#1
山中の神社から十五分ほど歩いて向かったのは、田園の中にぽつんと建っている小さな民宿、松風だ。外にある看板が小さいため一見ただの民家に見える。宿泊客も一年に数組いるかいないか。だから普段は家庭料理を振舞う食堂を経営している。
夜は仕事仲間が集って小さな宴会をすることもある。ここも町の大人達にとっては大事な場所だ。
胡内はこの町に来てからずっとここに泊まっていたらしい。管理人の老夫婦は物腰が柔らかく親切で、素直に居心地が良かったという。夜中に散歩へ出ていいか訊いたときも表情ひとつ変えず、おすすめのルートを教えてくれた。子どもはいないそうだが、仲が良い夫婦だった。
生涯の伴侶とは彼らのような関係を言うのかもしれない。
理想の絆……いつか自分にも、そんな存在ができるだろうか。
耶神は冷たい床を歩きながら想見した。
「こんな時間だけど、宿の人にお願いしておくからお風呂に入っておいで。その間に汚れた服洗濯しちゃうから」
「えっ」
胡内は自分が利用している客室へ耶神を案内した。その後タオルと浴衣を用意し、彼の手を引く。
「風邪ひくといけないからさ」
「いっ、いや……大丈夫です」
しかし耶神は風呂に入ることを嫌がった。
それも尋常ではない嫌がり方だ。浴室まで連れて行ったものの、ただ遠慮しているわけではなく、湯気の立った浴槽を見て絶望しきった顔を浮かべている。まるでこれから断罪される罪人のようだ。
まさかと思いつつ、一応尋ねてみる。
「あの、ひとりじゃ……ちょっと怖くて」
耶神は胡内の袖を掴み、露骨に目を泳がせた。
風呂に入りたいわけじゃない。入れないことを分かってほしかった。理由はひどく単純で、情けないもの。
「……お湯って、やっぱり熱いですか?」
怖かったのだ。温かい水とは、まるで魔法のような存在。自分とはまるで縁のないものだった為、扉から中を窺って警戒していた。
そんな様子の耶神を、胡内は可笑しそうに見ている。
「そうだねぇ。熱くないとお湯じゃないからね」
確かに……。
正論過ぎて嘆息が止まらない。我ながら馬鹿な質問をしてしまった。申し訳ないのと、顔から火が出そうなほど恥ずかしい。
けどどうしようもないのだ。火というもの自体がたまらなく恐ろしいので、やっぱり熱を持った水は怖い。できれば入りたくない……。
そして、それを見透かされることも恥ずかしい。
「そうか。耶神君はお風呂に入ったことないんだ?」
その一言は、心臓を握られたのと同じだった。馬鹿にされたような質問でもある。本当なら「違う」とすぐに否定しないといけない。
でも、その一言が言えない。震えながら俯いていると、大きな掌がシャツのボタンを外しにかかった。
「こうしてる間にも風邪ひいちゃうし……怖かったら俺も一緒に入るから、お風呂に入ろう?」




