第一話「凶兆」
よく夢を見る。
触れれば切れそうなほど細い銀色の三日月を背に佇む、美しい銀髪の女。その整った美貌には、底知れない愁いが漂う。
それが誰で、なぜ自分がその夢を見るのかは解らない。だが、物心ついてから、不規則とはいえその姿を見続けてきた。だから、それは自分にとっての理想像のようなものなのかも知れない。
今夜は、今まで見慣れていた絵画のような夢とは、少し違っていた。なぜなら、彼女がこちらを振り返り――目が合った。
それは、美しく澄みきった瑠璃色……。
目が覚めたらロリがいた。
ロリ。ロリータの略。幼女好きに対する幼女の典型例。要するに女の子供。
見たところ幼稚園児……せいぜいでも小学校低学年。身長に余りある長い白金の髪、細く凹凸のない小柄な体にまとっているのは、黒いぼろ布だけ。そんな姿が、ベッドの中、自分にぴったり寄り添って眠っている。
カーテンの隙間から差し込む日光で明るい部屋の中。
影山銀は身を起こすと、寝相の悪さというよりも元からの硬さで激しく逆立っている黒髪の手入れもとりあえず、自分の頬をつねってみた。
痛い。現実なのは確からしい。
次いで、蹴る。ベッドから落下した幼女の頭が床に激突し、ごちんといい音をさせた。
何はともあれ、わざわざ見知らぬ奴を自分の布団の中に入れておく義理はない。銀は再び布団に潜り込んだ。
「いたたた……」
幼女が立ち上がったようだが、銀の知ったことではない。まだ眠いのだ。
「こ、こは……ああ、そうだったわ」
一人で納得し、部屋の外へと歩き出す……が、そこでバランスを崩し、ぽてっとその場に倒れて動かなくなった。
数刻後、銀は本格的に目を覚まし、ベッドを抜け出した。そこでようやく、床に突っ伏したまま動かない幼女の存在に気付く。
「ん……?」
銀は一人暮らしだ。母は既に亡く、父も大型客船の船長という仕事柄、年に数度しかこの一戸建てに帰って来ない。
やろうと思えば何をしても咎める者はない。しかし、だからといって自分にロリコンの趣味はないし、当然通りすがりの小学生を拉致してきた覚えもない。
「誰だおまえ?」
「…………私?」
けだるげにもそもそと上体を起こし、獣を思わせる縦長の瞳孔を持つ深い瑠璃色の眼で、銀を見上げる幼女。
「……通りすがりの吸血鬼」
「人ん家の部屋ん中に通りすがるなっ!」
幼女が答えるなり、銀のチョップがその脳天に炸裂した。
「い……痛い」
「ったく、言うに事欠いて吸血鬼だ? 朝っぱらからバカ言ってんじゃねーよ。一体どっから入って来たか知らねーが……ぅわ臭っ!」
幼女の全身から漂う生臭い異臭に気付いて、銀は大きくのけぞった。
「……あ」
言われて、幼女自身も自らがまとうぼろ布に鼻を寄せて臭いに気付くと、気まずげに口をつぐんだ。
「あの、ええと……きゃっ!」
弁解をしようとした矢先、猫よろしく襟首をつかまれる。
「ちょっ、な、何を?」
「くせ臭えから洗えーっ!」
訊いた時点で幼女は返事とともに風呂場に放り込まれていた。あまりの勢いに、びたーん、と音を立ててタイル張りの床にのびる。
「い、痛い……また?」
ぼやきつつ、打ちつけて赤くなった鼻を押さえ、幼女はぼろ布を引いた。
ばりばりと音を立てて赤黒い粉を散らしながら、ぼろ布が未練がましくそのか細い体からはがれ落ちた。
「食わねーのか?」
「朝は弱くて……」
自分の分までしっかり並べられた皿を前に、困ったように首を軽く横に振る幼女。その表情や物腰は、未成熟な容姿に反して老成した落ち着きをたたえており、神秘的とも言える違和感をかもし出している。
ちなみに、さっきまでまとっていたぼろ布は、体からはがれた時点で粉々になり、もう使い物にならなくなっていたため、今は白いティーシャツを着、腰には薄緑のシャツをスカート状に巻きつけている。両方とも元々は銀のものなのでサイズが合わず、だぶだぶだ。
「朝メシは一日の始まり! いい加減に扱うと、いつまでもガキのまんまだぞ!」
「今はちょっと……血の方が」
「まだ言うか。大体、この朝っぱらになんで吸血鬼がのんびりテーブルについてんだよ」
「あなたが引きずってきたようなものじゃない……。日の光のことなら、私はちょっと丈夫だから、平気」
日光を浴びると灰になる。吸血鬼の有名な弱点を、最初から無視しているらしい。
「ニンニクは?」
「平気」
「十字架」
「純銀製はちょっと……」
「本当に吸血鬼か、おまえ」
「本当よ、ほら」
幼女は上唇を押し上げ、発達した犬歯を見せた。表面が微妙な桜色をしているのが、幾度となく血液に触れたためだとすれば、確かに説得力がある。
「へー、やっぱ世の中広いんだな」
あっさり納得すると、銀は食事を再開した。
「……それだけ?」
「大の男にぎゃーぎゃーわめいてほしいのか?」
「まあ、そういうわけではないわね」
「ところで、本っっっ当に食わねーんだな?」
「え、ええ」
「そーかい。せっかく用意してやったってのによ」
口で言うほどは気分を害しているわけでもないらしく、二人分の朝食を半ば以上喜々としてばくばくかっ込む銀。
「……あ、そういやまだ名前訊いてなかったな」
「私は、イリス。イリス・リヒトホーフェン」
「オレは影山銀。で、なんで人の布団に勝手に入ってた?」
「それは……、昨晩この辺りをまわっていたのだけれど、ここに来た時点で力尽きてしまって。もう動けそうになかったから、せめて人目を避けられないかと、お邪魔させてもらったの」
「はた迷惑な奴……あ、じゃあオレの血も吸ったのか?」
「いいえ……って、ひょっとして、くれるの? 助かるわ、少なくとも今は吸って吸い過ぎるということがないから」
「腫れたり痒くなったりしなけりゃな」
「……蚊ではないのよ、吸血鬼は」
イリスはがっくりとうなだれた。
吸血鬼と蚊、いくら同じ「血を吸うもの」であっても、同列に論じられるのはさすがに――。
「あーっ!」
不意に銀が大声を上げ、それに驚いたイリスが思わず身を震わせた。
「な、何?」
「遅刻だ! やっべええっ!」
時計を見て再び叫ぶと、銀はとたんにばたばたし始めた。食卓の前を行き来するうち、見る間に支度が整ってゆく。
あっという間にまとわれた学生服。首には季節をまるで無視した、長く幅広の真っ赤なマフラー。おまけに、背中の竹刀袋には年季の入ったぼろぼろの木刀。
「後よろしく! 行って来ますっ!」
「え、ちょっと……?」
何か言う暇もない。ドアの閉まる音だけが無情に響いた。
「……ついさっき知り合ったばかりの相手に、自分の家なんて預ける、普通?」
イリスはあっけにとられて呆然とつぶやいた。
が、しばらくすると椅子を流しへ押していき、上に乗って食器を洗い始めた。
こちらもこちらで、律儀な性格をしていたらしい。
「うおおおおっ! やっべえぜぇぇぇっ!」
はた迷惑にも朝っぱらの路上で叫びつつ、雨上がりの湿ったアスファルトから泥を跳ね上げて疾走する銀の姿は、予鈴の鳴り響く校舎へと瞬く間に吸い込まれていった。
ぎりぎりセーフだ。
「よお、相変わらずの走りっぷりだな」
息も荒く、汗だくで机につ突っぷ伏す銀に、声がかけられた。
「……孝次か」
顔を上げた先には、銀ほどではないにしろ、逆立った、茶色い髪の少年。
御堂孝次。ひょんなことで知り合って以来、よくつるむ仲だ。
「どーした? また面白いサイトでも見つけたか?」
だるさを隠そうともせず応える銀。
悪い奴ではないのだが、この(自称)情報通は一旦しゃべり出すとなかなか止まらないため、激しい運動の後に相手をするのは結構つらいのだ。もっとも、その「激しい運動」をせざるをえない状況を招いているのも自分なのだが。
「……ってことは、まだ知らないんだな」
「何がだ?」
「昨日、殺人事件があったらしいんだよ。すっげえんだ。被害者、上半身をごっそり吹き飛ばされてて、見つかってるのが下半身だけだって話だぜ」
「うええ……とんでもねえな」
そういうどうでもいい時に限ってたくましくなる自分の想像力が恨めしく思え、銀は顔をしかめた。
「だろ? どうすればあんなことできるんだろな?」
ことさら大げさに身震いして見せる孝次。
「ああ」
「あ、そうそう。おまえの家の近くでも、集団貧血事件が起こったらしいな。今朝ニュースでやってたけど」
「集団貧血? そこら中で血が足りなくなったってことか?」
「ああ、そうらしい」
「血……」
いるではないか。他人様の血を減らす存在が。自分の家に。
「……あのロリガキ……」
「ロ……何?」
「なんでもねえ」
「そっか。あとな、……ありゃ、もう来ちまった」
また何か言おうとしたところで、やって来る教師の姿を認めた孝次はしぶしぶ話を中断し、席に戻ってゆく。
そうして、日常がいつも通り始まった。