第十話「縦糸」
――そこは、寒くて、寂しくて――
――でも、彼女がいる間だけは、違った――
「……?」
夢を見た。内容自体は既に薄れ始め、ほとんど思い出せなかったが、どことなく懐かしい気がした。
目が覚めてみると、そこはまた自分の部屋だった。
なぜか、体が凝って疲れている。だが、ほんの少し視線を横にずらしただけで、それに対する疑問は氷解した。
隣には、思わず見惚れるほど安らかな顔で寝息を立てるイリス。
わざわざ説明するまでもなかろうが、シングルベッドというものは名の通りシングルつまり一人用である。そんなものに二人して眠れば窮屈で疲れる。当然だ。
それぞれの着衣は乱れていない。こんな状況下で寝返りなどうてるはずもなく、いわゆる「間違い」がなかったのは明白だ。
「……!」
彼女がどんな目に遭ったかを思い出し、蒼くなる。
「おい……大丈夫、なのか?」
恐る恐るその肩に手をかけ、揺する。
「……大丈夫よ、銀」
思いのほか早く、すぐに反応が返ってきた。
「月の悪影響を受ける時期は昨晩で終わり。あなたが私を護ってくれたお陰で、すっかり復調したわ。再生も完全に終わったから、もう傷もない。……だから、そんな泣きそうな顔しないの。男前が台無しよ」
目を開き、銀の頬に手を触れ微笑むイリス。
「だっ誰がいつ泣きそうな顔したよ! 大体、てめーはなんでそんないきなり起きられんだよ? 寝たふりしてたんじゃねーだろーな?」
安堵への照れ隠しもあって、矢継ぎ早にまくし立てる銀。
「あら、ばれていた?」
「……。なに考えてんだおめー」
あっけらかんとした答えに、憮然とした顔で訊く。
「そうね、例えば、こんなこと」
その言葉が耳に入った時には、もう倒されていた。
「え……」
間近の顔。手首は頭の上で押さえられ、さらりとこぼれた髪と、熱い吐息が、首筋をくすぐる。
自分の身に何が起こっているのか、よく解らない。
「あなたは無防備な女性に何をするかな、と思って。まず一番に傷の心配をしてくれるなんて、優しいのね」
上機嫌で目を細めるイリス。その表情が、不意に歪んだ。こぼれた雫が銀の頬に弾ける。
「お、おい?」
「……どうして?」
「?」
「どうして……あなたはそんなに私のそばにいてくれようとするの? 私はあなたが命を賭けるほど価値のあるモノじゃない……むしろ災禍を呼ぶだけだというのに」
「……言ったろ。おまえの背中は見たくない。すぐにも消えそうで、いやなんだよ。実際、二度とも死にに行ってたわけだからな」
「それは……あなたに危険が及ぶから……」
「ほっとけねえんだよ、おまえみてーなバカは」
「……私の百分の一も生きていないあなたに、どうしてそこまで言われなければならないの?」
「だってバカだし」
即答。
「は……」
「オレを来させたくなかったら落とし物すんな。思わせぶりなセリフ吐くな。長生きしてるくせに思慮浅すぎだボケ」
「う……」
痛いところを突かれ、イリスは困ったように眉を寄せた。こうしていると、永い年を経た吸血鬼にはとても見えない。
妙に愛らしいし仕草に思わず見とれている自分に気付き、銀は赤くなって目を逸らした。それに気付いて、イリスもまた赤くなり、沈黙する。
しばし静寂が場を支配し……イリスが銀を解放した。
起き上がって訝しげに自分を見る銀に、
「確か……朝はフランス料理がお望みだったわね。用意して待っているわ」
はにかんだように、だが心の底から嬉しそうに微笑んで、部屋を後にした。
「黒い……真紅の滅びをもたらすフォルティス、か」
男の言葉に、鉄は黙って肯いた。
「まだそんな血が残っていたとはな……」
呟き、そしてふと思い出したように顔を上げる。
「……いや、あるいは……十八年前の……?」
答えを要求されているわけではなかったため、少女は首をかしげる男をただ見つめていた。
「ねえ、銀?」
「?」
猛烈な勢いで食べ続けていたところに声をかけられ、銀はしぶしぶ手を休めた。
「あの後ナァクはどうしたの? ごめんなさいね、せっかくの食事をまずくするようなことを言って」
「ああ、あいつか? 逃がしたぜ。ボコボコにした後な」
「……殺して、ないの?」
ぽろっと洩れた言葉に、むせそうになる。
「物騒なこと言う奴だな。殺した方が良かったってか?」
「理屈から言えばそれが一番安全だけれど……」
「だろうな。だから、必要ならいくらでもやるぜ」
否定につながろうとしたイリスの言葉をさえぎり、銀はそう言った。
「え……?」
「やるこた決まってんだ、細けえことにびびってられるかよ。……オレはもう、あの頃とは違って逆らえるからな」
(もう、あの頃……?)
イリスの脳裡に、蘇るものがあった。
『イリスさん』
『何かしら、和泉さん』
『あなたがどんな世界に銀くんを連れて行くつもりなのかは知らない。でも……できれば彼を護ってあげてくれないかな』
『どういう意味かしら? よく解らないわ』
『銀くんは確かに、昨日とは段違いに強い。でも、それは技の上達なんてものじゃないんだ。そうだね……たとえて言えば、生き物としての力が跳ね上がっている』
『!……鋭いわね。そうよ、彼は私が変えたわ』
『銀くん自身あなたを嫌ってはいないようだし、僕はそのことに対して何も言うつもりはないよ。ただ、彼は、多分あなたが思っているよりずっと弱いんだ』
『あれだけまともにあなたと打ち合っていて?』
『精神面の話だよ。昔不幸があってね。彼はどうしようもない無力感を味わったらしい。だから、初めて会った頃は、ただひたすらに「力」にこだわり、荒れていた。もしもう一度自分の無力さを思い知らされれば、彼は……』
剣戟の末に銀が気絶した後の、篤郎とのやりとり。
アトラッハとの一件の後も銀が正気を保っていたのは、自分が生き延びていたからということになる。それを自ら否定するべきではなかったのかも知れない。そんな考えがイリスの表情に影を落とした。
「訊かねーのか?」
話を打ち切ろうとする気配を感じ、銀が怪訝そうに問う。それはそうだろう。いきなり物騒なことを言われて、理由を訊かない方がどうかしている。
「つらくないのなら」
陰に潜む痛々しさを見てとり、イリスは言った。篤郎の話は関係ない。例え聴いていなくてもそうしただろう。
より鮮明に思い出さざるをえない記憶によって歪むであろう銀の表情を、正視できそうにない。
「気にすんな。おまえも昔のことオレに言ったんだ、オレだけは秘密、ってのはずりいぜ」
一呼吸置いて。
「オレの母ちゃん、殺されたんだよ。オレの目の前で」
「……!」
「通り魔だった。殺人鬼ってやつさ。オレは何もできなかった。一発殴られただけで動けなくなってた。そう……弱くちゃダメなんだ。何もできない」
みしっ、という音が銀の手元からした。見ると、爪が手に食い込み、血を滴らせている。
「自分が血をどばどば流して死のうとしてるってのに、目の前でぼーっと突っ立ったまんま何もできずにいるバカに向かってな、母ちゃん、笑って言ったんだぜ。『無事でよかった。銀が生きているなら、構わない』って。……ったく、バカな人だったよ。最近は特に似てきちまったみたいだけどな」
「?」
「なんでもねえ! 話はこれで終わりだ――それより!」
乱暴に涙とはなをぬぐって、銀は余計なことを言われないうちに話題を変えた。
「そもそも、おまえなんで狙われてんだ?」
最初に訊いておくべきだった、基本的な疑問をぶつけてみる。
「そうね……賢者の石、と言うものを知っている?」
「? いや、知らねえ」
「不老不死や、元素変換――卑金属を貴金属に変えること、無から有の物質創造さえ可能にするという、錬金術最大の秘宝よ。そして――」
一旦言葉を切り、イリスは自分の胸に手を当てた。
「私の体内には、それによく似た『神の欠片』と呼ばれるものがあるらしいの。彼らに私が狙われているのは、そのせい。ウァリドゥスも、元々私を斃すために研究開発されたものらしいし」
「へえ……そんなご大層なもんが体の中に、ねえ」
「銀は……そういうことに興味はないの?」
全くもってつまらなそうな反応に、イリスは怪訝そうに訊いた。
「ねえ。うまいもん食ってのんびりできりゃそれでいい」
「そう……」
それを聞いて、イリスの口元に、笑みが浮かび、そして消えた。
「彼らは、私……いえ『神の欠片』を手に入れるためには手段を選ばないでしょう。そうなれば、あなたもまた、何度も命を賭けることになってしまう。……それでも、私を放っておけない? 私は、そばにいていいの?」
「てめーしつこいぞ」
言うなり、銀はイリスの脳天にチョップをお見舞いし、ごちそうさん、と席を立った。
「留守番よろしくな」
「いたた……え……それって……」
怪訝さと微かな期待の入り混じった顔で問うイリスに答えず、銀は玄関へとすたすた歩いていった。
「――あ、そうだ」
と、玄関口までついてきたイリスを振り返る。
「もう学校くんじゃねーぞ。はた迷惑だからな」
「私はあなたの中にいられるようだし。だから、大丈夫よ」
微笑みが返ってきた。
「……。ま、いっか。じゃ、行ってくるぜ」
意味がよく解らないまま、とりあえず頷きドアを開く。
「あ、そうそう、銀」
何気ない声に振り返った時にはもう、イリスの顔が間近にあった。柔らかな感触が、問い返そうとする声を奪う。
自分からしたくせ、イリスは頬を染めながら唇を離した。
「……私のお母さんの、おまじない。今日一日、幸運に恵まれますように。……行ってらっしゃい」
「あ……ああ……」
おまじないにしたって刺激が強過ぎる。と思いながら、銀は恥ずかしげに微笑むイリスに背を向け、ぎくしゃくと歩き出した。
銀を見送り、青空を仰いで、イリスはまぶしそうに目を細めた。