は鼻にかかり、こもっている。
「――ああ、ちくしょーめ!」
不意に銀が怒鳴った。
「気の利いた言葉が出やがらねえ! もっと真面目に国語の勉強しときゃ良かったぜ!」
「銀……耳、痛いわ」
「あ、……悪い。言ったそばからやっちまった」
「ううん、いいの」
言って、イリスは銀の腕に自分の手を添え、銀に体重を預けた。
「あなたに触れているだけで、私は安らげるから」
「変なこと言うんだな」
「変じゃないわ……教えて……あげる。私、あなたの元へ……のは、本当、……は、偶然じゃ、ないの」
既に睡魔に囚われつつあるのか、その言葉は途切れがちで、口調もふわふわと頼りない。
「え」
「惹かれた……。あなたから……何か、知ってる……匂い、した……の…………」
言葉はどんどん小さく、尻すぼみになり、やがて語尾はそのまま寝息に変わっていた。
「……案外疲れてたんだな。夜に寝付く吸血鬼ってのも変なんだか、可愛いんだか……」
ずっとそのままでいたいような気もしたが、先約がある。できる限り優しく、そっとイリスを離し、横たえると、銀は窓を開け、ベランダへと出た。
空には、銀色の欠けた月。
月を見上げて伸ばした手を拳に変え、月を握りしめる。
拳からあふれ出す青銀の光の中、少年は漆黒の魔人へと変じていた。
ベランダから、跳躍。
白銀の軌跡を残し、その姿は闇の中へと溶け消えた。