#9
耶神は月光に反射する田園を眺めた。水面に映る自分の影はひどく歪な形で、膝元しか高さがない。異様な妖怪のようだ。人には見えない。
異形だ。それはその日その時、その場所で姿を変える。
『あなたにもいつか好きな人ができるかしら』
幼い頃に母と交わした会話を思い出していた。一緒に寄り添って、闇に浮かぶ満月を見上げていた、あの静かな夜。
母は月と同じだった。真っ白で真ん丸で、どこにいても輝いている。母が傍にいれば他に誰もいらなかった。好きな人なんてできなくても、ずっと楽しく生きていられる。
その想いが断ち切られたのは本当に突然だった。梅雨入りして間もない雨の日のこと。いつものように外へ出かけた母の帰りを待っていた。何故かそのときは落ち着かなくて、神社の周りを何周も回っていた気がする。それでも『いい子で待っててね』と言われたから、その言いつけを守って母の帰りを待っていた。
雨はちっともやみそうにない。けど髪や体がぬれることなんてどうでもよくて、木陰から身を乗り出して外を眺めていた。草木の間からわずかに見える、町の風景。ここで生まれて、ここで育った。大好きな町だったんだ。例えこの町の人全員がこの神社を忘れても……俺と母の二人で守っていけばいいと思って。
緩やかに、しかし確実に時間は過ぎていく。
雨が止んだのは辺りが真っ暗になってからだ。けど母の姿は見えない。いくらなんでも遅すぎる。心配になって境内から飛び出し、階段を駆け下りた。いい子で留守番するという言いつけを守ってる場合じゃない。車道を突っ切って、畑道を通って、家屋の多い町の中心へ向かった。
そこで見た光景は未だに忘れられない。きっと息絶えるその日まで。
『……可哀想にね。急に飛び出してきたんだよ。帰りを待ってる子どもでもいたのかな』
瞼の裏に焼き付いて離れない。そこにはたくさんの人達に囲まれて、車道で横たわっている母の姿があった。




